百錬ノ鐵

百合魔王オッシー(@herfinalchapter)の公式ブログです。

レズビアンの「性の自己決定権」の正当な行使を妨げる「恥」の倫理

(2019年8月4日 タイトル変更)

(2019年11月20日 加筆修正)

 

 

これはまさに私が指摘している、レズビアンがトランス女性を性的対象に含めないことは「自由」だけれども「差別」であることには変わりない、というクィア理論やトランスジェンダリズムダブル・バインド(二重拘束)を端的に表すものだ。

もっとも文中に「レズビアン」という言葉を巧妙に避けているし、生物学的性別を前提に恋愛やSEXのパートナーを選別するという意味では異性愛者も含まれるけど、プロフィール欄に《差別はみんなダメだけど現在特にMtF差別に反対。》と記載していることから、今話題の急進的・先鋭的なトランス/クィア活動家とレズビアンの対立をめぐる論争を前提にしていることは明白なので、ここでは「レズビアン」に焦点を当てて話を進める。

また「属性」ということであれば、当然ながら「トランス女性(MtF)」だけでなく「シス男性」も含まれるのだろう。つまり井上は、レズビアンが「非異性愛」という自らの性的指向を“口に出す(対外的に表明、カミングアウトする)”こと自体を《恥ずかしいこと》と決めつけた上で、そうした非異性指向を有するレズビアンに向けて「受け入れられることを求めて口に出すな」と恫喝するのである。

これは取りも直さず、レズビアンが男性(異性)を愛さないことを《成熟拒否》と決めつけた上で《男性(異性)を愛すること》を要求・期待する異性愛至上主義の焼き直しでしかない。

ただ、レズビアンに対して《トランス女性を愛すること》を要求・期待する文脈において、実質的に「トランス女性」は「男性」のジェネリック(代替)としてレズビアンに差し向けられているにすぎない。

ようはレズビアンに対して《トランス女性を愛すること》を要求・期待する者こそが、まさしく「トランス女性」を「男性」の立場に縛り付けて“男扱い”しているのである。

そも、生物学的性別を前提に恋愛やSEXのパートナーを選別するレズビアン(の多く)は、生物学的性別を前提にパートナーを選ぶといっているだけで、トランス女性が除外されることは結果論でしかない。

なぜならばレズビアンが生物学的性別を前提にパートナーを選別することは「トランス女性」のみならず「シス男性」も性的対象から除外されるのであり、その意味では特定の「属性」を排除しているとは言えないからだ。

それをむりやりMtF差別》に結び付け、あたかもレズビアンが「トランス女性は生理的に無理」と“口に出”しているかのように印象操作するのは、それこそ《MtF差別に反対。》を建前とした《レズビアン差別》を煽動する「ヘイトスピーチに他ならない。

だいたい、なぜ人間の「属性」と「人間性」を排他的な二項対立に設定する前提を、井上は疑いもしないのだろうか。

生物学的性別を前提に恋愛やSEXのパートナーを選別する、といっても実際には「生物学的性別」だけで判断しているわけではなく、性自認や「人間性」も含めて、複合的・多元的に判断しているということだ。

その意味では性自認が〈男性/女性〉でありさえすれば「生物学的性別」はどうでもいいと言っている人こそ、むしろ人間の《性別》を一元的にとらえている。もちろん、そうしたセクシュアリティも尊重されるべきではあるけれど、いずれにせよトランス女性を性的対象にすることは「人権」でも「政治的正しさ」でもなく、「性的嗜好」の問題でしかないという《認識はもっと広がるべき》である。

井上のプロフィールを見ると、

いろんな国のいろんな人と話して、いろんな生き方を学ぶのが好き。差別はみんなダメだけど現在特にMtF差別に反対。デミ&グレイセクシュアルでデミ&グレイロマンティック、パンセクシュアル。人と人とのつながりは最終的に全部友情に基づいていると思う。 一定数通知が来ると通知切っているのでリプ見えないことが多いです。

……とあるけれど、「レズビアン」という生き方についてなにも学んでいないし、パンセクシュアルというより、異性愛至上主義が形を変えた両性愛至上主義者」にすぎないようだ。

  • なお、言うまでもなく「パンセクシュアル(全性愛)」と「バイセクシュアル(両性愛)」は意味合いが異なるのだけれど、同性愛者(非異性愛者)に対して《性別を前提しない恋愛やSEX》を要求・期待することは、結果的に《異性を愛すること(の要求・期待)》になること、またパンセクシュアルがどのように人を愛そうと相手の側(の多く)にはそれぞれの《性別(性自認)》があることから、こうした文脈ではやはり「全性愛至上主義者」ではなく「両性愛至上主義者」と呼ぶのが適切であろう。

* * *

その上で、井上の議論は、レズビアンがトランス女性と《セックスしない自由》については「権利」として“守られるべき”と認めながらも、それを“恥”という「倫理」によって妨げようとしている点が独特といえる。

レズビアン」がトランス女性を性的対象から除外することについては、二通りの解釈がある。

すなわちそれが「差別」であるとして頭ごなしに“糾弾”される一方で、それ自体は正当な「権利」であり「差別」には当たらないと認めながらも、特定の属性や身体的特徴をもつ人々を性的対象から除外することは“恥ずべきこと”であるとする「倫理」である。

両者は「差別」の認定については正反対に見えるが、じつのところレズビアン」がトランス女性を性的対象から除外するという事象をネガティブ(否定的)な状態としてとらえ、そうした正当な「権利」の行使を“糾弾”に見せかけた恫喝によって妨げようとしている点で、本質的に何ら変わりはしない。

「権利」と「倫理」の衝突をめぐるこうしたダブル・バインドは、「権利」と「倫理」がそのじつ別次元に帰属することに端を発している。ようは正当な「権利」の行使に対して、「倫理」という別次元のレトリックを持ち出すことで、その妨げを試みるものである。

仮に「権利」の行使が「倫理」によって批判される事態がありうるとすれば、それは「権利」の行使が他者の「権利」を侵害する場合であろう。しかし「レズビアン」がトランス女性を性的対象から除外することについて、それが「差別」ではないという立場を取る以上、なおもそれを「倫理」にもとづいて“糾弾”するのであれば、もはや「倫理」としての正当性すら放棄した“言いがかり”にすぎないことを露呈する格好となる。

ようはレズビアン」がトランス女性を性的対象から除外することは「権利」であると認めながらも、それが心情的には気に食わないということだろう。しかしそのような心情に何ら正当性がない以上、理性によって矯正されるべきであり、それこそ《その意見を受け入れられることを求めて口に出すな》との有難きお言葉をそっくりお返しする他ない。

* * *

かようにしてマイノリティの「権利」は、つねに「倫理」によって抑圧されてきた。

生活保護バッシング、ブラック企業、「在日特権」デマ――これらの社会問題は、法で定められた正当な「権利」の行使について《恥ずかしいこと》という「倫理」を植えつけることで、法によらずとも人間の「権利」を制限することが可能であるという事実を示す負の証左である。

「権利」があるからといって、何をしても許されるわけではない――このような「倫理」に基づいて、実質的に「レズビアン」は「性の自己決定権」を制限される。言い換えるなら「レズビアン」がトランス女性を性的対象から除外する「権利(性の自己決定権)」があること自体は認めながらも、それを行使することを“許さない”という、欺瞞に満ちたダブル・バインド(二重拘束)だ。

しかし実際には逆で、たとえ法的に「権利」が与えられていたとしても、それだけでは不十分であり、併せてそれを妨げられることなく行使できる環境を整えなければ画餅(画に描いた餅)と化すのである。

井上は《いろんな国のいろんな人と話して、いろんな生き方を学ぶ》より前に、小学校の「しゃかい」の授業から「人権」を“学ぶ”べきだろう。 

 

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※ 2019年11月20日現在、上掲したプロフィールの文言は削除されている。

【悲報】「クィア理論」が《レズビアンへの性的加害を正当化するレトリック》にすぎない事実を「クィア主義者」古怒田望人 (ilya_une_trace)自らが追認した歴史的瞬間!

(2020年3月28日 加筆修正)

>lesbianに対して私は女性だ、受け入れられないならsuck my dick

レズビアン向けのスペースやイベントなどでトランス女性がお断りされる問題、仮に《トランス差別》であるとしても「差別」に「差別」で返しちゃダメ、というのは反差別運動の鉄則でしょう。

なぜならばそれは《差別の原因を被差別者の側に求めるレトリック》《被差別者の言動を根拠に差別を正当化するレトリック》に他ならないから。

ましてや性的加害を示唆する発言など――相手が女性だろうと男性だろうとノンバイナリだろうと――論外で、それこそ脅迫として即通報すべき。そのようなものは「政治的正しさ」を口実にしながら、ポルノじみたレズビアンへの加害欲・レイプ欲を表出しているにすぎない(もちろん「dick」を「ladydick」だの「girldick」だのに置き換えても同じことね)。

ところが、そのような真っ当な指摘に対してイキリ系のトランセル【いりや/古怒田望人 (@ilya_une_trace)】 が勢いよく噛みついてきた!

>いやそこにはトランスコミュニティへの長年のレズビアンコミュニティからの差別ってバックグラウンドがあるのよ。『セックスチェンジズ』ぐらい読んでから出直してきな!

う~ん、このトランセルの理屈なら「レズビアンコミュニティへの長年のトランスコミュニティからの差別ってバックグラウンド」を理由にトランス女性をお断りすることもやはり正当化されてしまうのだけれど?

んでその『セックスチェンジズ』とやらには“正当な理由”さえあればレズビアンに性的加害をしても許されるって書いてあるのかね?

いかなる事情があろうとも、lesbianのコミュニティに対して男性の身体を保持する人が、私は女性だ、認められないやつはsuck my dickなどと伝えるのは問題でしょう。

https://twitter.com/Sora29517773/status/1126272391154245632

さらに食い下がるトランセル。どんどん支離滅裂になっていく。

 「いかなる事情」をちゃんと勉強してください。その上で発言すべきです。そもそも自分は匿名なのに個人を曝すのは極めて暴力的で差別的です。

https://twitter.com/ilya_une_trace/status/1126332164390318080

同じ本を読んだら同じ結論に至るはず、という思い込みは同一性の押しつけでは? 「クィア理論」は多様性を金科玉条としながら、ずいぶん排他的なことですね。

あげく今どきドヤ顔でネットの匿名性批判とか、令和元年に『真剣十代しゃべり場』を見るようです。でも匿名性をあげつらうなら、ツイッターで見かける主要なトランス活動家の大半は匿名だよ(あと正確には、ハンドルネームやペンネームの使用は「匿名」ではなく「顕名」と呼ぶんだよ。またひとつおりこうになったね♪)。

だいたい自分だって個人であるSora氏を“曝し”ているのだから「暴力的で差別的です。」というのは自己紹介ですか?(ついでに言うと、匿名による個人の“曝し”という行為が、百歩譲って“暴力的”であったとしても「差別」は関係ないだろう)。

※ちなみに「古怒田(こぬた)」という苗字は実在するみたいだけど【古怒田望人】というのが本名なのかどうか知らんしどうでもいい。

「男性の身体」という定義が曖昧です。身体とは多義的なものです。

https://twitter.com/ilya_une_trace/status/1126330069733875714

「性」が“多義的”であるなどという「クィア理論」特有のレトリックによって「レズビアン」にペニスを用いた性行為(オーラルSEX)を強要するという性的加害が正当化されている。

・ところで“多義的”とあるのは“多元的”の誤りだろうか? この場合は「性別二元性(二元制)」に対応しているのだから“多元的”が正しい。

こういうトランセルを含めた「世間」というものの、「レズビアン」に対する“まなざし”のようなものを考える上で、常日頃からどうしても納得いかないことがある。

ふつう、異性愛者女性(仮にそれが杉田水脈のような誰もが認める差別主義者であろうと)に対して「チ×ポをしゃぶれ」なんて言ったら、誰もがためらいなくセクハラ(あるいは「女性」に対するヘイトスピーチ)と認めるだろうし、通報されるはずであろう。

だが同じことをレズビアンの女性に対して言うならクィア理論」だの「トランスジェンダリズム」だのの“政治的に正しい”実践だと見なされてしまう。この非対称性こそが「差別」なのだ。

ようは《トランス女性は女性である》から同じ「女性」である「レズビアン」を性的に加害しても「性差別」「性暴力」にはなりえないという屁理屈を、小難しく“学術的”に言い換えたのが「クィア理論」である。

しかし「性」が“多義的”であるというなら、なおのことトランス女性が〈女性〉であると同時に〈男性〉としての側面も有している事実を否定できないだろう。

そこへきてトランス女性のペニスを「女性器(レディディックだの女根だの大きなクリトリスだの)」と言い張ったところで、ペニスの形状や機能が変わるわけではない(よって、一部のレズビアン当事者が女性同士の性行為に「ペニスバンド」を用いることをもって《トランス女性とのペニスを用いた性行為》の強要を正当化することもできない)。

言い換えるならレズビアン」に対して「ペニス」を用いた性行為を強要するという文脈において、トランス女性の性自認に関わりなく「ペニス」は男性ジェンダーとしての社会的・政治的機能性を担うこととなる。

なぜならばそれは「レズビアン」が《男性を愛すること》を強要されるという「異性愛規範」に基づいた社会的・政治的力学が機能している中で、ただ〈男性〉の性役割ジェンダー・ロール)を「トランス女性」に置き換えたにすぎないからだ。 

だいいち、 #トランス女性は女性です といったスローガンにおいては「女性」の定義は不問とされているのに、レズビアンが男性との性行為を強要される問題について「男性」の定義が問われるのは、まったくもってダブル・スタンダードというほかない。これも非対称だ。

つーかこのトランセルこそ、女性アカウントであるSora氏相手にえらそうにマウンティングしてないで女性差別や性暴力の問題について一からお勉強すべきでは?

lesbianに対して女性として受け入れられないならsuck my dick(体で分からせてやる)などと迫るのは絶対に許せないことで、いかなる事情があっても同じです。

https://twitter.com/Sora29517773/status/1126348377191354368

こんなこといちいち説明しなきゃわからんのかなーと思うけど、まぁクィア理論」の教科書には載ってないんだろうね。知らんけど。 

学ぶ気を持たれないのですね。素直に残念です。queer とかも分からないですよね。

https://twitter.com/ilya_une_trace/status/1126349669443850241

はい、みなさんご注目。

クィア理論」とやらがレズビアンへの性的加害を正当化するレトリックにすぎない事実を、クィア主義者【いりや/古怒田望人 (@ilya_une_trace)】 自らが追認した歴史的瞬間です。どうぞご査収ください。

つーかさ、難解な学術書を読まなくたって「クィア理論」の批判はじゅうぶんできるだろ。オウム真理教の複雑怪奇な教義を“理解”しなくてもオウムのテロ行為を批判することができるのと同じ。

私が関西クィア映画祭との議論で“理解”したのはクィア理論」だの「クィア運動」だのは、所詮「反差別」を装いながら《レズビアン差別》を自ら正当化・特権化するためのレトリックでしかないということ。それが自ら「queer」を自称することによって、そのような「クィア理論」「クィア運動」に対する批判・追及は“クィア差別”と見なされ、封殺されてしまうのだ。

ossie.hatenablog.jp

その事実を、私は【いりや/古怒田望人 (@ilya_une_trace)】によって再確認した。

クィア理論」を“学び”“理解”しているという【いりや/古怒田望人(@ilya_une_trace)】によれば、レズビアン」に対して「チ×ポをしゃぶれ」と言い放つことは「クィア理論」に基づいた“政治的に正しい”実践として肯定・容認されべきなのだそうな。

クィア理論」を“学び”“理解”することによって、そのような《レズビアン差別》を正当化する思想が刷り込まれるというのは、まさしく「クィア理論」自体が《レズビアン差別》の構造を本質的に内包する思想であるという証拠。

そのような「クィア理論」を“学び”“理解”するということは、すなわち「クィア理論」の批判的検証しかありえない。

ところが「クィア理論」に基づいた《レズビアン差別》を批判したならば、クィア主義者から「クィア理論」を“学び”“理解”していない、と決めつけられてしまう。しかしそれは裏を返せば、「クィア理論」を“学び”“理解”する人であれば「クィア理論」に基づいた《レズビアン差別》を批判できないということになる。

ある意味で無敵の論法だけど、典型的な循環論法である。

いやコンテキスト理解してから発言しましょうよってことだけなのですが。。。

https://twitter.com/ilya_une_trace/status/1126363962029760512

【いりや/古怒田望人 (@ilya_une_trace)】は「クィアの壁」に阻まれてどうしても議論の(「クィア理論」の、ではなく)本質が見えなくなってるみたいだから、あらためて強調してやろう。

レズビアン・コミュニティにおけるトランス排除を《トランス差別》であるとして告発・批判したいのであれば、その“差別性”を論理的に指摘すればよく、レズビアンに対して性的加害をする必要はない。

そんな当たり前のことは、このトランセル以外は誰でも“理解”しているのに。【いりや/古怒田望人 (@ilya_une_trace)】は、自分に都合の良い「コンテキスト」を一方的に設定することで、自らがそのフレームに囚われ、全体が俯瞰できなくなっている。

どうやら「クィア理論」を学ぶとIQが下がるようである。トランセルクィア主義者による《レズビアン差別》が批判されるのは、「コンテキスト」を“理解”しないのではなく、そのようにして《レズビアン差別》を正当化する「コンテキスト」を拒絶しているからである。

あとこのトランセル、自撮りをやたらアップしてて、自分大好きみたいだから“曝して”宣伝しといてやるよ。

 (なぜ唐突に英語? つーか誰もおまえの容姿の話などしとらんのだが……?)

  

レズビアン・コミュニティの閉鎖性・排他性をあげつらう以前に、こういうゴミみたいな「トランセル」は何処の「コミュニティ」でも排除されるべきだよね。問答無用。

 

現実社会の「倫理」を乗り越える、藤本タツキ『妹の姉』の“主眼”と“目線”

藤本タツキ『妹の姉』少年ジャンプ+(2019年5月2日配信)

https://shonenjumpplus.com/episode/10834108156652911821

この漫画のシチュエーション――妹が姉のヌードを無断で絵の題材にし、しかもそれが賞を獲り学校に掲示される――が、けしからん(あるいは、たんにキモい)、と批判を浴びているらしい。

私は、フィクションであれば何をどのように表現しようが問題ない、という立場を取る者ではない。たしかにこの作品が、実際に起こった出来事を元にしたものであるならば――じじつ否定的意見の大半は、フィクションの表現を現実世界に置き換えたもので、いつのまにか仮定が事実に摩り替っている――、それをこのようにして美談に仕立て上げる一面的な表現は批判の対象になりうるだろう。

しかし、この作品はそうではない。むしろ姉妹二人の愛憎入り混じった、閉じられた関係性を描くことに主眼があるのではないだろうか。

そしてそのような人間関係を描く上で、上述のシチュエーションは、現実社会における何かのトレースではなく、二人の「精神世界」「心象風景」を投影・象徴したものと解釈するのが妥当だろう。それがあまりにも現実離れした、過剰で荒唐無稽な表現――あまりに現実離れしすぎていて、実現化する可能性はゼロに等しく、よって批判者が懸念する現実への影響も考えにくい――になっているのは、まさしく少女二人の、自意識を持て余した若者の目線をとおして表現されているからだ。

たとえば、この作品には姉妹の他に、クラスメートや先生、親や親戚などの第三者が登場する。興味深いのは、それらの脇役が、実質的には姉のほうにしか干渉してこないことだ。

姉は、自己のアイデンティティである絵の才覚によって周囲から認められることを内心望んでいながら、後追いの妹に先を越され、しかもよりによってその妹の作品を機に、不本意ながらも周囲の注目を集めることになる。

こうした筋書きを読み解いていくと、そのような周囲の存在は完全な他者というより、姉自身のコンプレックスと二律背反を成す、屈折した承認欲求を具象化したものと捉えられる。

すなわち、そうした外野の存在は、作中においてあくまでもギミックでしかない。妹の目には、崇拝にも近い憧れの対象である姉の存在しか映っていないし、また姉も当初は周囲の視線に悩まされながら、最終的には妹を直視することで、やがて自身の心の壁をも乗り越えていく。

言うなれば『妹の姉』は、一つの作品世界をフルに費やした壮大な姉妹喧嘩であり、そして「姉妹百合」なのだ。

  • あるいは、芥川の『地獄変』やデミアン・チャゼル監督の映画『セッション』などにも通底する、表現者としての止むに止まれぬ「業」を描いた作品であるとも解釈できる。

そのような独特の表現を、杓子定規に現実社会の「倫理」に当てはめた上で、頭ごなしに“糾弾”することが、マンガを読み解く上で正しい「評論」と言えるだろうか。

  • あるいは、本作に対する私の「評論」を、私が過去に批判した作品に当てはめて、それらの評価を覆そうと試みることもまた“杓子定規”である――と釘を刺しておこう。

むかし流行った『空想科学読本』のように、フィクションの表現を現実に当てはめたらどうなるか……と無粋な突っ込みを入れながら読むのも楽しいかもしれないが、それが作品の「批判」「糾弾」に直結してしまうのだとしたら、つまらないことだ。

繰り返すが、フィクション作品に社会性・政治性を見出すのはいい。しかし、そうした社会性・政治性を乗り越えた先に、マンガという表現の可能性と面白さがあることまた、事実である。

P.S.
『妹の姉』フィーバーの陰で埋もれている感があるけれど、その二日後(5月4日)に同じく「少年ジャンプ+」で公開された新浜けいすけ『あなたのようになりたかった』も、ウェルメイドで感動的な百合作品。SFだが難解な印象はなく、クセがないのでこちらはストレートにお薦めできる。

 

クィア・ベイティングと「百合営業」と野島伸司 #百合だのかんだの #百合

クィア・ベイティング(queerbaiting)」という言葉があるそうだ。

 クィア・ベイティングは搾取か、それとも進歩の表れか|NEWS JAPAN

 「queer」というのは、ここでは非異性愛(具体的には、同性愛または両性愛)のこと。「baiting」というのは“釣り”。

ようするに、「同性愛」とあえて明確に規定しないでおきながら、あからさまに「同性愛」をほのめかす表象を用いることで、同性愛当事者、あるいは同性愛表象を好むユーザーを惹きつけよう(釣ろう)とするといった、ややこしいが、ありふれた商業戦略を示す言葉である。

日本では、いわゆる「百合営業」がそれに該当するだろうか。私自身、女性アイドルなどが女子同士で絡み合ったりしている画像をネット上で見かけると、つい右クリック保存してしまうていどには日常的に“釣られ”ている。

とはいえ「百合営業」を手放しで賛美する気にもなれないのは、そのようなあからさまに「同性愛」を連想させる表象を用いる一方で、当人たちはガチの「同性愛者」ではないというお約束(暗黙の了解)があるためだろう。ともすればそれは保毛尾田保毛男に象徴される、ホモフォビアに根差した「ホモネタ」の類と見分けがつかない。

もっとも芸能人、とくにアイドルが、自身の性的指向を明確かつ対外的に表明することはあまりない(その意味で、後述する馬場ふみかがリンク先の記事に出したコメントは珍しい。もっとも彼女はアイドル枠ではないのかもしれないけど)。そこへきて、彼女たちが「異性愛者(非同性愛者)」であることを自明とする議論は、むしろ異性愛至上主義の内面化を露呈してしまいかねない。

また、それこそ「クィア理論」の文脈においては、そのような非異性愛の《可能性》を示唆することが、ともすれば《人間の性的指向は常に流動・可変する》といった政治的イデオロギープロパガンダにも結び付けられがちだ。しかしそれはそれで、他人のセクシュアリティを自分の言いたいことのために利用している感が否めず、鼻白んでしまう。

いずれにせよ「百合営業」についてそれほど目くじらを立てる必要はないだろう。同性愛者の方々に失礼! と目くじらを立てるのも、性的指向流動性ガーなどと過度な期待や意味性・観念性を求めるのも、どこか頭でっかちな気がする。

が、それを「作品」という形で世に問うとなれば、話は別だ。   

馬場ふみか・小島藤子 共演!野島伸司が描くFODオリジナルドラマ『百合だのかんだの』配信決定!|ACTRESS PRESS(※強調は引用者)

https://actresspress.com/drama-yuridanokandano/

野島伸司(脚本)からのコメント】
今回の作品については、 女性同士の恋愛を描くつもりは全くありませんでした。 離婚や仕事で忙しく彼氏を作らない女性が増えている中で、最後には女性同士で一緒に暮らそうなど、男女の関係が限界にきているように感じます。本質的には分かり合えない、生き物が違うものといるより、分かり合える種族と一緒にいた方が有意義じゃないか。女子がトイレに手を繋いでいくことの延長であり、イイ男がいたらみんなで共有するくらいあってもいいんじゃないかと思います。(後略)」

 タイトルからし「百合」というキーワードを掲げておきながら(しかも馬場ふみか演じる主人公の名前も【篠原百合】……)、脚本の野島伸司《女性同士の恋愛を描くつもりは全くありません。》と言い張る。そのあざとさこそ「クィア・ベイティング」の典型であろう。

 『おっさんずラブ』のヒットに遅ればせながら便乗した感がアリアリと伝わってくるが、『おっさんずラブ』が「ラブ」と明確に自己規定しているのに対し、女性同士の関係性を描く実写ドラマは、いまだに《友達以上恋人未満》で足踏みしているようだ。

マンガの分野では、女性同士の「恋愛」をポジティブに描く「百合作品」などけっして珍しくないのに、実写のドラマや映画(さらには文芸)は元号が変わろうとする最中にも新時代を迎える兆しが見えないのは、どうしたことだろう。

両者間の非対称は、「百合」という概念がすでに浸透・認知されているマンガ業界とは異なり、女性同士の恋愛(を明示または暗示する表象)を、未だにセンセーショナルなネタとしてしか扱えないドラマ業界の旧態依然とした体質を浮き彫りにしているかのようだ。

そして何よりも《イイ男がいたらみんなで共有するくらいあってもいいんじゃないかと思います。》という野島伸司のコメントからは、女性同士の連帯を肯定するというより、そこに男(である自分)が混ざりたいという意識がダダ漏れである。

このようなものには、さすがに“釣られる”気にならない。

P.S.

なお、NHK総合で今週金曜日(4月19日)から放映される連続ドラマ『ミストレス~女たちの秘密~』では、大政絢演じる異性愛者の既婚女性がレズビアンに恋をするという筋書きで、そのレズビアンの役を篠田麻里子が演じるのだという。むしろこちらのほうが期待できそう? 

thetv.jp

 

 

 

 

《トランス女性を愛さない奴は差別主義者》←このようなトンデモ思想こそが「差別」である理由

(2021年11月14日 加筆修正)

jiji氏が指摘しているように、この「国連機関」のメッセージは、あまりにも独り善がりでいろいろとおかしい。

そもそも生物学的性別を基準に恋愛やSEXのパートナーを選択するという多くの人にとって、トランス女性がその対象にならないのは生物学的性別が理由であって「ジェンダーアイデンティティ性自認)」の問題ではない。

一般的な社会生活の上で、トランス女性の「ジェンダーアイデンティティ」を尊重して〈女性〉として扱う・接するということは、トランス女性を恋愛ないしSEXの対象にすることとは違う

――というのが、トランスライツをめぐるごく一般的な考え方だと思っていたが、どうも近頃の流行は違うようだ。

そういえば昔、ゲイリブ嫌いのゲイが「(LGBT運動に反対する理由について)いくらLGBTの権利が公に認められたところで、自分が思いを寄せる人から愛されないのなら何の意味もない」と言っていたのを思い出した。

とはいえ世の中には、自身がトランス当事者でないにもかかわらず、いや「当事者」でないからこそ自分自身の意識お高いアピールのために、このようなトンデモ思想に賛同する、傍迷惑な自称「トランスアライ」が存在する。

https://twitter.com/justkiddddding/status/1114729428054040577

 感覚や感性として合う合わないは当然あるし、関係を拒絶する自由はひとりひとりの不可侵な権利だし、その選択も尊重されるべきだけど、そうした拒否の理由が特定の身体的特徴や性自認に求められた場合は、ベッドの外だろうと中だろうとまぎれもなく差別ですよ。「人の勝手」とかいう次元ではない。

まず、それを言うのなら

自身がトランスジェンダーでありながら、他のトランス女性とのSEXを(特定の身体的特徴を理由に)拒否するトランス女性(トランスレズビアン)に対しても、同じことを言うべきであろう。

ここで議論されている「差別」とは、文字通りに“差をつけて区別すること”ではなく、そのような差異を利用した《人権侵害》を指す言葉である。

しかるにレズビアンが「トランス女性」を性的対象(恋愛対象)にしようがしまいが《トランスジェンダーの権利》が侵害されることはない。よって《特定の身体的特徴や性自認》を理由に「関係(肉体関係・恋愛関係)」を“拒絶”することは《トランスジェンダー差別》にも当たらない。

あるいは《特定の身体的特徴や性自認を理由に「関係(肉体関係・恋愛関係)」“拒絶”することが「差別」であると言い張るのなら、

そもそも《(特定の)感覚や感性》を理由に「関係(肉体関係・恋愛関係)」を“拒絶”することは《(特定の)感覚や感性》に対する「差別」にはならないのか? 《身体的特徴や性自認だけでなく《感覚や感性》もまた自分自身の意志や努力で変えられない「精神的特徴」であるはずなのだが。

だいたい@justkidddddingの理屈に倣うのであれば〈異性愛者〉が〈同性愛者〉との「関係(肉体関係・恋愛関係)」を、相手が〈同性〉であることを理由に“拒絶”したとしたら《同性愛者差別》ということになってしまう。

むろん、そんな馬鹿なことを言うゲイリブ活動家は見たことがない。にもかかわらず、そのような異常な言動がまかりとおっているのが今日の「トランスジェンダー運動」の実情なのだ。

https://twitter.com/justkiddddding/status/1114729428054040577

おかしいですね。ポスターの時点から「愛さないこと」の「理由」における差別性が一貫して問題なのに、いつのまにか「愛すること」の「理由のなさ」という誰が見ても首肯できる次元に話がすり替わっている。あと、愛と差別がつねに無関係なら、The personal is politicalはどこへ行ってしまったのか

「The personal is political」とはラディカル・フェミニズムの用語で、ドメスティック・バイオレンス児童虐待など、それまで“私的(パーソナル)”とされてきた空間ないし関係性の内で隠蔽・正当化されてきた人権侵害を告発するための概念である。

「愛」やセクシュアリティといったプライバシーの領域に、赤の他人がズカズカと土足で踏み入る行為を正当化するものではないし、むしろそのような事態に陥らないよう、じゅうぶん配慮する必要がある。

あるいは「差別」の機能する社会で暮らす以上、人は誰しもが「差別」の構造から免れないといったことを言いたいのなら、

それは一種の「原罪論」であって、生物学的性別や身体的特徴に基づいてパートナーを選択することが「差別」であるか否かといった議論とはまったく別次元の問題である。

なぜならば生物学的性別を基準にしようがしまいが、前述のとおりどのような形の「愛」であっても「差別」に結びつく“可能性”はありうるのだから。

ゆえに、そのようなそのような意味合いで生物学的性別のみを、ことさら“差別的”とあげつらうのは論理矛盾であるし、ましてそうした原理原則を振りかざして、特定の個人やセクシュアリティを攻撃するのは愚の骨頂だ。 

https://twitter.com/justkiddddding/status/1114718475883180033

まず、もとのポスターでは「love」となっている箇所を、なぜ「性的関係」に限定しているのかわかりません。この時点でポスターの解釈として狭すぎる。次に、もし「性的関係」に限定したとして、「誰」に対しても「拒否できるのは当たり前」ですが、それが「何」だからと表明するのは差別になりえます。

>まず、もとのポスターでは「love」となっている箇所を、なぜ「性的関係」に限定しているのかわかりません。

「love」の概念から「性的関係」を切断・排除しようとする試みは《「精神的な同性愛」は認めるが「肉体的な同性愛」は許さない》というホモフォビアにつながっていく、それこそ“差別的”な考え方ではないか。

どうやら、この@justkidddddingなる御仁はトランスフォビアには意識がお高くてもホモフォビアにはまるで無知、無関心のようだ。

https://twitter.com/justkiddddding/status/1114718481407045632

国連のポスターもそういうことだろう。たまたま出会った「トランスジェンダーである」人を愛さない自由は当然あっても、それを相手の「トランスジェンダー」という属性に絡めて表明するのは、女性だろうと男性だろうと差別的(そもそももとのポスターは、シス男性のMtFへの偏見を撃つ狙いなのでは?)

《属性に絡めて表明》とは、一体どういうことか?

トランス女性を恋愛やSEXの対象にしない人――この場合は〈男性異性愛者〉または〈女性同性愛者〉は、

たんに生物学的性別を基準に恋愛やSEXのパートナーを選択しているだけであって、

トランスジェンダー」という“属性”だとか、またその「相手」がどのような「ジェンダーアイデンティティ」をもっているかは無関係であろう。

それをわざわざ《「トランスジェンダー」という属性に絡めて》いるのは、こうした自称「トランスアライ」くらいなものだ。

>(そもそももとのポスターは、シス男性のMtFへの偏見を撃つ狙いなのでは?)

仮にそれが《シス男性のMtFへの偏見を撃つ狙い》であっても、現実に〈男性異性愛者〉がトランス女性(あるいは生物学的に〈男性〉である人)との恋愛(性愛)を強要されることは稀なので、

実質的には〈女性同性愛者(レズビアン)〉への恫喝として機能している。

そも「女性」を愛することについて議論する上で「シスジェンダーの男性異性愛者」しか想定されず「女性同性愛者(レズビアン)」の存在が排除されるのであれば、

それは裏返しの「異性愛至上主義」「男性至上主義」に他ならない。

ようは異性愛者/同性愛者〉〈男性/女性〉の社会的・政治的力関係の非対称性をまるっきり無視した問題提起(問い)であり、またそうした非対称性に無自覚・無頓着である意識のありよう自体が「差別意識といえるだろう。

人は「完全なマジョリティ」にも「完全なマイノリティ」にもなりえない。現実に実現不可能な「政治的正しさ」を掲げるのは、けっきょくはマイノリティの中の“マジョリティ性”を針小棒大にあげつらうことで、マイノリティをさらに追い詰める口実に利用されるだけだ。  

>たまたま出会った「トランスジェンダーである」人を愛さない自由は当然あっても、それを相手の「トランスジェンダー」という属性に絡めて表明するのは、女性だろうと男性だろうと差別的

そもそもトランス女性を恋愛やSEXの対象にしない人が、なぜトランス女性を恋愛やSEXの対象にしないことを、わざわざ“表明”しなければならないのかといえば、

まさに《トランス女性を愛さない奴は差別主義者》などというトンデモ思想を喧伝する一部の「トランス活動家」だとか、またそれを無批判に受け売りする思考力ゼロの「トランスアライ」がいるからで、まさに語るに落ちている。

やれトランス女性のペニスは大きなクリトリスだのレディディックだのといった屁理屈を、当事者やそのパートナーが自分たちで納得するだけならともかく、人に押しつけるのであれば、生物学的性別を基準に恋愛やSEXのパートナーを選ぶ人は、トランス女性は対象外と表明せざるをえない。

そのようにしてトランス女性が恋愛やSEXの対象と見なされないことに、トランス女性が傷つくのだとしても、問題の本質は、そのような“表明”をせざるをえない状況を作りだしているイデオロギーやスローガンの側にこそある。

マッチポンプもいいところだ。

https://twitter.com/justkiddddding/status/1114718481407045632

人種Aのaさんがbさんに対して性的関係を拒否する事自体は完全に自由ですが、その理由としてbさんがマイノリティの民族Bであることを挙げたなら、bさんの自尊を毀損する差別になる。逆に、欧米や日本の男性による東南アジア女性への眼差しのように、他者を特定の性的存在として認識することも差別です。

>人種Aのaさんがbさんに対して性的関係を拒否する事自体は完全に自由ですが、その理由としてbさんがマイノリティの民族Bであることを挙げたなら、bさんの自尊を毀損する差別になる。

いかなる過激な民族主義者であるとしても、民族マイノリティを恋愛やSEXの対象に含めないことを「差別」だなどと言ったりしない。よって《その理由としてbさんがマイノリティの民族Bであることを挙げ》るという状況自体が、仮定として成立していない。

>逆に、欧米や日本の男性による東南アジア女性への眼差しのように、他者を特定の性的存在として認識することも差別です。

これも然りである。《他者を特定の性的存在として認識することも差別です。》というのなら、それこそ〈男性〉の異性愛者が〈女性(異性)〉という“属性”を《特定の性的存在として認識すること》も「差別」ということになるはずだ。

繰り返すが、このような異常きわまる言説がトランスジェンダー擁護にかぎって持ち出されるのは、

いかに現行の「トランスジェンダー運動」が、多くの「当事者」の意向や実態から掛け離れた異常なものであるかを示す根拠にしかなっていない。

じつのところトランス女性を性的対象に選ぶかどうかは「政治的正しさ(political correctness)」ではなく性的嗜好(sexual preference)の問題でしかない。

男性異性愛者の中にも「男の娘バー」「ニューハーフヘルス」に通う人がいるのと同じで、個人のセクシュアリティとして否定されるべきではないけれど、人に押しつけるべきでもない。

そもそも特定の“属性”を愛することと、個人としての【その人】を愛することは両立するし、現実に社会はそのようにして成り立っているはずなのに、

どうしてこの人(というか生物学的性別を否定する政治的イデオロギーにかぶれた人たち)の中では両者が排他的な二項対立に設定されているのだろうか。

だいたいさっきも言ったとおり、シスジェンダートランスジェンダーを恋愛やSEXの対象に含めないことが問題視されるのは、

裏を返せばトランス女性(この場合はトランスレズビアン)の側も、自身がトランスジェンダーであろうと恋愛やSEXの相手は身体女性がいいと考えているからだ。

生物学的性別を基準に恋愛やSEXのパートナーを選択することが「差別」と見なされるなら、その批判はまっさきにトランスジェンダーに向けられることになるであろう。

だから少しでも道理のわかる「活動家」は、少なくとも表立ってはそのようなトンデモ思想を口にしたりはしないのだ。

(2021年7月27日 追記)

なお、この2年後、問題の国連ポスターについて@justkidddddingとは異なる解釈で擁護する者が現れた。

ossie.hatenablog.jp

しかし制作者の意図がどうあろうと、@justkidddddingに見たとおり、

それをトランスジェンダーを性的対象(恋愛対象)に含まないことは「差別(トランスフォビア)」である》と解釈した上で、

なおかつそれを支持する者が存在するかぎり、

それが「性的対象(恋愛やSEX)」の問題を想定したものではないといった弁明は、何の意味もなさないのである。

 

《セクシャリティーの可変性・流動性》の下に切り捨てられる「レズビアン」のアイデンティティ(ある「人生相談」によせて)

Twitterに、このような「人生相談」の記事が流れてきた。

【相談】「レズビアンとして31年生きてきたのに、男を好きになりました」でも、セクシャリティに正解はない|生粋のレズビアン?/セクシャリティーは変化する/あなたは間違ってない #LGBTQ
https://twitter.com/lchannel_/status/1085154099912298501

一目見て、嫌な予感がした。レズビアンの「セクシャリティー(この場合は性的指向)」やアイデンティティはじつにセンシティブな問題で、ともすれば後述するとおりレズビアン差別――具体的には《異性愛=男性を愛すること》の要求――の正当化につながりかねないからだ。

おそるおそるリンクを開いてみると――まさに予感的中、模範解答の対極にある“ダメ解答”の見本のような内容であったため、戒めを込めてこうして取り上げることにした。

なお上掲ツイートは「LChannel(@lchannel)」という情報系アカウントのものだが、当該記事が掲載されているのは「恋愛コラムメディア AM」なる外部サイトである。

レズビアンとして31年生きてきたのに、男を好きになりました」でも、セクシャリティに正解はない|肉乃小路ニクヨのニューレディー恋愛駆け込み寺
https://am-our.com/love/510/16085/

今回の相談者は、レズビアンを自認している女性。
31歳まで自分はレズビアンだと思っていたのに、男性を好きになってしまって……!?

当事者であり、年長でもあるニクヨさんが、
自身のセクシャリティの捉え方と経験をふまえ、アドバイスします。

回答者は《当事者であり、年長でもあるニクヨさん》と紹介されているが、「当事者」といってもそのじつ「レズビアン当事者」ではなく、「肉乃小路ニクヨ」なるゲイ男性のライターである。

女性であるレズビアンの「セクシャリティー」に関する相談に、男性であるゲイが答えるという時点で、すでにちぐはぐな印象を受けるし、的確な回答が返ってくるのかと不安になる(ついでにいえば「セクシャリティー」という表記にもデリカシーが感じられない。これはセンスの問題だが……)。

しかしそうした性差の問題を抜きにしても、この回答者の態度はあまりに酷い。

31歳の女性が31年レズビアンだったと言い切る。
この部分に私は違和感を覚えました。
0歳児からレズビアンだったのでしょうか?
私はゲイですが、ゲイだと自覚したのは小学生で初恋をした相手が
転校生の男子だった頃からです。
あなたは随分とおませさんだったんですね。

感じ悪い冒頭ですみません。
ゲイ、レズビアンが先天的なものだという説もあるので、
あなたはそれで自分が生粋のレズビアンだと思っていたのかもしれませんが、
私はそういう風には考えません。

私はLGBTの専門家では無いですし、またその括りにあまり興味がありませんが、
当事者であることは自覚しています。
ゲイ、レズビアンというのはセクシャリティー(性的指向)という
カテゴリーになると思うので、
性的指向や恋愛感情がハッキリとしていないなら
レズビアンでもゲイでも無いのではないでしょうか。

のっけから相談者の「レズビアン当事者」としての実感や心情に寄り添おうともせず、言葉尻を捉えた厭味ったらしい揚げ足取りで、一読して不快きわまりない気分に落とされる。

ようするに回答者は《ゲイ、レズビアンが先天的なものだという説》が気に食わないようだが、そのくせ《私はLGBTの専門家では無いですし、またその括りにあまり興味がありません。》などとあらかじめ逃げを打っておく姑息さも見せる。

おまけに、口語調の文体であるから仕方がない面もあるとはいえ、そもそも文章がめちゃくちゃで性的指向や恋愛感情がハッキリとしていない》《レズビアンでもゲイでも無い》とされているのがいったい誰のことを指しているのかもわからない。

そしてあろうことか回答者は、相談者の「レズビアン」としてのアイデンティティにまでケチをつけるのだ。

あなたのレズビアンというのも性的感情や恋愛感情が芽生えてから
と考えた方が良いのではないでしょうか。
そうするとあなたは別に生粋のレズビアンではありませんね。
そこはハッキリとしておいた方が良いと思ったので、
長々と書いてみました。すみません。

「生粋のレズビアン」という語彙は相談内容にはなく、回答者が付け加えたものであるが、これは「レズビアン」を《真性レズビアン(完ビ=完全レズビアンとも))/仮性レズビアン》に二元化する硬直した発想の受け売りにすぎない。

もっとも人間の性的指向が常に流動するという立場を取るのであれば《真性レズビアン》は存在しえず、すべての「レズビアン」が《仮性レズビアン》ということになる。

しかしレズビアン」の自認・自称が当人のアイデンティティ(主体性)の問題である以上、赤の他人、ましてや男性であるゲイからその“ありよう”についてジャッジ(審判)される筋合いはない。そのような「特権」を、回答者はいったいどこから引っ張り出してきたのか。

もっとも「完ビ」については、その定義は別として、あくまでもレズビアン当事者の《男性を愛さない(愛したくない)》という主体性(アイデンティティ)を表明するものであり、それが他人の「セクシャリティー」の審判ではなく当人の自認・自称にとどまるかぎりにおいては尊重されるべきであろう。

私は今のところゲイ男性という括りですが、
この先もずっとゲイだという風にも思っていません。
歳を重ねるにつれ、人に対する見方や愛し方は変わります。

私も若い頃に比べるとグッと恋愛対象の範囲が広がってきました。
ある程度年齢がいくと歳下はだいたい可愛く見えますし、
同年代から歳上も共感や頼もしさ、年齢を重ねた魅力に目がいきます。
体型も自分が贅沢を言える身体でも無いので、
極端でなければあまりこだわりがありません。
この先もしかすると女性を好きになることもあり得るとすら思っています。

えーっ嘘!?  という声も聞こえて来そうですが、
私がこういう風に考えるようになったのも私が二丁目のミックスバーやクラブで
長年働いて来たからだと思います。
ノンケと言われていた男性が女装とならばSEX出来るというところから始まり、
いつの間にかゲイになっていたということもありましたし、
鬼レズと自らを称していた女性が結婚して子供を産んだりしています。
女性から男性になろうとしていたFTMレズビアンだった女性が
男性としてゲイと付き合うということもありました。

人のセクシャリティーはかくも多様で変動するというのを
間近に見ていると自分を決めつけるのは馬鹿らしいなと思うのです。
それよりもどんな形であれ、当事者達が生き易い社会になれば良いと思うし、
そういう多様性の応援になるのであれば、LGBTの運動も応援しがいがあるなと思うのです。

けっきょくのところ回答者は相談者のアイデンティティにまつわる切実な悩みをダシにして《人のセクシャリティーはかくも多様で変動する》という陳腐な持論をぶちたいだけのようだ。

加えて回答者による一連の回答からは、レズビアン」のアイデンティティを取るに足らない、無価値な(=馬鹿らしい)ものと“決めつけ”て、一方的に切り捨てる傲慢さがありありと伝わってくる。

さもアイデンティティごときに囚われるのではなく自分の「感情」を優先するべきだ、とでも言いたげであるが、それこそ回答者の価値観を押しつけているだけだし、また回答者自身がそうした思考の偏りに無自覚である。

そもLGBTの権利が保障されるべきであるのは、ひとえにそれが「性の自己決定権(人権)」であるためであって、《人のセクシャリティーはかくも多様で変動する》から、などという理由ではない。

換言すれば人間の「人権(性の自己決定権)」とは、まさしく“主体性(アイデンティティ)”の問題に他ならないのだ。

そこへきてセクシャリティー」の可変性・流動性などを至上の価値に置くのは、「人権」の根拠を“主体性”でない他の何かに委ねているという点で、それを“生産性”に求める杉田水脈と本質的に何も変わらない非人間的な発想である。

さてそれを踏まえた上で、性的指向は“変動”する人もいれば、しない人もいる。身も蓋もないけれど、それこそが模範解答である。

ただし、異性愛者であれば“変動”しない場合がほとんどだ。なぜなら同性を愛するように迫られるという動機が存在しないからだ。

一方で同性愛者、とくにレズビアン(女性同性愛者)のセクシュアリティを論じる時にだけ、なぜか性的指向の可変性・流動性が強調される風潮にある。

しかし何をもって性的指向が“変動”したといえるのだろうか。同性間の婚姻が法律で認められていない日本社会において、レズビアンが「レズビアン」としてのアイデンティティを保持したまま男性との結婚を選択するという話はべつに珍しくもなんともない。

そうした社会的・政治的力学の非対称性を考慮しないまま、性的指向の可変性・流動性をあげつらうのは、たとえていうなら飛行機の速度を算出するのに空気抵抗をいっさい想定しないようなもので、現実社会の差別構造を隠蔽・温存する机上の空論にすぎない。

換言すれば回答者は、異性愛至上主義の社会構造をめぐる議論を、観念的な自己啓発の問題に摩り替え、矮小化しているのだ。

加えて「レズビアン」をめぐる議論においては、そも「レズビアン」を“語る”ための言葉・語彙自体にnegativity(否定的コノテーション)が内在するという根源的な問題が横たわっている。下記の記事を参照のこと:

《人を愛さない権利》と「レズビアン」を“語る”ことの困難~「関西クィア映画祭2014」シンパからの反応:@yu_ichikawa編(2)
https://herfinalchapter.hatenablog.com/entry/20141110/p2

そして、いずれにしても相談者のアイデンティティに関する悩みは、そのじつ性的指向の問題とは何の関係もない。

引用は前後するが、相談の内容は以下のとおりである。

【お悩み】
31年間レズビアンとして生きてきました。数ヶ月で終わったことも、何年か続いたこともあります。

男性のカラダに嫌悪感すら持っていた私が、この歳になってまさかと思いましたが、友人だと思っていた旧友男性を好きになっていました。性格が好きで長く一緒に過ごしているうちに、気付けば愛情に変わっていました。彼からの好意も少し感じています。
想いは告げていません。
今まで同性しか好きになったことがなく、周りの目にも苦しみながら恋愛してきました。
なのに今さらなぜという想いで、彼に告白することもなく友人関係を続けています。

もやもやして敢えて知らない男性と肉体関係を持ち、一晩限りを何度か繰り返しました。 最初は、"男はやっぱり無理だ"と悟りたくて寝たのだと思います。
しかし蓋を開けてみれば思ったよりも悪くなく、気持ちがより混乱しています。
彼ともっと近付きたくなってしまいました。 私の周りはレズビアンばかりです。仲間に話しづらく、プライドが邪魔をし、ただ混乱しています。想いを封印するか突き進むか、どちらを選んでも不安を感じます。ご助言ください。
(31歳・女性)

 元より人間は、身体的に健康であれば誰しもがSEXをして快感を得ることができる。これも性的指向の問題ではなく、たんなる生理的反応であって、さらにいえば《性的感情や恋愛感情》も必要ない。

裏を返せば、そのような「可能性基準」の人権解釈に準拠するなら、身体的に健康でSEXが“可能”である女性は「レズビアン」であっても男性とSEXするべきであり、またそのような“可能性”を肯定するかぎりにおいて「レズビアン」に“主体性”が認められることになる。

すなわちこれは「レズビアン」が、その性的主体性(セクシュアル・アイデンティティ)を行使するにあたって条件を課されることを意味する。

しかし言うまでもなく「人権(性の自己決定権)」とは、すべての人に対して無条件に保障されるべき概念であり、よってその行使は他者の「人権」を侵害しないかぎりにおいて、“可能性”に開かれようが開かれまいが無条件に肯定されるべきである。

換言すれば「可能性基準」とは、性的指向の変化の“可能性”に開かれるべきであるとする政治的イデオロギーを「人権(性の自己決定権)」よりも上位に置くという、まさしく《人権侵害》の上にしか成り立ちえない思想なのだ。

加えて、前述のとおり異性愛至上主義を基幹とする現代社会においてレズビアン」は、意識・無意識を問わず《女性は男性を愛さなければならない》という強迫観念から免れることができない。ゆえに相談者のように、意中の人ではない男性と無為な「肉体関係」を持つといった、しばしば第三者からすると不条理で自暴自棄にも思える行動に出る。

だが、このような事例をもって《セクシャリティーの可変性・流動性》の証左とするのは、その背景にある個々の「レズビアン当事者」の生き様も葛藤も切り捨て、そうした自己の政治的イデオロギーの補強に都合の良い“モノ”として扱う行為でしかない。

そも相談の内容を見るかぎり、レズビアンである相談者は意中の男性に“告白”するなど具体的にアプローチしたり、実際に交際しているというわけでもなく、ただ自分の内面の“ゆらぎ”に戸惑っているだけである。

もちろん、人を“好きになる”ことは自由だ。しかし、ただ人を“好きになる”ことと、その人を恋愛ないしSEXのパートナーとして選ぶことは、まったくの別問題だ。

その上で、レズビアンが《男性を愛すること》よりも自身の「レズビアン」としてのアイデンティティや「プライド(あるいは仲間たちとの連帯)」を優先するなら、それについて他人から責められる謂れは何もないのである。

私の感覚からするとあなたは間違っていないと思います。
これが正解ということがないのがセクシャリティーです。
あなたは絶対に間違ってない。

植え付けられた畏れに縛られること無く、手のなる方、
自分で自分を祝福したくなる方に進めば良いのです。
他のレズビアンがあなたを責めたとしても
私はあなたを祝福したいと思います。
大丈夫。幸せになってください。

《あなたは間違っていない》《これが正解ということがないのがセクシャリティー》などと、それ自体は何人も否定しようのない(ゆえにそのじつ何も言っていないに等しい)正論めいたことをのたまいつつ、じつのところ《植え付けられた畏れに縛られること無く、手のなる方、自分で自分を祝福したくなる方に進めば良いのです。他のレズビアンがあなたを責めたとしても私はあなたを祝福したいと思います。》といい、ようするに相談者が「レズビアン」のアイデンティティを捨てて男性に“告白”するという「正解」に誘導しているのである。

そしてそれは一方で相談者が「レズビアン」のアイデンティティを優先し、意中の男性との関係性をこれまでどおり友達にとどめるという主体的な判断を取ることを、暗黙の裡に“間違い”と決めつけている。「性の自己決定権」の根拠を「セクシャリティー」の可変性・流動性に求めるなら、このように必然して人間の“主体性(アイデンティティ)”を否定せざるをえなくなるからだ。

それは一見すると「自由」を謳いながら、そのじつ「セクシャリティー」の可変性・流動性に“開かれない”という選択肢を閉ざしたダブル・バインド(二重拘束)を「レズビアン」に対して仕掛けているのだ。

  • もっとも現実の「レズビアン当事者」の中には上述のとおり「レズビアン」としてのアイデンティティを保持したまま男性との結婚を選択したという人もいるが、いずれにせよ《男性を愛すること》は【男性を愛する人】の問題であって「レズビアン」の問題ではない。
  • またそうした個別の事例とは別に概念としての「レズビアン」は――まさしく「レズビアン」が《男性を愛すること》を要求・期待される社会的・政治的圧力を可視化する上で――有効なのであり、よって性的指向の可変性・流動性を理由に「レズビアン」の存在意義を否定することは不当である。

しかし回答者は「当事者」を自認しながら、相手の男性がゲイないしアセクシュアルである可能性を、なぜ考慮しないのか? 同性愛であれ異性愛であれ、あるいは性別を前提としない恋愛の“形”であれ、恋愛とは相手があってのことなのだから、自分一人の気持ちで先走っても仕方がないだろう。

繰り返すが、性的指向は“変動”する人もいれば、しない人もいる。《変動する》などと“言い切る”のは、それこそ勝手な“決めつけ”でしかない。

問題は、やはりその人が他者とどうありたいか? どのような関係性を築きたいのか? という、まさしく“主体性(アイデンティティ)”の問題に他ならない。

人を“好きになった”からといって、かならずしもその人に“告白”しなければならない、「SEX」をしなければならない、「結婚」をしなければならない、その人の子供を産んで育てなければならない――などといちいち思い詰めてしまっては、恋愛も人生も「不自由」になるだけではないか。

性的指向や恋愛感情(性欲)は、時として当人でも制御できない場合がある。しかし他者との望ましい関係性は、自らが主体となって築いていくことができるし、またそうしなければならない。

一時の「感情」に振り回され、その都度、築き上げてきた人間関係を破壊していくような非建設的な生き方は、回答者が自分で実践するぶんには勝手にすればいいし知ったことではない。が、相談者の心の弱みにつけこんで偏向した政治的イデオロギーをすりこんでいくような自己啓発セミナーまがいの真似は慎むべきであろう。

  • あらためて強調するのも馬鹿馬鹿しいことだが、かならずしも一定の文章読解力を有する読者の目にだけ留まるわけではないだろうから注意しておく。私はなにも、相談者が「レズビアン」としてのアイデンティティを貫くべきだとか男性に“告白”するべきではないなどと言っているわけではない。
  • ただ私は「レズビアン」のアイデンティティが、かくのごとくあまりにも無下に扱われすぎている現状に違和感を抱き、またそのようなあからさまに偏向した――あまりに偏向していて、当人でさえその偏りに無自覚なほどに――政治的イデオロギーに根差した内容の言説があたかも「模範解答」であるかのとごく“拡散”されている風潮に疑義を呈すべく、あえて真逆の見方を提示したまでである。

 

 

婚活メディアで「男とセックス出来るレズビアン」を自己アピールする某女性ライターの責任と“特権性” #ちょうどいいブスのススメ #人生が楽しくなる幸せの法則

(2019年2月2日 加筆修正)

女性芸人・山崎ケイの著作をTVドラマ化した『ちょうどいいブスのススメ』が、すでに放映前から炎上(その結果、放映前の時点で『人生が楽しくなる幸せの法則』に改題が決定)している最中。

とある婚活系の女性メディアに掲載された、毒親育ち・既婚・レズビアンフェミニストミサンドリー(男嫌い)・元ビッチ・オタク・百合好き・ADHD・婦人科系疾患治療中で妊活中》なる肩書の女性ライターが当該ドラマの企画を酷評した内容の記事が流れてきた。

なお、以下に当該の女性ライターの提唱する「観念」について批判的な議論を展開するが、以下の理由により、本稿においてはあえて名前を伏せることにする:

  • じつのところ“そのような「観念」が存在すること(ならびにそれをこうして取り上げること)”自体が「レズビアン」に対する誤解や偏見を助長しかねない(ほどの悪質さを内包している)。
  • 現時点では世間的にまったく無名の人物であるが、やはりこうして取り上げることによって注目を浴び、不相応な影響力をもってしまう可能性がある。

近い将来、当該の女性ライターが牧村朝子氏並の知名度をもつようになったら名指しで批判するようになるかもしれない。

また当該メディアは《今を生きる女性に、表面的なモテテク、婚活や「世の中に押しつけられた女性像や常識」に縛られない自由な選択肢を提案》すると謳っているものの、その運営基盤は「結婚支援事業」を中心としたサービスを女性ユーザーに“提供”する株式会社であること。加えて当該の女性ライターがまさしく「婚活」に特化した情報を発信していることから、本稿においては便宜上「婚活メディア」と称することにする。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000052.000018971.html

女性ライターは、当該メディアにおいて「レズビアン」である自身が女性との恋愛に“疲弊”し、男性との「法律婚」「友情婚」を選択した経緯について連載している。

https://am-our.com/marriage/539/15293/?p=2
 一口に「恋愛対象が女性」と言っても様々なグラデーションがありますが、私は「心が恋愛として求めるのは女性、セックスは男女どっちとも出来る」という感じ。なのでよく「男とセックス出来るレズビアン」と名乗っていました。セクシャリティで言うならバイセクシュアルに分類されると思います(セクシュアリティは誰にも侵されない、あくまでも自分で決めるものだと思うのですが、往々にして「はぁ?男とセックス出来るならビアンじゃなくてバイでしょ(怒)」みたいな主張を押し付けられることがあるのです。もっと自由であれ~)。

そも《女性は男性と結婚すべきである》というジェンダー規範に囚われている時点で「不自由」きわまりないように思えるが、それはさておき現実の「レズビアン当事者」のありようはたしかに多様で複雑だ。

レズビアン」はしばしば性的指向(セクシュアル・オリエンテーション)と混同される。しかしじつのところ、それは「セクシュアル・アイデンティティ(性的主体性)」として位置づけられるべき概念である。

よってこのことから女性ライターのように実際の性的指向は「バイセクシュアル」であっても、性的指向にはグラデーションがあるため、その比率によっては女性の方が好きだから「レズビアン」を名乗るという人も少なからず存在する。性的主体性(セクシュアル・アイデンティティ)の観点からすれば、そのような「当事者」のありようも尊重されるべきであることは言うまでもない。

だが同時に、そのような「当事者」のありようが「レズビアン」に対して《男性を愛すること》を要求・期待する「SOGIハラ」の正当化に利用されかねないことについても、じゅうぶん注意が必要だ。

  • むろん、この場合の“愛する”にはセックスや結婚の可能性も含まれる。
  • じつのところセックスも結婚も、恋愛感情(あるいは性欲)がなくても物理的ないし法律的に成立するけれど、後述するとおり議論の本質はそうした個別の事例ではなく、異性愛至上主義社会の構造を読み解くことにある。

連載を通してうかがい知れるのは、女性ライターがそのじつ「レズビアン当事者」のコミュニティの中に居場所がなく、孤立しているのではないかということである。

異性愛至上主義を基幹とする現代社会。「レズビアン」が《男性(異性)を愛さないこと》を理由に迫害され、《男性(異性)を愛すること》を要求・期待されている実情がある中で「男とセックス出来るレズビアン」などと声高に主張すれば、他の「レズビアン当事者」から顰蹙を買うのは当然であろう。レズビアン・コミュニティの排他性や閉鎖性をあげつらう声も聞かれるが、レズビアン・コミュニティがそのような排他性・閉鎖性を獲得しなければならなかった社会的・政治的経緯について何ら考慮しないまま、上から目線で杓子定規の「政治的正しさ」を“押し付ける”のは、それこそセクシュアル・マイノリティに対するパターナリズム以外の何物でもない。

もっとも、性的指向性自認に関わらず身体的に健康であれば誰もが《男とセックスする》ことは“出来る(物理的に可能である)”だろう。しかしここで問われるべきなのは、そうした“可能性”ではなく、当人がどのようにありたいかという“主体性(アイデンティティ)”であるはずだ。

言い換えるならレズビアン」が《男とセックス出来ない》ことが「不自由」なのではなく、《男とセックスしない》という“主体性(アイデンティティ)”が否定されていることこそが「不自由」なのである。

元より《男とセックス出来る》ことは男とセックスする人の問題であって「レズビアン」の問題ではない。よって「男とセックス出来るレズビアン」などと、「レズビアン」を《男とセックス出来る》か否かによって分類・分断する議論は前提からして破綻していと言わざるをえない。

概念の定義を議論するにあたって、個別の事例を持ち出すのは詭弁であるし、その逆も然りだ。個別の「当事者」の事例がどうあれ「レズビアン」という概念自体は《男性を愛さない女性》というセクシュアリティ(性のありよう)を可視化するために存在する。そこへきて《男とセックス出来る》ことを「レズビアン」の定義に包括するなら、そのような概念定義(の曲解)を通して「レズビアン」が《男性とセックス出来る》ことを要求・期待される事態となる。

実際、女性ライターは「フェミニスト」の立場から「ちょうどいいブス」というキャッチコピーの根底にある「ミソジニー(女性蔑視)」については「最悪でクソ」「黙れクソ」「クソみたい」「クソミソジニー」「ゲンナリ」「はぁ?????」などの語彙を駆使して強烈に“DISる”一方で、《レズビアン差別》の問題については「レズビアン当事者」の立場から言及すらしない。

婚活メディアを利用する女性は多くが異性愛者であることから《レズビアン差別》の話題は読者の関心を惹かないものと思われる。しかし、だとすれば女性ライターが女性異性愛者向けの婚活メディアに連載するコラムであえて「レズビアン」を自己アピールする必要もないはずだ。

それをわざわざ強調するのはレズビアン(非異性愛者)」が〈男性(異性)〉とセックスや結婚をするという意外性によって“キャラが立つ”と判断しているためだろう。上掲引用箇所に見たとおり、率直に言ってライターとしての技量は低く、セクシュアリティ以外に注目を集める要素が皆無であることは当人がいちばんよくわかっているのかもしれない。

たとえば同一の論旨で『ちょうどいいブスのススメ』批判を展開した他媒体の記事と比較すれば文章力や情報量、見識の差は歴然である:

「ちょうどいいブス」は処世術だが女性蔑視でもあり、呪いでもある|WEZZY
https://wezz-y.com/archives/62013

繰り返すが、いかなる「レズビアン」のあり方であってもそれ自体は否定されるべきではない。「男とセックス出来るレズビアン」が《レズビアン差別》に利用されるのは、あくまでも「男とセックス出来るレズビアン」を《レズビアン差別》に利用する者の問題であり、個々の「当事者」に責任はない、と言われればそれまでだ。

だが、その論法に倣うなら、まったく同じ理屈で「ちょうどいいブス」も肯定されてしまう。「ちょうどいいブス」が「ミソジニー」に利用されるのは、あくまでも「ちょうどいいブス」を「ミソジニー」に利用する者の問題であり、「ちょうどいいブス」を目指す山崎ケイに責任はない、と。

しかしここでいう問題の本質は、「ちょうどいいブス」や「男とセックス出来るレズビアン」といった自己実現にあるのではなく、そのような観念・表象をマスメディアの上で提唱する者の社会的・政治的責任こそが、まさしく問われているのではないだろうか。

性的指向アイデンティティに関わらず、すべての女性に《男性(異性)を愛すること》ことが規範化されている異性愛至上主義社会においては、レズビアン」であっても《男とセックス出来る女》こそが「正しいレズビアン」と見なされる。ゆえに同じ「レズビアン当事者」の中でも「男とセックス出来るレズビアン」は、〈男性(異性)〉とのセックスを望まない「レズビアン」と対等ではありえない。

むろん女性ライターは、他の「レズビアン」のありようを見下したり否定したりするつもりはないと言い張るだろう。だが、そのようにして自己の社会的・政治的特権性に無自覚・無頓着でいられること自体が「特権」に他ならない。

げんに「レズビアン」が《男性を愛さないこと》を理由として迫害や蔑視に晒されている状況下で「男とセックス出来るレズビアン」という“キャッチコピー”が社会的・政治的にどのような意味をもつか、メディアに携わる者は自覚すべきではないか。「当事者」であることは、その免罪符にならないはずだ。

まして女性ライターは、男性との「法律婚」を主体的に選択したことにより、婚姻制度が根源的に内包する社会的・政治的権威性に加担している事実に変わりはない。それにしても、婚姻制度の問題はまさしくフェミニズムのテーマの一つであるのに、「フェミニスト」を自認する女性ライターがその社会性・政治性に何の疑問ももたないばかりか「婚活」の指南までしているのは解せないところだ。

レズビアン」が「性的指向」と同義ではないように、異性愛者」もたんに「性的指向」を表すばかりでなく、異性愛至上主義社会における社会的・政治的な立場性を示す概念である。ゆえに〈男性(異性)〉との「法律婚」を選択することは、いかなるセクシュアル・アイデンティティをもとうと必然して「異性愛者」としての社会的・政治的立場性とそれに伴う特権性を獲得することになるのだ。

  • なお近頃は「クィア理論」の観点から「同性婚」の法制化も婚姻制度の強化につながるとして頭ごなしに否定する論調が幅を利かせている。
  • しかしそのような「クィア主義者」は《同性愛者が同性と結婚すること》については反対する一方で、「レズビアン(非異性愛者)」が〈男性(異性)〉との「法律婚(異性婚)」を選択した場合については何ら批判しないどころか「性的指向」の可変性・流動性を示す“生き証人”として持て囃すのである。
  • こうしたダブル・スタンダードは「クィア運動」の本質が、そのじつヘテロセクシズム(異性愛至上主義)が形を変えたバイセクシズム(両性愛至上主義)にすぎない事実を端的に物語っている。

私は別に、女性ライターに「『男とセックス出来るレズビアン』という生き方は間違っているから改めろ」と言うつもりはない。彼女自身が自己実現として「男とセックス出来るレズビアン」を自分ひとりで勝手に目指すだけならどうぞ好きにしたら、と思うだけだ。

しかしそれを、あたかも良いことのように「これが正しい『レズビアン』の生き方」と言わんばかりに提唱されると、ちょっと待てと言いたくなるのだ。

SOGIハラは笑えないし、「異性愛者」に「レズビアン」のセクシュアリティをジャッジする権利はないという声を上げる人が少しずつ増えてきているとはいえ、まだまだ世の中は「異性愛者」優位で、息をするように《レズビアン差別》をする人が多くいる。

そんな世の中で「男とセックス出来るレズビアン」のようなものが持ち上げられたら、「やっぱり『異性愛者』にとって都合よく生きるのが『レズビアン』の処世術なんだな」と思ってしまう「レズビアン当事者」や、ヘテロセクシズム(異性愛至上主義)の呪いに傷つけられる「レズビアン当事者」が出てくることは自明だ。

あと何より面倒くさいのが「『男とセックス出来るレズビアン』を目指せる『レズビアン当事者』って分かってるよな」「『男とセックス出来る』って他でもない『レズビアン当事者』が言ってるんだから」というクソみたいな言い訳をクソみたいな差別主義者(異性愛至上主義者)に与えてしまう可能性がある。ていうか既に鬼の首でもとったみたいこういうこと言ってるやつ、山ほどいると思うけど。 

元ネタはこちら:
https://am-our.com/marriage/539/16024/?p=2

私は別に、山﨑ケイに「ちょうどいいブスという考え方は間違っているから改めろ」なんて言うつもりはありません。彼女自身が処世術として「ちょうどいいブス」を自分ひとりで勝手に目指すだけならどうぞ好きにしたら、と思うだけです。

しかしそれを、あたかも良いことのように「これが賢い女の生き方」と言わんばかりに提唱されると、ちょっと待てと言いたくなるのです。

容姿いじりは笑えないし、男性に女性の容姿をジャッジする権利はないという声を上げる人が少しずつ増えてきているとはいえ、まだまだ世の中は男性優位で、息をするように女性差別をする人が多くいます。

そんな世の中で「ちょうどいいブス」のようなものが持ち上げられたら、「やっぱり男性にとって都合よく生きるのが女性の処世術なんだな」と思ってしまう女性や、ルッキズムの呪いに傷つけられる女性が出てくるかもしれません。

あと何より面倒くさいのが「“ちょうどいいブス”を目指せる女って分かってるよな」「“ちょうどいいブスを目指せ”って他でもない女が言ってるんだから」というクソみたいな言い訳をクソみたいな男に与えてしまう可能性があります。ていうか既に鬼の首でもとったみたいこういうこと言ってるやつ、山ほどいると思うけど。