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「必要条件」と「十分条件」を理解しない“クィア主義者”kazukazu(kazukazu881)が陥る「(裏返しの)性器至上主義」

(2021年10月26日 追記)

世の中には、論理的な思考がまったくできない人がいる。

中でもクィア理論(トランスジェンダリズム)」を信奉する人間に、それが多いと感じる。

クィア理論」は「理論」といっても、そのじつきわめて政治的なイデオロギーであり論理性とは無縁で、

むしろ性自認=善》《生物学的性別=悪》という極端な二項対立的世界観に依拠するカルト宗教と位置づけるのが妥当である。

 

 

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上掲のkazukazu(@kazukazu881 ※なおアカウント名は「kazukazu881」なのにハンドルネームは「kazukazu88」となっていてややこしいので、以下「kazukazu」で統一する)のプロフィールにはエキセントリックなポストモダン新左翼ラディカル・フェミニストクィアとある。

すなわちkazukazuはクィア理論の信奉者・支持者であり、以下に続くその知見もクィア理論の政治的イデオロギーに依拠するものと考えられる。ゆえにkazukazuを「クィア主義者」と位置づけることは何の問題もないであろう。

>同性愛者の全てが相手に惹かれる前に相手の性器や科学的に相手の生物学的性をいちいち確認する人たちだと思っているのですか?

あらためて確認しておくと「生物学的性別」とは、「性器の形状」のみならず、

性腺、乳腺、染色体、骨格、子宮の有無……など複合的に判断・判定される事柄である。

そのような「生物学的性別」を前提に恋愛やSEXのパートナーを選別する人、より正確にいうなら、恋愛やSEXのパートナーを選別する基準に「生物学的性別」を含めるという人に対して、

  • 生物学者でもないのに、どうして相手の「生物学的性別」が判断できるのか?
  • SEXする相手のホルモン量や染色体をいちいち調べているのか?

……などと食い下がるのはクィア主義者に特有の詭弁術だ。

しかしそのような問いが現状に即していないことは明らかだ。kazukazuの性的嗜好や政治的イデオロギーはともかく《英国の番組で裸の男女を下半身から明らかにしていって好みを選んでいくリアリティショー》といった番組が成立するということは、

性的対象の選別に「性器の形状」を含む考え方が、一般社会において広く共有・前提化されている証左と考えられる。それを「政治的正しさ」で頭ごなしに否定できるものではない。

元より、単純に誰かに“惹かれる”ことと、その人とSEXしたり性的なパートナーの関係性をもちたいと考えるかは別問題である。

前述のとおり「生物学的性別」自体が複合的な概念であるが、恋愛やSEXのパートナーを選別する上では「生物学的性別」のみならず、さらに性自認や性表現なども含めた、より複雑な判断が必要となる。

ゆえに「性器の形状」を含めた「複合的性別」を前提に恋愛やSEXのパートナーを選別する人が「性器の形状」のみならず同時に《見た目や声や匂い》にも“惹かれる”ことは何も矛盾しない。

性的対象の選別において「性器の形状」と《見た目や声や匂い》は、排他的な二項対立の関係性にあるわけではない。

さらにkazukazuは「同性愛」という概念の定義と、個々の「同性愛者」を自認・自称する人々――もっとも、その場合は「ゲイ/レズビアン」といったほうがいい――が、実際にどのような人を性的パートナーに選ぶかという問題を混同している。

このように「概念の定義」と「個別の事例」を混同するというのは、クィア理論の基本のき、ともいえる初歩的な詭弁術なので注意が必要だ。 

クィア主義者に特有の、なんとも嫌味ったらしい食い下がり方であるが、

しかしそれをいうのであれば、クィア主義者が絶対視する性自認ジェンダーアイデンティティ)」もまた、精神医学上の概念であり、

多くの場合は精神科医に診断されたわけではなく、当人が自分で主張しているだけである。 「生物学的性別」を判断できないのに、どうして「性自認」は勝手に判断できると思い込むのだろうか?

ホルモン量や染色体・遺伝子などと同様に「性自認ジェンダーアイデンティティ)」も“惹かれる時/惹かれる前に確認”できることではない。アイデンティティのような内面の問題を他人が窺い知ることはできないし、当人が公言していたところで人間はウソをつくこともありうる。

そも、たとえば単純に「女性が好き」といった場合に《※ただし性器の形状は「男性」に限る》《※ただしホルモン量は「男性」に限る》などと指定する人は、ごく稀であろう。

性別を一つの要素だけで決定するのではなく、複合的に判断するといっているのだから、個々の要素についていちいち詳細に“検査”する必要などない。

それでもホルモン量は、ヒトの骨格や肉付き、体臭などに影響を与えるし、SEXを快楽目的で行うだけなく子孫を残したいと考える人にとっては相手の染色体・遺伝子も重要な判断材料となるだろう。

すなわち生物学について専門的・学術的な知識をもたない人であっても、生物学の知見を利用することは可能である。電気工学の知識がない人であっても電子レンジを使って冷凍食品を温めるには何も不自由しないのと同じだ。

kazukazuの問題は十分条件」と「必要条件」の違いを理解していない点にある。

必要条件・十分条件は言葉の意味がわかれば理解できる!日常生活を例にわかりやすく | ここからはじめる高校数学

性的対象の「生物学的性別」を判断・判定する上で「性器の形状」は 「十分条件」ではないが「必要条件」ではあるという単純な事実が、イデオロギーに凝り固まった“クィア脳”には理解できないようである。

言うまでもなく「生物学的性別」が「性器の形状」のみによってされるわけではないということは、

裏を返せば「生物学的性別」の定義から「性器の形状」を除外する理由にもならないし、ましてや「性器の形状」が「生物学的性別」と“関係ない”と結論付けることもできないということだ。

そも女性ホルモン(エストロゲン)は卵巣から、男性ホルモン(アンドロゲン)は精巣(睾丸)から生成されるし、ホルモン量はペニスの機能にも影響する。じじつトランス女性の多くが女性ホルモンの摂取を望まないのは、その作用によって勃起力や精液量が弱まり、SEXの快感が減退すると考えるためだ。

この事実をもってしても「生物学的性別」の概念・定義から「性器」を除外すべきであるとするkazukazuの主張はあまりに非現実的で、トランス当事者の実感からも乖離している。

そしてこうした奇妙な切断処理が、まさに「性器の形状」で《性別》を判断することは《トランス差別》であるとするトランスジェンダリズムクィア理論)を、ゲイ/レズビアンセクシュアリティに敷衍した結果であることは言うまでもあるまい。 

したがって、

>性器を重視しない同性愛者はいくらでもいるわけで。

これは論理が飛躍しすぎで、一目見ただけではさっぱり意味が分からないだろう。

ようするに「生物学的性別」が「性器の形状」のみによって決まるわけではないことから、

kazukazuは「性器の形状」が「生物学的性別」と“無関係(!?)”であり、

ゆえに「生物学的性別」を前提に恋愛やSEXのパートナーを選別するゲイ/レズビアン《性器を重視しない同性愛者》である

……という帰結を導き出しているのだ。

しかし「生物学的性別」には当然「性器の形状」も含まれるのだから、その「生物学的性別」を前提に恋愛やSEXのパートナーを選別するゲイ/レズビアンが「性器」を“重視する”ことは自明である。

このような論点の摩り替えは、つまるところ性的対象の選別に当たって「性器」を“重視しない・すべきでない”というkazukazuの価値観(=クィア理論)を、ゲイ/レズビアンに押しつけているにすぎない。 

これはリプライ元の

《性器を含めて同じ生物学的性に惹かれる人たちは、生物学的性が同じパートナーを探す権利があるし、それを「差別」であると考えることはおかしい》

といった主旨の(きわめて的確な)意見への回答であるが、

そのような【生物学的性が同じパートナーを探す人たち】すなわち【トランスの男性や女性とホモセクシュアルな関係になることを望まない人たち】に対して

《もっと言えば、トランスの男性や女性とホモセクシュアルな関係になっても全然良いですね。》と返すのは、文章がまるで繋がっていない上に、

けっきょくは生物学的性が異なる【トランスの男性や女性】をパートナーの候補に加えるべきだという「クィア理論」を押しつけているのである。

【トランスの男性や女性】とのホモセクシュアルな関係》を拒むことによって「差別(シスセクシズム)」と見なされるのであれば、

それは自由な選択とはなりえず、強制力をもつことになる。

なぜならばゲイ/レズビアンが「差別(シスセクシズム)」から脱却するためには【トランスの男性や女性】を性的パートナーの候補に加える他ないという論理的帰結が導かれるからだ。

これがクィア理論(トランスジェンダリズム)に見るダブル・バインド(二重拘束)の罠である。

またそのようにしてkazukazuが、レズビアンをトランス女性とSEXさせることに執着していることからもわかるとおり、

元より《もし彼女がトランスジェンダーであっても愛しますか?》という問い自体が、

レズビアン」の性的主体性(性の自己決定権)を肯定・尊重するものではなく、

そのじつ「レズビアン」を「トランス差別主義者」に仕立て上げるためのレトリックにすぎないのだ。

ゆえにkazukazuの主張するとおり《性器を重視しない同性愛者はいくらでもいる》ことは、こうした“問い”の投げかけを正当化するものではない。

なぜならばセクシュアリティというプライベートな領域の問題について赤の他人が問い質したり、また他者に向けて事細かに語ることを強要すること自体が、

文字通りの「セクシュアル・ハラスメント(性的嫌がらせ)」以外の何物でもないからだ。

ましてや【生物学的性が同じパートナーを探す人たち】に対して

《科学的に相手のホルモン量や遺伝子検査をするということでもないですよね?それなら、何で生物学的性を判断するのでしょう?》と食い下がるといった、

陰湿かつ強迫的な「セクシュアル・ハラスメント」を「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」の名の下に正当化する性差別思想が「クィア理論」であり「トランスジェンダリズム」なのである。

他方で、べつにクィア主義者から強制されるまでもなく、ゲイ/レズビアンの中にも【トランスの男性や女性】を性的パートナーとして選ぶ人は存在する。

だが、それはクィア主義者およびトランス主義者のいう「トランスの権利」だとか「政治的正しさ」の問題ではなく、たんなる個人の「性的嗜好の問題でしかない。

否、むしろそれ(トランスパーソンとの恋愛やSEX)を同性愛者の「性的指向(同性指向)」を理由に強要する試みこそ、

まさしく同性愛者の「性的指向」を理由とした「差別」に他ならない。

ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」を錦の御旗に掲げながら《Personal is Political(個人的なことは政治的なこと)》と称して個人のセクシュアリティにまで干渉する「クィア理論」および「トランスジェンダリズム」は、そのじつ政治的にちっとも“正しく”ないのである。

(文脈を考慮すると「一つの生き方」というのは「各々の生き方」と言い換えたほうが適切であろうが、さておき)

そのじつkazukazuは、人間の複雑で多元的な性的嗜好を「性器の形状」と「それ以外」に二元化しているにすぎない。

言い換えるなら、人間の性的嗜好について

「性器の形状」のみを“唯一の”判断基準とするか?

あるいは「性器の形状」を“完全に”除外するか? 

……というオールオアナッシング的な二者択一でしかとらえられない浅ましさが“クィア脳”なのである。

(そして「全か無か?」「善か悪か?」「敵か味方か?」といった単純かつ極端な二元論・二項対立を強いるのもカルトに特有の世界観である)

そして“もっと言えば”上掲したkazukazuの《性器を重視しない同性愛者はいくらでもいる》という的外れなトンデモ回答は、

たとえば「レズビアンは女同士でSEXするから変態だ」というヘイトスピーチに対して、考えなしに「性欲を伴わない同性愛もあるのだ」などと返してしまうようなもので、けっきょくは《レズビアン差別》を追認するものにしかなっていない。なぜならば《性欲が伴わない同性愛もある》にもかかわらず【女同士でSEXするレズビアン】は、やはり「変態」であるから「差別」されても仕方がないという結論が導かれてしまうからだ。

kazukazuのレトリックもこれと同じで、現実の「レズビアン当事者」を《トランス女性とSEXできる“政治的に正しいレズビアン》と《トランス女性とSEXしない“政治的に正しくない(間違った)”レズビアン》に二元化した上で、後者の「レズビアン」に対する「差別」を正当化しており、すなわち「レズビアン当事者」の中にも分断と「差別」の構造をもたらすものである。

こうしたクィア理論(トランスジェンダリズム)の排他的な二項対立的思考こそ、 むしろ裏返しの「性器至上主義」に陥っている皮肉を自覚すべし。

“一粒で二度美味しい”レズボフォビア産業のマッチポンプ~自称「LGBTQアライ」水原希子の場合 #TRP2021 #おうちでプライド2021

(2022年4月3日 加筆修正)

4月15日、レズビアン作家・中村珍の百合漫画『羣青』を原案としたNetflix限定配信の映画『彼女』(廣木隆一・監督)が公開され、レズビアンへの偏見を助長する陳腐かつ差別的な内容が酷評を浴びる中、

レズビアンの役を演じた俳優でファッションモデルの水原希子もまた、6年前にTBS系列『ニンゲン観察バラエティ モニタリングSP』でレズビアンをネタにした“ドッキリ”に加わったことで、さらなる批判を受けている。

当時のニュース記事はこちら(※強調は引用者):

水原希子、迫真の"百合演技"披露! リアルすぎて視聴者大興奮(aiba)|MEN'S CYZO

https://archive.is/3GQZG

(前略)水原は「芸能人の見られたくない秘密を見てしまったら...」と題された検証VTRに、"秘密を持つ芸能人"として登場。NHKのアニメ『おしりかじり虫』などに出演し、オーバーなリアクションでバラエティにもたびたび顔を出す声優の金田朋子(42)を相手に、"実は女性マネジャーとデキている"というスキャンダラスな設定に挑戦した。(中略)

 ニセ番組の収録で呼ばれた金田が楽屋に入るなり、水原はニセ女性マネジャーに後ろから甘えた声で抱きつき、ためらいなく頬にキスをする。まさかの現場を目撃した金田は、いつものハイテンションから一転して、唖然とした表情を浮かべたまま固まってしまった。そして女性マネジャーとの関係を見られた水原は、さっそく金田の元に歩み寄り「秘密にしてほしい」と懇願する。金田は静かにうなずいたが、半ばパニック状態のようで、目をパチクリさせながら立ち尽くすのだった。

 さらに水原は、金田の目の前でマネジャーに執拗に抱きついたり、「最近全然デートできないじゃん」と甘えた仕草を見せる。その姿はまさに"本物"といった感じで、VTRを鑑賞していたスタジオからも「めっちゃリアル!」との声が。視聴者も興奮したようで、ネット上には、「まさかの百合展開!」「こんなキレイな人に言い寄られたら女性の私でも落ちちゃう」「レズビアンにハマりすぎ」「マネジャーと芸能人の禁断の恋...。そういう漫画みたい...」などのコメントが相次ぐこととなった。

 アメリカ人の父と韓国人の母を持つ水原の、彫が深いながらもアジア系美人を思わせる顔立ちと、黒髪のショートボブから漂うクールな雰囲気が、レズビアンを題材にした百合小説や漫画に登場する独特なキャラクターを彷彿とさせたのかもしれない。(中略)

 女性マネジャーと親密なボディタッチを繰り返す水原に、金田は最後までダマされ続けた。かなり信じきっていた金田は、ドッキリだと明かされた瞬間に思わず涙ぐんでしまうほど。そして少々混乱しながら「男の人好き?」とポツリ。それを聞いた水原は「だーい好き!」と即答し、検証VTRは幕を閉じるのだった。(後略)

上掲記事にはタイトルから本文に至るまで「百合」という語彙が用いられており――加えてミックスルーツの女性に対するセクシズム・レイシズムルッキズムも見逃せない――本稿でも便宜上「百合営業」という言葉を用いているけれど、

以前に当ブログで取り上げたとおり、私自身は一概に「百合営業」自体が差別的であるとは考えていない。また、そうした「百合営業」の是非と、映画やドラマなどの創作物で異性愛者女性の俳優が「レズビアン」のキャラクターを演じることも区別されるべきであろう。

クィア・ベイティングと「百合営業」と野島伸司 #百合だのかんだの #百合 - 百錬ノ鐵

しかし「百合営業」が「レズビアン」に対する偏見・蔑視を煽動する「レズネタ」と化している場合には、当然ながら《レズビアン差別》の表現として批判されるべきとも考える。

問題視された「ドッキリ」の企画は、「同性愛者」であるレズビアンを非当事者(異性愛者)の出演者および制作者がジョークの「ネタ」として面白おかしく扱ったこと(レズネタ)自体の差別性もさることながら、

それ以上に「男の人 だーい好き!」と声高に宣言してみせたことで「非異性愛者」であるレズビアンに対する、異性愛者である水原希子自身の社会的・政治的特権性を誇示するものであり、

まさしく異性愛至上主義に根ざした、まごうかたなきレズボフォビア(レズビアン嫌悪・蔑視)の「ヘイトスピーチ(差別煽動表現)」と断言できる。

6年前の出来事を今になって蒸し返すのか、といった声もあるようだが、放映当時も問題視するレズビアン当事者は存在していた。それが今回のような“炎上”に結びつかなかったのは、ひとえに世間の「レズビアン」および《レズビアン差別》に対する無関心の表れに他ならない。

げんに私自身も、その前年に開催された「関西クィア映画祭」の宣言文において「レズビアン」に対するヘイトスピーチが行われた事実を告発したが、何の反響も得られず、実行委員会に対する謝罪・撤回・総括の要求も突っぱねられた。

「関西クィア映画祭2014」問題 まとめ - 百錬ノ鐵

さて、そうした最悪のタイミングの4月24日、水原は「東京レインボープライド2021」に「LGBTアライ」としてゲスト出演。未だ終息の気配が見えない新型コロナウィルス感染拡大の影響でオンラインのみの開催となった同イベントのネット配信中に、当該番組のレズビアン差別的な演出について「反省」の弁を述べた。

「当たり前に差別的なことをしてしまった」6年前のドッキリ企画。水原希子さんが今視聴者に伝えたい思い(伊吹早織)|BuzzFeed
https://www.buzzfeed.com/jp/saoriibuki/trp2021-kiko-mizuhara

水原希子さん「無神経すぎた」 同性愛ドッキリの番組企画に出演の過去、反省語る(國崎万智)|HUFFPOST
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6083e8abe4b003896e043f63

こうした水原に対する受け止め方は、レズビアン当事者の間でも様々だ。過去の差別的振る舞いを素直に認めたのは誠実で勇気ある発言と評価する向きもある一方、

これまで水原が《昨年の東京レインボープライドにも参加し、2019年にはNetflixの人気番組「クィア・アイin Japan!」に出演するなど、LGBTQコミュニティを支援する「アライ」としての立場を表明して》きたにも関わらず、

今回指摘されるまで6年もの間、謝罪の意を“表明”してこなかったという不誠実な態度や、マイノリティの祭典がマジョリティの“禊”に利用されることに違和感を拭えないのもたしかである。

とくに私が気になったのは《これは私がしてしまったことだし、文章にするのも嫌だなと思っていて、何か面と向かって伝えたいなとずっと感じていたことなんですけど。》という件だ。

水原は当世の芸能人らしくTwitterInstagram、ブログ(※こちらは何年も放置されている)といったSNSを駆使しているけれど、

《文章にするのも嫌》とあるように、そうした「反省」の弁を、より多くの人の目に留まるSNSで表明するということは、ついぞなかった。

テレビの視聴率は、たった1%でも100万人以上に相当するとされている(もっとも、これをもって100万人以上が“視た”とはいえないという説もあり)。

それに較べて、何時間にも亘るネット配信を観ている人の数など微々たるものと言わざるをえない。

またWebニュースに関しても、上掲の「BuzzFeed」「HUFFPOST」といった“意識が高い”左派・リベラル層に特化したニュースサイトでは、その影響力も高が知れている(Yahoo!ニュースなどにも転載されてはいるが、一定の掲載期間が過ぎると削除されてしまう)。

そこをいくと、仮に水原がSNSで自らの「反省」の弁を“文章にした”ならば、それを「モデルプレス」のような一般大衆向けの芸能サイトがこぞって取り上げる事態となるだろう。

水原が過去の差別的振る舞いについての「反省」を《文章にするのも嫌》と考える理由は不明だが、

そうした薄っぺらな言葉の上で「当事者」に謝罪したことにより“禊”を済ませた気でいるなら、思い違いをしているとしか言い様がない。謝罪・反省は、それ自体がゴールではなく、あくまでも出発点にすぎず、その後に何を成し遂げていくかが重要であるからだ。

しかしそのための手段として、「アライ」でござい、などとマイノリティのイベントにしゃしゃり出て“意識お高い”アピールに勤しむ行為が適切であるとは、私にはとても思えない。

そして何よりも問題なのは、こうした水原の「反省」を受け容れることができないレズビアン当事者が「反省しているのだから許すべきだ」「誰にだって間違いはあるし、人の心は変わるものだ」「6年も前の過ちをいつまでも批判されるなんて不寛容で息苦しい」として攻撃される“二次加害”が発生している事態である。

水原が、本当の意味でLGBTQを支援しているつもりなのであれば、

売名目的の「アライ」気取りだとかサルでもできる「反省」ばかりでなく、そのような「レズビアン差別主義者」たちに対して毅然とNOを突きつけるべきではないか?

元より、過去の差別的振る舞いについて“許す”ことと、それを批判し続けることは両立する。否、水原が“本当の意味で”反省しているというなら、むしろ自らが過去の差別的振る舞いについて、具体的にどこがどう“差別的”であったかを自己批判すべきであろう。

あるいは、過去の差別的振る舞いについて誰かが“許す”ことで、それから先はもう二度と誰も批判することが許されなくなるというのであれば、差別的振る舞いについて“許す”こともできなくなる。「差別」を“許す”ことより、「差別」を批判することのほうが、よっぽど有意義であるからだ。 

なお例によって「6年も前の発言なのだから仕方がない」と擁護する意見もあるが、

2015年といえば「LGBT」「セクシュアル・マイノリティ」といった用語がすっかり人口に膾炙した時期であり、また水原自身も当時24歳のいい大人だったのだから、若さゆえの無知や稚気を言い訳にするのは無理がある。

しかるに《映画の宣伝でその番組に出させていただい》たという事情から、不本意ながらどうしても当該の企画(ドッキリ百合営業)を断ることができなかったというのであれば、同じ理由で、今後ふたたび同じ企画を要求されたとしても水原は断ることができないということになる。そも当人が「正直なところ、そこ(企画内容)に対する違和感は、当時の自分にはなかったかなと思います」と述懐しているのだから、どのみちそのような情状酌量の余地も成り立たない。

ともあれ、いずれにせよ水原が今回の一件で“株を上げた”ことは事実であろう。謝罪・反省も、しないよりはしたほうがいいに決まっている(その点では、少なくとも「関西クィア映画祭」よりはるかにマシだ)。

しかし、それをいうなら、そもそも差別的な振る舞いをしないのが、いちばんいいはずだ。にもかかわらず、差別的振る舞いを“謝罪・反省”することで絶賛を浴びるなら、けっきょくのところ差別的振る舞いをするほうが「得」だということになってしまう。

人の心は変化していくものだ、と云う。しかし、そのようなマジョリティの自己啓発セミナーじみた“学び”だの“気づき”だの“感謝”だののために、いちいちマイノリティが踏みつけにされたのでは、たまったものではない。

まして水原の場合は、人の心が変化したというよりも、異性愛者女性の「百合営業(レズネタ)」が、時代の趨勢を受けて「アライ営業」に“鞍替え”しただけであり、レズビアンを「ネタ」にして金儲けしているという点で、やはり本質的には何も“変わっていない”のではないだろうか?

その点について《これまではレズビアンを皆と一緒に指差して笑い者にして金儲けしてきたけど、これからはレズビアンに理解あるアライとして儲けるということか》と喝破したレズビアン当事者のつぶやきを目にしたが、まさに言い得て妙であろう。

言い換えるなら水原は、レズビアンに対する差別・偏見を煽動する「レズネタ(ドッキリ百合営業)」で世間の人気を集めながら、

後にそれを殊勝に謝罪・反省する素振りを見せることで、さらに世間の人気を集めるという“マッチポンプに成功した。むろん水原が、予めそこまで計算して動いていたとは考えにくいけれど、それが一連の流れで起こったことのすべてだ。

このような“一粒で二度美味しい”レズボフォビアの醜悪かつ巧妙な二重構造は、まさしく「レズボフォビア産業」と呼ぶに相応しいものだ。

独自ドメイン「zakuro-no-mori.jp」廃止につきまして

ずいぶんご報告が遅くなってしまいましたが、

昨年4月をもちまして『柘榴ノ杜』の独自ドメイン「zakuro-no-mori.jp」を廃止しております。

『柘榴ノ杜』を開設した2006年当時、独自ドメインを取得するためには「お名前.com」というサービスと、レンタルサーバーを含めて契約をする他ありませんでした。

その後、2014年にサイトをWordPressへ移行したのに伴って「zakuro-no-mori.jp」はトップページのみを残す形となり、

ただそれだけのためにサーバーのレンタル料で月数千円、加えてドメインの更新料を別途含めると年間何万円も払わなければならない金食い虫となっていました(ちなみにWordPressレンタルサーバー「ロリポップ!」の更新料は月300円程度)。

それでもせっかく取得したのだからと、半ば意地になって残してきましたが、

昨年、クレジットカードの更新に伴う手続きの際、こちらの手違いで数年先まで契約してしまい、

キャンセルも認められず、余計な費用を一月で何万円も支払う結果となってしまいました。

思えば私のホームページ作成のスキルは、十代の終わり頃、専門学校でHTMLの初歩を習ったという程度で、専門的な知識などほとんどありませんでした。

そのような素人が、独自ドメインを管理するなどという行為は、やはり手に余るものであったと反省し、

「お名前.com」のレンタルサーバーを解約した次第です。

ドメインの廃止とありますが、厳密には契約の期限切れとなる数年先まで、ドメイン自体は私が契約者となっています。ただ、そうした次第で現在「zakuro-no-mori.jp」にアクセスしても何も表示されなくなっています。

 

『評論家を燃やせ!(いいニオイさ)』更新情報

映画評論サイト、およそ4年ぶり(!)の更新となります。

以下の6作品のレビューを追加しました:

  • 頭狂23区外 眠レヌ
  • 頭狂23区外 許セヌ
  • 頭狂23区外 終ワラヌ
  • 頭狂23区外 オムニバス・バージョン
  • TERRORS 黒い影
  • 汝殺すなかれ

http://zakuro-no-mori.girlfriend.jp/

公式サイト『柘榴ノ杜』の不具合を解消

百合魔王オッシーの公式サイト『柘榴ノ杜』はWordPressで作成していますが、

どうもWordPressというサービス自体がヴィジュアル中心のコンテンツのようで、テキストサイトに特化したテーマ(デザインのテンプレート)がほとんどありません。

そのため思うようにカスタマイズできず、色々と不具合が生じているのが現状です(ちなみに私が使用しているテーマは「Sight」というものです)。

レンタルサーバーの「ロリポップ!」が提供している「ロリポップ!スタジオ」というサービスが、WordPressから移行できるにようになったというので試してみましたが、

じつのところWordPress以上に使い方がわかりにくく、導入を断念しました。

とりあえず記事のソーシャルボタンを押しても記事にリンクされない不具合については、新規に「Social Share Buttons - SEO Optimized」というプラグインをインストールすることで、別途ソーシャルボタンを設置するという対処を取りました。

今後は、ページ右隅の小さな四角いボタン(※こちらがデフォルト)ではなく、

タイトル下に並んでいる大きな丸いボタン(※新規に設置したプラグイン)からSNSなどの各種Webサービスにリンクしたり、メールや印刷などをすることができます。

また新着記事の表示形式は、サイト左上の柘榴のイラストをクリックすると切り替えることができます。

 

 

「BL/GL」が「性別二元論的」で何が悪い?~“意識お高い系”LGBTサイト「JobRainbow」のトンデモ記事 #JobRainbow

「スーパーストレート」をめぐる議論が白熱する中、

そもそも異性愛者を「ストレート」と呼ぶこと自体が、

「同性愛者」が“曲がっている”“歪んでいる”

と言っているのと同じだから差別的だ!

……といった意見が目につくようになってきた。

しかし、これはありがちな誤解である。

「ストレート」という言葉は元来、同性愛者の側が異性愛者を言い表すために作った言葉であり、そこに上述したような“”差別的な”意味合いはない。

jobrainbow.jp

ストレート」とは、性的指向が異性のセクシュアリティを指す一般的な呼称のことです。

初出は1941年。George W. Henry著『Sex Variants: A Study Of Homosexual Patterns』という本に「ストレートは「同性愛者ではない」という意味で同性愛者たちによって使用されている」という記述があります。

「ストレート」は少し古い英語の慣用句で「従来の道徳や法律を守るふるまいを通じての、実直な生活。正直でまっとうな暮らし」を指す”straight and narrow path”からきており、さらにさかのぼるとマタイによる福音書7章13、14節「狭い門を通って入りなさい」の誤読(聖書では”straight”ではなく”strait” the gate)や、「堅苦しい(strait-laced)」という言葉などが語源であるとされています。
「まっすぐである」という意味の「ストレート」ではありません。

異性愛者を「ストレート」と言い表すことが同性愛の否定を意味するという誤解は、おそらく「ノーマル」と混同したものと思われる。

「ノーマル」には気を付けて!

「ノーマル」という言葉を、異性愛という意味で使われているものとして、たとえば漫画のジャンルが挙げられます。

  • 男性の同性愛を描くフィクションのジャンルを「BL(Boys Love)
  • 女性の同性愛を描くフィクションのジャンルを「GL(Girls Love)
  • これらに対して、男女の恋愛を描いたものを「NL(Normal Love)

しかし、異性愛を「ノーマル」と称するのは、「人は皆異性を愛するものだ」という考えを強めてしまう可能性もあります(このような考えは、「異性愛規範」「ヘテロノーマティヴィティ」と呼ばれています)。

なぜなら、「ノーマル(Normal)」の名詞形が「ノーム(norm、規範)」であることからわかるように、ノーマルには「普通である・規範的である」というニュアンスがあるからです。

さて。ここまで「JobRainbow」というLGBTサイトの記事を引用してきた。

もっとも上掲した「ストレート」についての解説は、執筆者【ぐらし】が、本文中にリンクしている【みやきち】のブログから、そのまま引き写したものである。よって、本来であればみやきち氏のブログに直接リンクを貼るのが筋というものであろう。

みやきち氏はレズビアン当事者であると同時に、百合コンテンツのユーザーでもあり、氏の百合作品のレビューは貴重な「当事者」の意見ということから、少なくともゼロ年代の間、氏のブログ『みやきち日記』は一部で重宝されてきた。とはいえテン年代に入り、ネット言論の主流が個人運営のブログやサイトからTwitterに移行すると、百合ユーザーのレズビアン当事者が百合作品を語ることは何ら珍しいことではなくなって、みやきち氏の威光もすっかり弱まってしまった感がある(なお現在は『石壁に百合の花咲く』というブログをメインに活動しているようだ)。

私自身は、レズビアン差別に関する見解こそみやきち氏と多くの部分で――全て、と書かないのは、全ての記事を読んだわけではないからで、少なくとも目に留まった範囲では――一致するものの、じつのところ「評論家」としての氏の資質については疑問に感じている。過去に当ブログやサイト(※こちらは閉鎖済み)で批判したこともあり、いくら話題が異なるとはいえ、そのようなブログの記事を引用することはためらわれる。

そういった事情で「JobRainbow」からの孫引きという形になったわけだが、

じつのところ、この「JobRainbow」なるサイトも“意識お高い系”活動家特有の、初めに“批判”“糾弾”ありきの独善的なポリコレ思想――言うまでもなく、その極北が「トランスジェンダリズム」および「クィア理論」である!――が空回りしている感じが痛々しく、正直なところ、いただけない。

上掲『「ノーマル」には気を付けて!』は、以下のように続く。

代替案として「HL(ヘテロラブ)」が使われることもあります。しかし、作中で明言されていない人物のセクシュアリティヘテロセクシュアルだと決めつけてしまうことがあり、この表現も問題がないと言い切るのは難しそうです。

ヘテロセクシュアルであると《作中で明言されていない》としても、

世の大半を占める、登場人物が異性を愛するシーンしか描かれていない作品において、登場人物を「ヘテロセクシュアル(H)」と解釈することは、きわめて自然かつ妥当である。

なぜならばこの場合の「H=ヘテロセクシュアル」とは、登場人物の内面的な自認やアイデンティティ(=異性愛者)ではなく、作中の人間関係(=異性愛を示すものだからである。

漫画にかぎらず創作物は、現実世界のすべてを表現するものではない。そのような性質のものである以上、作中に男女の恋愛しか描かれていないからといって、異性愛以外のセクシュアリティを否定しているということにはならない。

言うなれば、セクシュアリティとしての「異性愛」と政治的イデオロギーとしての異性愛規範」は、それぞれ次元が異なるのであり、異性愛」を表現することは「異性愛規範」を表現することとイコールではない。

また、「BG(Boys&Girls)」ならフラットかといえば、そもそも「Boys」「Girls」といった表現は登場人物がシスジェンダーであると決めつけており、性別二元論的でもあり……と指摘を続けていけばキリがありませんが、できるだけ包摂的な表現を探しつづける余地はありそうです。 

この【ぐらし】なるライターは、はたして実際に「BL/GL」の漫画を読んだことがあるのだろうか?

一部の実験的な作品を除けば「BL/GL」の主人公は「HL(繰り返すが、この表記には何の問題もない)」と同様にシスジェンダーの男女であり、ゆえに《登場人物がシスジェンダーである》ことは“決めつけ”ではなく事実にすぎない。

実際、一般的なBL/GL作品で登場人物が性別違和に悩むシーンなど、まず目にすることはない。

  • たとえば、現行のGL(百合)文化を象徴する作品の一つである、はんざわかおりこみっくがーるず』(芳文社まんがタイムきららMAX」連載中)では、プロの少年漫画家として活躍する女子高生【勝木翼】が、強権的な母親から「女の子らしさ」をお仕着せられて煩悶する様子が描かれているけれど、あくまでも【翼】は《男の子っぽい装いを好む女の子》であって「トランス男性」ではない。

そのような作品について「トランスジェンダー」の可能性をあげつらうのは、たんに作品世界の外側から読者の考える「政治的正しさ」を物言わぬ作品に押しつけているだけで、個々の作品独自の世界観に寄り添おうともしないエゴイスティックな鑑賞態度に他ならない。

さらにいえばBL/GL作品は、作中で「同性愛(者)」「ゲイ/レズビアン」といった語彙が用いられないのが特徴であり、それこそ「当事者」を主体とする「ゲイ/レズビアン・カルチャー」に帰属する作品との大きな違いである。よって作中で「人物のセクシュアリティが逐語的に“明言”されていないことをもってヘテロセクシュアル異性愛)」と解釈することができないというなら、まったく同じ理屈で「BL/GL」を「同性愛」と解釈するという前提も否定されてしまう。

加えて「同性愛」をテーマにした作品について、さしたる根拠も必然性もなく「トランスジェンダー」の可能性をあげつらうことは、まさに「同性愛」と「性同一性障害」を混同するといった異性愛者のありがちな誤解・偏見を助長しかねない。男(女)が男(女)を愛するから「心が女(男)」なのだといった“決めつけ”は、「同性愛」すなわち同性間で「恋愛」が成立する可能性を頑なに否定・否認する異性愛規範」の最たるものだ。

ノンフィクションとは異なり、フィクション作品においてトランスジェンダーのキャラクターを登場させるにあたっては困難が生じる。

なぜならば、それはキャラクターの身体の一部または全部を「異性」に設定することになり――そうでなければ「シスジェンダーである――そうするとかえって「トランス男性」の“女性”、「トランス女性」の“男性”が強調される結果となってしまうからだ。

とはいえ、そうした実情を踏まえた上でも「BG(Boys&Girls)」という言葉に「シスジェンダー」に限定するといったニュアンスはない。「BG(Boys&Girls)」という言葉が「トランスジェンダー」を排除しているかのように錯覚するのは、それこそ【ぐらし】自身が“シスジェンダー中心主義”に囚われている証拠である。

まして「BL」が《男性の同性愛を描くフィクションのジャンル》で「GL」が《女性の同性愛を描くフィクションのジャンル》である以上、それらが「性別二元論的」であるのは自明の理だ。

そして「性別二元論的」であることが、すぐさま「性差別的」であることを意味するわけではない。もしそうであるなら、まさに「性別二元論」に立脚した「ゲイ/レズビアン」という概念も「性差別」だからなくすべき、ということになってしまう。

むろん「BL/GL」と「ゲイ/レズビアン」は異なるけれど、「BL/GL」を否定するのであれば、まったく同じレトリックで「ゲイ/レズビアン」の存在も否定されることになるのだ。

元より「BL/GL」は、現実世界の全てを“包摂”する表現にはなりえないし、したがって“包摂的”な名称など“必要”ない。

このようなセクシュアリティの問題について“包摂的”であることを至上の価値と信じて疑わない思考は、

ようするにバイセクシュアル(両性愛)」や「パンセクシュアル(全性愛)」を人間のあるべき姿として規定し、「ゲイ/レズビアン」に対しても《異性を愛する可能性》を“包括”することを要求・期待する、まさに「ヘテロセクシズム(異性愛至上主義)」が“上位互換”された「バイセクシズム(両性愛至上主義)」“決めつけ”に他ならない。

また一方で「BL/GL」のユーザーの大半は異性愛者であり、そのような異性愛者がフィクションの「BL/GL」を“性的消費”することが、現実の「ゲイ/レズビアン」に対する“性的搾取”につながるとの見方もある。

元より「BL/GL」にかぎらず“消費”という行為自体が、本質的な暴力性を内包しているともいえる。ゆえに消費の在り方によってはそのような構造に陥る危険性もありうるし、かく言う私自身もGL(百合)ユーザーの立場から、そうした異性愛至上主義的な消費の在り方については当ブログで警鐘を鳴らしてきた。

しかし一方で「BL/GL」を消費する異性愛者の中には私自身を含め、

「BL/GL」を、そのような異性愛至上主義の差別構造からなんとかして切り離そうという意志をもつ人々も存在する。

「NL」を「HL」に置き換えるといった試みもその一環であり、「HL」という用語を造り出したのは、じつのところそれに該当する男女の恋愛漫画を消費するユーザーではなくBL/GL漫画のユーザーたちである。

そこへきて「JobRainbow(ぐらし)」の記事は、そうした「BL/GL」ユーザーたちの反差別的な取り組みに冷や水を浴びせるものでしかない。

むろん当人の意志がどうあろうと、図らずも「反差別」を意図した表現が、皮肉にも表現者の無自覚な差別意識を露呈してしまうケースも珍しくない。そういった場合には批判が必要であるが、

しかし上掲した「JobRainbow」の記事は、始めに“批判”ありきというか、明らかにライター個人のオタク・カルチャーに対する“批判”を通り越した無自覚な悪意・敵意を感じずにはいられない。

LGBTに対する偏見や無理解を批判する者が、自分と異なる感性に根ざした「BL/GL」の文化に対する偏見や無理解に凝り固まっているのでは、何の説得力もない。

なお「BL/GL(百合)」という呼称・概念の必要性については、当ブログの過去の議論も参照のこと:

「BL/百合」否定派の漫画家・御前モカ氏(Babylion_110)との議論をインタビュー形式でまとめてみた。 - 百錬ノ鐵

加えて、どうもこの【ぐらし】なるライターは

「性別二元性(sex duarity)」と「性別二元制(sex dualism)」

さらには

異性愛(heterosexuality)」と「異性愛規範(heteronormativity)」

の区別が付いていないようだ。

しかし、たとえ〈男/女〉の境界がグラデーションであるとしても、

「男」と「女」のどちらにも与しない状態は、その定義上「性別」とは呼ばないのだから「性別」が“二元”であることは自明である。

ただし特定の性自認あるいは性自認自体を有さない人も存在することから「人間」そのものを「男/女」に二元化(二極化)することはできないというだけだ。

しかるに「性別二元制(sex dualism)」とは、たんに「性別」が「男/女」の二つあるということ――すなわち「性別二元性(sex duality)」と同義ではなく、

出生時に割り振られた性別によって、その後の個人の生き方・在り方さえもガチガチに規定されてしまう社会の構造を表す言葉である。

このように、専門外の漫画どころか、専門分野であるはずのセクシュアリティジェンダーに関する基礎知識すらなく、たんなるその場の思い付きだけで何かを言った気になっている、この【ぐらし】なるライター。それこそ「ストレート」の語源すら調べず、言葉の響きだけで“差別語”と決めつけて安易な“言葉狩り”をおっぱじめる、浅はかな連中と五十歩百歩の“意識のお高い”馬鹿の一人でしかない。

そうした、本来「差別」でもなんでもない事柄に、ありもしない“差別性”をこじつけたがる一部「活動家」の心性は、そのじつ差別問題に対する意識の高さとは程遠い。むしろ、見ず知らずの他人を「無自覚の差別者」に仕立て上げることで、相対的に自分の“お高い意識”を見せつけてやろうという浅ましい被承認欲求の小賢しさばかりが鼻につく。

ちなみに【ぐらし】は、よっぽどみやきち氏の熱心な読者のようで、上掲した「HL/BL/GL」に対する見当違いの難癖にも、いちいちみやきち氏のブログ記事にリンクを貼って補強材料としている。

だが前述のとおり、みやきち氏は他ならぬ自身がGL(=百合)コンテンツのユーザーであり《「HL(ヘテロラブ)」が(中略)作中で明言されていない人物のセクシュアリティヘテロセクシュアルだと決めつけてしまう》《「BG(Boys&Girls)」なら(中略)そもそも「Boys」「Girls」といった表現は登場人物がシスジェンダーであると決めつけており、性別二元論的》などといった意味のことは、

リンク先であるみやきち氏の記事の何処にも書かれていない。

それにもかかわらず、わざわざみやきち氏のブログにリンクを貼ることで、あたかもみやきち氏がそのような馬鹿げたことを主張しているかのように読者をミスリードしている。そも前述のとおり「NL」表記の差別性については「BL/GL」のユーザーからさんざん指摘されてきた事柄であり、今さらみやきち氏の言説を持ち出すまでもない。

さらにいえば、リンクされているみやきち氏の記事の内容は、自身の過去の記事が、意に反して「NL」表記の正当化に利用されたことについての異議申し立てである。それを、よりもよってライターの自分勝手な「GL(およびBL/HL)」バッシングの正当化に利用されてしまうとは、みやきち氏の名誉は2度傷つけられたようなものである。

P.S.

なお「JobRainbow」といえば、過去には「LGBT」に小児性愛(pedophilia)、獣姦(zoophilia)、屍姦(necrophilia)を加えよと主張する「LGBTPZN」なるトンデモ性差別思想を喧伝していたことでも知られている。

当時の議論はこちら

「女性を愛するレズビアン」は「トランス女性」を性的対象にしなければ「差別」と主張する《性的指向を理由とした差別》 #superstraight

前回取り上げた藤井美穂氏の「トランスジェンダーを性的対象から“除外”するのはトランス差別」という議論に付随して、藤井氏より論者としての知名度や格は落ちるものの、主張としては同工異曲のトランス主義者「chocolat. (@chocolat_psyder)」によるレズビアン差別》のレトリックを検証してみたい。

>女性(男性)を愛する性的指向の人が「女性(男性)」の中に「トランス女性(男性)」を含めない、ということを表明するということは「トランス女性(男性)を女性(男性)と認めない」と単に明言しているだけ

裏を返せば、同じ女性であっても、女性(同性)を愛さない性的指向(非同性指向)を有する異性愛者の女性であれば、「トランス女性」を性的対象に含めないことを“表明”したとしても「差別」にはならないという理屈になる。

しかし「レズビアン(同性愛者)」が《女性を愛すること》を理由に「トランス女性」との恋愛やSEXを要求されるのであれば、それはまさしくレズビアン(同性愛者)」に対する《性的指向(同性指向)を理由とした差別》に他ならない。

なぜならばそれは「レズビアン」が異性愛者であることを理由として、「異性愛者」には自明の如く認められる「性の自己決定権」の正当な行使を妨げられることを意味するからだ。

>性的趣向、はセクシュアリティではありません。好みの問題です。
性的指向、はセクシュアリティです。

これは完全に意味不明である。

「性的趣向」は「性的嗜好」の誤用であろうが――よって以下「性的嗜好」に統一する――いずれにしてもセクシュアリティの一つであることに変わりはない。

元よりセクシュアリティ」とは「性的嗜好」「性的指向」「性自認」「性表現」、さらには恋愛やSEXなどを含めた人間の「性」のありようを包括する概念であって、そこに善悪や優劣の価値基準は伴わない。

よって仮に何らかの“差別的”な価値基準にもとづいたセクシュアリティが存在するとしても、そのような「性」のありようが「セクシュアリティ」ではないというのは論理矛盾である。

このchocolat.の不可解なレトリックは、ようするに「レズビアン(同性愛者)」に対する「性的指向」の矯正が「差別」に該当することから、トランス女性を性的対象に含めないという「性的嗜好の“矯正”については「差別」に当たらないとする、一種の詐術だ。

しかし、これは「レズビアン」を擁護する立場の人々もしばしば陥りがちな誤りであるけれど、「性的指向」と「性的嗜好」は本来、排他的な二項対立の関係にあるのではなく、人間の「セクシュアリティ(性のありよう)」を異なる位相から捉える概念にすぎない。「性的指向」と「性的嗜好」は同義ではないが、密接に関連しているとはいえるのである。

たとえば、たんに「お尻」が好きだといった場合は「性的嗜好」であるが、「レズビアン(女性同性愛者)」が「女性のお尻」が好きだと言った場合には性的指向」と「性的嗜好」が分かちがたく連動していることになる。

ゆえに性的指向」は尊重されるべきだが「性的嗜好」は“矯正”されるべきとする「性(セクシュアリティ)」の序列化、必然して「レズビアン」の性的主体性(セクシュアル・アイデンティティ)を侵害する口実として成立してしまうのだ。

>トランスにのみ限定してわざわざ排除を表明することが差別につながる

これもありがちな論点の摩り替えである。

まず「レズビアン」は《トランスにのみ限定してわざわざ排除を表明》しているのではない。

すなわち「レズビアン」は、たんに恋愛やSEXのパートナーを選別する基準に「生物学的性別」を含めるというセクシュアリティを“表明”しているにすぎない。

そも「レズビアン」にかぎらず、多くの人(※性別を基準としない「パンセクシュアル」以外の人々)が実際に恋愛やSEXのパートナーを選別するにあたっては、生物学的性別のみならず性自認・性表現なども含めて複合的に「性別」を判断することになる。それにあたって「生物学的性別」は唯一の絶対条件ではないけれど、しかし裏を返せば「生物学的性別」だけを除外する理由にもならない。

よってレズビアン」の場合は「トランス女性」のみならずシス男性も除外されるのだから《トランスにのみ限定してわざわざ排除を表明》しているという指摘は当たらない。

>シス男性が「トランス女性とは恋愛しない」
>シス女性が「トランス男性とは恋愛しない」
>と表明することを批判しています。

ところが実際には「トランスとは恋愛しない」と直接的に“表明”しなくとも、

たとえばレズビアンバイセクシュアル女性が「ペニスよりもヴァギナに惹かれる」という自らのセクシュアリティについて語っただけで、

トランス主義者たちから「トランス嫌悪」と決めつけられ、執拗な脅迫・恫喝に晒されたあげく謝罪に追い込まれる事態にまで至っている。

(※上掲の事例は「金玉よりおっぱい」だが意味は同じだろう)

断っておくが、彼女たちは「トランス女性」について何ら言及していたわけではない。むしろ「シス男性」との性愛を想定したものであったが、

しかし《トランス女性を愛する可能性》を“想定”していない時点で「シスセクシズム(シスジェンダー中心主義?)」と見なされ、トランス主義者およびクィア主義者によるネットリンチの犠牲者となったのだ。

こうなると、もはや「スーパーストレート」という用語の是非を議論する以前の問題である。「スーパーストレート」あるいは「スーパーレズビアン」「スーパーゲイ」といった語彙を用いずとも、

恋愛やSEXのパートナーを選別する基準に「生物学的性別」を含めるセクシュアリティ“表明”しただけで「トランスジェンダリズム」に基づく“批判”の対象となるということだ。

そのような「トランスジェンダリズム」の実効支配下において「レズビアン当事者」は、自らのセクシュアリティについて主体的かつ自由に語ることができない。これはレズビアン」の性的主体性を抑圧する《レズビアン差別》としか言い様がない。

《性的に興味をもてないこと》が、その相手を“傷つける”といったナイーブな思い込みは、レズビアン」が男性に性的興味をもたないことを理由に「男の敵」と見なされて迫害され、時には「矯正レイプ」の被害に晒されてきた《レズビアン差別》の歴史的経緯を正当化するものだ。

けっきょくのところ、それは男性が女性に告白(求愛)してフラれた(断られた)ことで、自分の人間性まで否定されたと勘違いし、一方的に逆恨みするストーカーまがいの被害妄想でしかない。

そも、このような「トランスジェンダリズム」の主張は「(女性を愛する)レズビアン」であれば「トランス女性」を性的対象にすべきであるという一種の「性規範」を疑いもなく前提としているが、

それこそ《女は男を愛するべきである》という「異性愛規範」が装いを変えて再生産されているにすぎない。

ゆえに、そのようにして「レズビアン」のセクシュアリティを規定することは、まさしくレズビアン」の性的主体性および「性の自己決定権」の行使を不当に妨げる《人権侵害》であり《レズビアン差別》であることは論を俟たない。

>私が例えば「○○人は恋愛対象になりません」と(思っているだけでなく)表明したら批判の対象になります。それと同じということです。

このようにしてセクシュアリティの問題を「人種」の問題と無批判に混同する論理の摩り替えもトランス主義者に好まれるところだ。

まず人が恋愛やSEXのパートナーを選別する上で、同じ(とまではいかなくても自分に近い)価値観や感性を共有できる相手を希望するのは、ごく自然な心理だ。この価値観・感性は食べ物や娯楽の趣味、宗教観、さらには美醜の感覚やSEXの好みも含まれる。

そして個人の価値観や感性は、生まれ育った文化の影響を受け、そして人種は「ブラック・カルチャー」などに象徴されるとおり、じつのところ文化と密接に結びついている。

ゆえに日本人の多くは、趣味や仕事は別として、恋愛やSEXといった深い関係性においては、日本人のパートナーが望ましいと考える。

この場合の「日本人」とは、ようするに日本に生まれ育ち、日本の文化を共有できる人を指す言葉であり、多くの場合は黄色人種を指す。

むろん《日本に生まれ育ち、日本の文化を共有できる人》の中には、たとえば黒人も含まれるが、じつのところ大多数の「日本人」にとって黒人は、けっして身近な存在とは言い難い。それこそ人種の坩堝と呼ばれるアメリカ社会ならともかく、日本社会において職場や学校などで日常的に黒人と接する機会のある人は、ごく限られるだろう。

ゆえに多くの「日本人」が、恋愛やSEXのパートナーとして、あえて黒人を想定することはほとんどない。一方でポルノグラフィにおいては、黒人の男女がしばしば登場するけれど、仮に黒人の性的パートナーを希望する「日本人」がいたとして、そのような人々が“想定”する「黒人」とは主としてそのような文脈であり、それこそ手放しで肯定できる価値観・感性ではないことは自明だ。

もっとも近年は「人種」という概念自体が差別的であると見なされているようなので「日本人」は「人種」というより「民族」と捉えた方がいいかもしれない。とはいえ、いずれにせよ特定の「民族」を性的対象から“除外”することもまた、けっきょくのところ《民族差別》と見なされるであろう。

しかし、自分と異なる「民族」を性的対象として“想定しない”ことは、特定の「民族」について「恋愛対象になりません」“表明”することとは、まったく異なる。

話を本題に戻すが、これはレズビアン」の性的対象についても同様である。

たとえば「女性」が好きだといった場合、ただし性器の形状は「男性」にかぎるだとか、性自認は「男性」にかぎるなどと、いちいち指定することは、まずない。

すなわちレズビアン」は「トランス女性」を性的対象として、意図的に“除外”しているというよりも、むしろ“想定しない”といったほうが実態に即しているのである。

それにもかかわらず「トランス女性」を性的対象から“除外”することが「差別」であるといった物言いは、

そも「トランス女性」を性的対象の想定から“除外”すること自体を「シスセクシズム(シスジェンダー中心主義)」と規定する思想を前提としているため、

皮肉にも逆説的に「トランス女性」を性的対象として“想定”することを“強制”するものとなっている。

自らの性的対象にならない相手とのSEXを“想定”して、嫌悪感を抱くのは当然であるが、そのような心理についてトランス主義者は「トランスフォビア」「シスセクシズム」と決めつけ、神の如き高みから「レズビアン」を一方的に糾弾・断罪するのである。

もっとも想定外ということであれば、chocolat.の一連の発言も、とくに「レズビアン」を“想定”したものではなく、それを《レズビアン差別》と結びつけて“批判”されるのは不本意であるかもしれない。

だが《女性を愛する性的指向の人が「女性」の中に「トランス女性」を含めない、ということを表明するということは「トランス女性を女性と認めない」と単に明言しているだけ》という言説がレズビアン」の迫害・抑圧に利用される可能性について一切考慮していない時点で、まさにchocolat.が《レズビアン差別》の問題を無視・軽視している証拠であり、そのような意識のありよう自体が《レズビアン差別》以外の何物でもない。

翻って「レズビアン」の多くが「トランス女性」を性的対象として“想定”しないことは、「トランス女性」のジェンダーアイデンティティを尊重することと何ら矛盾しないことはすでに述べてきたとおりだ。

むしろ「トランス女性」が性的対象として“想定”されることによって「トランス女性」に対する嫌悪が喚起されるのだとすれば、わざわざそのような“想定”を「レズビアン」に対して強いるトランス主義者の言説こそが《トランス差別》を“煽動”するものである。

元より、特定の被差別的属性の人々を指して「こいつと性行為できるのか?」と迫るのは、むしろ加差別者の側が好んで用いてきたレトリックだ。

しかるにトランス主義者は、トランス差別反対を唱えながら、皮肉にもそのような《差別主義者の論理》を踏襲することで、実際にはむしろトランス主義者こそがトランス差別者の側に与してしまっているのだ。

言うなれば「トランスジェンダリズム」とは、「レズビアン」に対して「トランス女性」への“本来抱く必要のない嫌悪”を引き立てることによって「レズビアン」を「トランス者別主義者」に仕立て上げ、ひいては「レズビアン」に対する性的加害を正当化するものである。

元よりレズビアン」のセクシュアリティについて、第三者が事細かに詮索したり、あるいは自ら事細かに語るように強いるのは、それ自体が「レズビアン」に対する性的加害に他ならない。言うまでもないが、これは上述したように「レズビアン当事者」が“主体的”に自身のセクシュアリティを語ることとは別問題である。

「トランス女性」を性的対象として“想定しない”ことが「差別」であるといった「トランスジェンダリズム」の雑な立論は、そうした性的加害の実態を“想定しない”ことで、当人の意図がどうあれ結果的に「レズビアン」への性的加害を正当化するものとなっているのが問題である。

>強制ではなく「わざわざ言う必要のないことを強調して言うのは差別に当たることもある」と言う話です。

トランスフォビア」ないし「シスセクシズム」との“批判”が、トランス女性を性的対象に含めるレズビアンにはなされず、トランス女性を性的対象に含めないレズビアンに対してのみなされるのであれば、

レズビアン」がその“批判”から免れるためには、トランス女性を性的対象にすること――あるいは現時点においては困難であっても、将来の可能性においては《トランス女性を愛する可能性》に“開かれる”こと――を“表明”してみせるほかない、という帰結に陥る。

したがって、それは「レズビアン」に対してトランス女性を性的対象に含めることを“強制”するダブル・バインド(二重拘束)に他ならないのだ。

「スーパーストレート」という用語の是非はさておき、そも前述のとおり「複合的性別」を前提に恋愛やSEXのパートナーを選別する人々(※レズビアンに限らない)が、なぜトランスジェンダーを性的対象にしないことを“わざわざ表明”する事態に至ったのかといえば、

それはまさしくトランスジェンダーを愛さない(性的対象に含めない)ことは「差別」であると強弁する「トランスジェンダリズム」の“暴論”に対しての「対抗言説」に他ならない。

ようはマッチポンプであり、それこそトランス主義者の側が「わざわざ言う必要のないことを強調して言う」という独善的な戦法を後先考えずに採用したことへの、必然的な結果ということだ。

しかるに「わざわざ言う必要のないことを強調して言う」のが「差別」ということであれば、

《「女性を愛するレズビアン」が「トランス女性」を性的対象に含めないのは「差別」だ》といった「わざわざ言う必要のないことを強調して言う」のは、

それこそレズビアン差別》以外の何物でもない。