百錬ノ鐵

百合魔王オッシー(@herfinalchapter)の公式ブログです。

過去の日付の記事をアップしました。

長いこと寝かせていた記事を、本日ようやくアップしました。

ossie.hatenablog.jp

去年たまたま目にしたTogetterまとめに関連した記事です。

t.co書き上げたのは去年の11月でしたが、話題自体がずいぶん古く、その後に書いた『ターミネーター:ニュー・フェイト』の記事の方が速報性が高かったため、ブログ上ではそれより前に掲載される形となってしまいました。

当初の意図としては、むしろ上掲の記事が本題で『ターミネーター』の話題はその補足という位置づけでした。あらためて読み通していただけると、私の問題提起がより明確に理解しやすくなることと思います。

「百合」が《現実をエンパワメント》して何が悪い? #ターミネーターニューフェイト

togetter.com

今月8日に日本公開された『ターミネーター』シリーズの最新作『ニュー・フェイト』が「百合萌え」の観点からも楽しめるらしく、百合ファンの間で話題になっているようだ(現時点で筆者は未観)。

とはいえ「百合」に対する無理解や偏見が根強い中、そうした盛り上がりに冷や水を浴びせようとする向きもある。

こうした紋切型の「百合バッシング(あるいはBLバッシングでも)」を見ていて、私の方から《違和感がある》のは、作品のテーマや価値が「一つしかない」と思い込んでる点である。

作品の《本来の意図》など、往々にして作者自身も無自覚であるのに、たった一つの「意図」に束縛しようとするのは、じつに排他的で暴力的な態度ではなかろうか。

だいいち「百合映画」が《現実をエンパワメント》して何が悪いのか?

「百合映画」を好む人は「現実社会」から排除されるべきだとでもいうのだろうか?

そのような、「現実社会」の多様な価値観や感性を認めようともしない、頭の固い視野狭窄な人物に《現実をエンパワメント》することは到底無理であろう。

いちいち指摘するのも馬鹿馬鹿しいことだが、「映画」が「現実」を“エンパワメント”するのではなく、「映画」を観た「現実」の人間が、「映画」の中から自らを“エンパワメント”する何かを得るのである。

そこをいくと作品が「現実」にもたらす影響とは、いわゆるバタフライ効果(蝶の羽ばたきが嵐を引き起こすような結果につながりうるというカオス理論の概念)のようなもので、作者自身がそれをコントロールすることはできない。そして「現実」は人の数だけある。

ゆえに作者が《現実をエンパワメント》してやろうなどという、ある意味で傲慢な「意図」をもって創られた作品が、かならずしも当人の「意図」どおりに都合良く「現実」の人間を“エンパワメント”するとはかぎらない。

翻って、京アニの忌まわしいテロ事件は記憶に新しいが、それこそ『けいおん!』のような政治性のない(誤解を恐れずにいうなら)他愛もない萌えアニメが、「現実」を生きるたくさんの人々に夢と希望を与え、まさに“エンパワメント”することに成功している。

  • なお『けいおん!』については、それこそ《二次創作でキャラ同士の関係性にひと味加える》百合同人誌が数多く量産されたが、『けいおん!』自体を「百合マンガ」と呼べるか否かは意見が分かれるところである。

そも「百合」はジャンルやカテゴリー以前の、作品中の人間関係の“解釈”なのだから(詳細は後の記事にて)、それが他のテーマ――繰り返すが一つとは限らない――を排除することなどありえない。

あるとすれば、ただ「百合」を嫌悪する人が、「百合」と“解釈”される作品を一方的に排除するだけである。

www.foxmovies-jp.com

 

「百合」は“ジャンル”ではなく“解釈”である~SF評論家・牧眞司(ShindyMonkey)への反論

(2020年1月17日 公開)

(2021年12月25日 追記)

平成最後の年に、こんな議論があったらしい。

SF評論家・牧眞司「異性愛者で恋愛経験もなさそうな人が百合とか言って喜んでる」(7/28追記) - Togetter

あまりにもくだらない。昨今「百合」という用語もそれなりに定着し、新しい書き手による優れた作品が続々と世に送り出されているが、そのような百合作品を取り巻く“評論”の質といえば、未だにこのレベルかと落胆せざるをえない。

そも、作品中で逐語的に“明示されてもいない”かぎり人間関係を読み解くことができないのであれば“評論”などという行為は必要ない。

また「百合」の消費者について異性愛者で(おそらく)恋愛経験もなさそうなひと》と決めつけるのはたんなるレッテル貼りであり、自分の気に食わない相手を貶めるための人身攻撃にすぎない。

かつて、未成年女性のフィギュアスケート選手に「早く彼氏を作るべき。エッチしなきゃ(他の選手に)勝てないよ」と言い放った中年男性のコメンテーターもいたが、論理が飛躍している以前の問題として、

そのように人の恋愛経験・性経験の有無をあげつらう発言自体が(それこそ男性異性愛者固有のマチスモに根差した)セクシュアル・ハラスメントであり、もはや対話や議論の余地すらない。ゆえに、これも“評論”と呼ぶに値せず、さしずめ「5ちゃんねる」の“煽り”“釣り”と何ら変わるところがない。いったいどのような「恋愛経験」を経れば、そのような卑しい精神性に堕するのであろうか。

  • もっとも後者に関しては、さすがに後から形式的に謝罪している。
  • ただ、当初は一般の百合ユーザー(レズビアン当事者の百合同人作家も含まれる)からの反論に対して、きわめて冷笑的・挑発的な態度でのらりくらりと交わしていたにもかかわらず、同業者と思しき人物から突っ込みを入れられた途端、一転してヘコヘコとしおらしく謝りだす様は、まるでマンガのような権威主義的振る舞いで、なんとも見苦しい。このように歳を重ねたくないものである。

もっとも、ここで牧が槍玉に挙げているのは〈異性愛者〉なのだから〈同性愛者〉に対する「ヘイトスピーチ」には当たらないのだ、と解釈する人もいるだろう。しかし一般に、人が実際に異性との恋愛やSEXを経験せずとも(あるいは経験する前から)男女のラブロマンスに感情移入したり憧れを抱いたりする心理に関しては、とくに“疑問視”されることはない。

それを女性同士のラブロマンスに限って異常視・特殊視するのは、やはり「同性愛」事態を異常視・特殊視するヘテロセクシズム(異性愛至上主義)およびホモフォビア(同性愛者嫌悪)を他ならぬ牧自身が内面化している事実の証左である。

加えて豊崎《ジャンル読みの人が~》云々といった件は、そのじつ牧が提示した議題である「百合」という概念の本質とは何の関係もない。ただ、豊崎が牧の稚拙な「百合バッシング」にかこつけて、自分の言いたいこと(読書の心構え? くだらねー)に“引き寄せている”だけである。

だいたい、この文脈における《全然そうじゃない作品》の具体例(すなわち女性同士の「恋愛=百合」を実際には表現していないにもかかわらず「百合」の消費者によって「百合」と“誤読”されてしまった作品)の一つも挙げられていないのだから、抽象的すぎて何にでも当てはまってしまう。『あさがおと加瀬さん。』を想定して言うのと、たとえば櫛木理宇『少女葬』(新潮文庫)を想定するのとでは、その後の議論の流れも終着点も違ってくるはずだ。

ossie.hatenablog.jp

(2021年12月12日 追記)

>この文脈における《全然そうじゃない作品》の具体例(すなわち女性同士の「恋愛=百合」を実際には表現していないにもかかわらず「百合」の消費者によって「百合」と“誤読”されてしまった作品)

聞くところによると、これは『けいおん!』を想定していたらしく、牧眞司はこの3年後(2021年11月8日)に『『けいおん!』の奇跡、山田尚子監督の世界』(扶桑社BOOKS)を上梓した。

私自身も『けいおん!』を「百合作品」だとは考えていないが、しかしそれこそ実際の作品中で、主人公たちが「異性愛者(非同性愛者)」であると“明示”されていないにもかかわらず、その二次創作において「百合」と解釈することすらも認めない態度は、やはり無自覚の異性愛至上主義・同性愛者嫌悪に根差すものであろう。

また一方で「豊崎社長」に関しても、ちょうどそれと同時期に、TikTokを利用した書籍紹介のあり方を頭ごなしに否定する発言をして、すっかり痛々しい“老害ぶり”を晒すこととなる。自分と異なる価値観や文化を認めようとしない排他的で不寛容な精神性が、この時点でもすでに見て取れる。

* * *

それでは「百合」という概念の“本質”とは何か。

牧および豊崎が根本的に誤解しているのは、「百合」を作品の“ジャンル”として捉えている点だ。

まず議論の前提として「百合」が作品の“ジャンル”や“カテゴリー”ではなく、「作品中の人間関係」に関する“解釈”であることを確認しなければならない。

すなわち、百合漫画のアンソロジーやコミック専門店における百合コーナーの設置といったカテゴライズ(ジャンル分け)以前の問題として、作品中の女性キャラクター同士の関係性および感情が「恋愛」に相当する、あるいは「恋愛」に結びつく可能性がある、という“解釈”が必要となるわけだ。その“解釈”にもとづいて「百合」を“ジャンル/カテゴリー”として扱う行為は、あくまでも扱う者自身の問題となる。

女性の女性に対する感情が「友情」にとどまるのか、それとも「恋愛」と結びつきうるのか、それは時として読者の間でも“解釈”が分かれる場合がある。いわゆる「きらら系」の萌え4コマは女性キャラクター同士の関係性を描くものがほとんどであるが、その中でもたとえば『Aチャンネル』は「百合」だが『はるみねーしょん』は「百合」ではないという違いが生じる。

牧は自身の評論家としての矜持として《深読みをしない》ことを挙げる。これは作品中で逐語的に“明示”されるものでしか判断できないということであろう。

だが百合作品の世界観として女性キャラクター同士があらかじめ「恋人」と設定されている場合は稀であり、女性主人公が同性の「親友」に恋愛感情を寄せるといったパターンが定石となっている。

そこをいくと牧のごとく、作品中で逐語的に「恋愛」と“明示”されるものでなければ「恋愛」と認めないといった態度では、「友情」が「恋愛」に移り変わるといった性のゆらぎを表現することができず、人間の複雑で繊細な「感情」を、「友情」と「恋愛」の二項対立に“カテゴライズ(ジャンル分け)”する暴力に陥りかねない。

そも、ある《作品中の人間関係》について「同性愛」ではないと断定することは、同時に「同性愛」とは何か? という定義を規定せざるをえなくなる。しかしそのような行為は、つまるところ読者自身の「同性愛」とはかくあるべしという偏狭な思い込みを露呈する結果となりかねない。

しかし、ならばどのような「人間関係」であっても女性同士でありさえすれば「百合」なのだ、といった短絡的な“解釈”が成立しうるのかといえば、やはりそれも首肯しがたい。

元より「百合」であるか否かが作品の良し悪しや質を左右するわけではないことは言うまでもないし、女性間の「友情」がかならずしも「恋愛」に結びつくとはかぎらないことも事実だ。たんに女性キャラクター同士の関係性や感情が描かれていれば「百合」といった粗雑な「百合認定」は、それこそ豊崎の指摘する“誤読”の危険を避けられないだろう。

しかし、そこで肉体関係(いわゆるレズSEX)などの「フォーミュラ」によって“明示”されなければ「恋愛(同性愛)」と認めないのであれば、それは「同性愛」の多様なありようを一面的に規定し“狭める”ことを意味する。

とくに百合作品のテーマである女性間の「同性愛(非異性愛)」に関しては、言うまでもなく現実社会の《同性愛者(非異性愛者)差別》の構造と密接に結びついている。ゆえに現実社会と同様に、【女性を愛する女性】のキャラクターをレズビアン(非異性愛者)」と“明示”することによって、逆に「異性愛(男性を愛すること)」を強要されるというヘイトスピーチやSOGIハラを受ける可能性が高まってくる。

そうした傾向は、しばしば男性異性愛者向けのポルノ小説やポルノ映画で顕著とされるが(ただしアダルトビデオの「レズ物」は男性が登場しないことが通例である)、それらはもとより一般の――この場合の“一般”とは「異性愛(非同性愛)」の表現を指すのではなく、いわゆる非オタク文化圏の作品全般を意味する――文芸作品や実写映画においても、「レズビアン(と作品中で“明示”されるキャラクター)」はほぼ例外なくといっていいほど、男性との恋愛やSEXを要求される描写が“お約束(定石)”となっている。

そこへきてゼロ年代マリみて』ブーム以降の、主として女性キャラクター同士で完結し、男性キャラクターの介入を伴わない「百合」の恋愛表現は、日本を含めた同性愛表現の歴史の中で、むしろエポックメイキングであると言っても過言ではないだろう。そのようにして「百合」という日本のオタク・カルチャー特有の表現様式は、異性愛至上主義からの脱却に成功しつつある。

  • 異性愛至上主義からの脱却》に“成功した”のではなく、成功を“しつつある”と留保するのは、「百合」がまさに女性キャラクター間の感情や関係性を“明示”しないという特性によって、しばしばそれを《一過性の擬似恋愛》と決めつける“解釈”に晒される風潮が根強くあるためだ。
  • その意味では「百合」を語る際に好まれがちな《友達以上恋人未満》《「友情」と「恋愛感情」の間には明確な線引きなどない》というクリシェも、それが「恋愛」に至る可能性を否定し「友情(非恋愛)」の範疇に押しこめる異性愛至上主義に回収される危険性について警戒すべきである。
  • なお、現実・非現実を問わず女性のセクシュアリティについて「レズビアン」と“明示”されていなければ男性を愛せるはず(べき)、といった思い込みの愚かしさは論を俟たない。

ところが、それは同性間で完結し、異性の介入を伴わないという特性ゆえに、女性としての成熟を拒否した、幼稚な世界観と決めつけられがちなきらいがある。

しかし、そのような偏見こそ、まさしく女性の成熟には男性(を愛すること)が不可欠であると信じて疑わない異性愛至上主義に根ざした固定観念に他ならない。

元より「百合」が“解釈”である以上、それが表現の幅を“狭める”ことなどありえない。「百合」が女性同士の恋愛であるということは、極端な話、女性同士の恋愛(と“解釈”できる要素)さえ描かれていれば、その作品としての体裁は、学園青春物だろうとスポ根だろうと時代劇だろうと異世界ファンタジーだろうとミステリーだろうとノワールだろうとそれこそSFだろうと何でもアリなのだから(ちょうど議論の約1年後、今年の6月に入ってハヤカワ文庫が「百合SFフェア」を開催したのはなんとも皮肉な展開だ)。

www.hayakawabooks.com

そのような「百合」の概念について《作品解釈の可能性を“狭める”フォーミュラ》と決めつけてしまうのは、それこそ百合作品のテーマである女性同士の恋愛自体を“狭い”ものと決めつける異性愛至上主義の感性が、牧・豊崎両名の意識にどっしりと胡坐をかいているためである。

また、その意味では前述した、女性同士の「恋愛」に結びつかない関係性をも「百合」と認定されてしまうことの問題は、たんにそれが不適切であるというだけで、作品の“解釈”を“狭める”ものではない。むしろ《読解の幅》を無制限に“広げ”してしまった結果として、不適切な“解釈”と結びついたと捉えるのが妥当ではないだろうか。

あるいは、ある作品が「百合」と“解釈”されることによって、「百合」に抵抗のある読者を遠ざけてしまう可能性があるとは言えるかもしれない。もっとも、この場合に“狭め(られ)る”のは《「読解」の幅》ではなく《「読者」の幅》ということになるので、論点が変わってしまう。

しかし、実際には同性愛だろうと異性愛だろうと両性愛だろうと無性愛だろうと、とにかく面白い作品であれば何でも読んでみたい、と考えるのが“健全”な読者のあり方ではないだろうか。

それを「百合(と“解釈”されうる作品)」だから読みたくないなどと手前勝手に自己限定してしまう排他的で傲慢な読者は、けっきょくのところホモフォビア(同性愛者嫌悪)に囚われた差別主義者であり、そのようなものは切り捨てても一向に構わない。

「百合」はしばしば現実の「レズビアン」とは異なると言われるが(じじつ先述のとおり百合作品の多くに「レズビアン(と作品中に“明示”されるキャラクター)」は登場しない)、「百合」と「レズビアン」が異なるとしても、「百合」を否定する言説が現実社会の異性愛至上主義の敷衍であり、ひいては現実の「レズビアン」の存在を否定・否認する社会的・政治的力学の応用に他ならないことは自明である。

牧と豊崎は、今日の多様化した恋愛表現に対応することができず、自己の旧弊な異性愛規範を“自覚”しようともしない、じつに“狭い”感性の評論家である事実を露呈した。

令和の新時代を迎えたいま、こういった連中は平成の闇に置き去りにするのが相応しい。合掌。

* * *

なお「百合」が“ジャンル(カテゴリー)”ではなく“解釈”であるという問題については、以下の記事も参照のこと。 

ossie.hatenablog.jp

カテゴリーを「百合」と「レズビアン」に分離

記事のカテゴリー「百合/レズビアン」を「百合」レズビアンに分離しました。

百合コンテンツを研究・評論する上では《レズビアン差別》の問題を避けて通れず、これまであえて同じカテゴリーに入れていましたが、百合コンテンツが関わらない《レズビアン差別》のトピックまで「百合」のカテゴリーに入れることは、ともすれば《レズビアン差別》の問題自体を“コンテンツ化”しているととらえられかねません。

かねてからの懸案事項でしたが、このたび、カテゴリーを一括して修正する方法がわかりましたので、改訂に踏み切った次第です。百合コンテンツに関するトピックは、レズビアン当事者が関与した事案を除いて、すべて「百合」カテゴリーに一本化しています。

なおカテゴリーを修正するついでに、加筆修正を施した記事もあります。あまりに古すぎるトピックで、当時を知る資料として残してあるものの、読み物として面白いとは思えないため、あえてリンクは貼りませんが、ご興味のある方は辿ってみてください(非公開にした記事もあります)。

 

「みどりのらいおん(greenlion1987)」が作成した「トランス差別主義者」リストに入れられていた件

(2022年9月12日 加筆修正)

先日、Twitter上で「トランス差別主義者」「トランス差別の人たち」という二つのリストに入れられていたことを発見した。

トランス差別主義者|怪しいなと思ったらガンガン追加してるんで異論や誤解などあればお伝えください

https://twitter.com/green_lion_game/lists/list2

トランス差別の人たち|自分用メモです。誤解や勘違いなどあればお伝えください。

https://twitter.com/greenlion1987/lists/list1

  

(2022年9月12日 追記)

現在、リストは両方とも削除されている。

二つのリストの作成者は同一人物であり「みどりのらいおん(@greenlion1987)」が本アカウント、「gl_game(@green_lion_game)」はその副アカウントである。

f:id:herfinalchapter:20191008041259p:plain

f:id:herfinalchapter:20191008041320p:plain

わざわざ別々のアカウントで同じ主旨のリストを作成した意図は不明だが、私は唯一、その両方に入れられていたメンバーである(※気づいた時点で両方ともブロックして解除)。この人物と《トランス差別》について議論を交わした記憶はないが、よほど強烈に敵視されているようだ。

このところTwitter上のLGBTおよびフェミニズムクラスタでは、トランス女性の女性専用スペースの受け入れをめぐる議論が尾を引いている。

だが私は女性専用スペースの問題にはとくに言及せず、もっぱらレズビアンの多くが、トランス女性を性的対象にしないことを理由として「クィア理論」や「トランスジェンダリズム」に基づく性的加害を受けていることの問題についてしか述べていない。

具体的には、下に示すような事例についてである。 

ここで私自身のスタンスをあらためて表明すると、私はシス男性の立場から、トランス女性の女性専用スペース受け入れについて反対する資格はないと考える。

だが一方でシス女性の間から、トランス女性の受け入れについて危惧する声が上がるのはやむをえない側面もあり(そも「トランスジェンダー」という用語・概念自体が未だ世間一般に浸透しているとは言い難い)、そのような不安や疑問を表明しているだけの人を、それこそ「トランス差別主義者」などと一方的に決めつけて“糾弾”することは慎むべきである。

ましてやトランス女性を性的対象に含めない(あるいは性器の形状を理由に除外する)ことまでも「トランス差別」であるという、それこそ“排他的”で“偏狭”な思想には断固として反対するものだ。

ところが、このような私の姿勢が「トランス差別主義」に該当するらしい。

しかし、そのように判断される根拠はまったく示されない。もっとも上掲のとおりリストの説明文には《怪しいなと思ったらガンガン追加してる》とあるので、じつのところ《レズビアン差別》の告発・批判が原因であるかすらわからない。 

また私以外のメンバーに関しても不可解な人選が目につく。

たとえば、百合作品の新作情報を伝えるアカウントなども含まれている。アカウントの管理者に報告したところ、これまでトランス女性の問題について言及したことはないとのことで、ひじょうに困惑の様子であった。

中でも目を惹くのが、漫画家・渡辺ペコ@pekowatanabe)氏まで追加されている点であろう。

渡辺ペコ氏とトランス問題の関わりとしては、かつて氏が先鋭的なトランス擁護派から、自分たちと一緒になって「トランス差別主義者」を“糾弾(する内容のツイートを)”せよと威圧的に要求され、それを拒否したことによって逆恨みされたものと思われる。

しかし上述のとおり、何をもって《トランス差別》とするかの判断基準はきわめて恣意的であり、レズビアンがトランス女性を性的対象に含めないこと(より正確には、恋愛やSEXのパートナーを選別する際の基準に「生物学的性別」を含めること)までも「シスセクシズム」「トランスフォビア」「TERF」などと決めてつけられてしまうのが実情だ。こうした決めつけは、むしろそれこそがレズビアンの「性の自己決定権」の正当な行使を妨げる《レズビアン差別》以外の何物でもない。そのような状況下において、安易に《トランス差別》に反対などと口にできないのは当然であろう。

ところが渡辺ペコ氏は、自ら積極的にトランス排除を主張・煽動していたわけでもなく、それどころか上掲の「アレク進太郎」に対する返答以降はトランス女性に関して何ら発言していないにもかかわらず、ただトランス排除に“(トランス擁護派が勝手に期待する形で)反対しない”というだけの理由で「トランス差別主義者」と決めつけられ、あげくトランス擁護派によるネットリンチの標的にされてしまった。

一方で、そも人間の「生物学的性別」を否定して「性自認」による自己申告のみで《性別》を決定・判断すべきとする前衛的な「トランスジェンダリズム」の政治的イデオロギーが(トランスジェンダー当事者を含めた)一般社会に受け入れられるはずもなく、私が把握している範囲でも、毎日のようにこの問題を提起しているアカウントが(トランスジェンダー当事者によるものも含めて)複数存在する。だが、しかしそれらのほとんどは、どういうわけだか「みどりリスト」には含まれていないのだ。そうなると、ますます「みどりのらいおん」が規定する「トランス差別主義者」の定義がわからなくなってくる。

それにしても、はたして「差別主義者」という強い言葉は《怪しいなと思ったらガンガン追加》するといった安易なレッテル貼りに用いられるべきものであろうか?

《異論や誤解などあればお伝えください》《誤解や勘違いなどあればお伝えください。》などと殊勝な態度を装ってもいるが、そも「差別主義者」と判断する根拠を示すべきなのは、そのようなレッテルを見ず知らずの他人に貼りつける「みどりのらいおん」の側であろう。不正を立証する責任が告発する側にあることは自明であり、だからこそ私は《レズビアン差別》を告発する際に私のもちうる語彙を総動員して最大限言葉を尽くしている。

ようするに「みどりのらいおん」は何の根拠も示さず、ただ自分が気に食わない人間に「差別主義者」のレッテルを貼って回っているだけである。だが自分勝手な思い込みを元にした根拠のないレッテル貼りは、そのじつ批判でも告発でもなく、たんなる誹謗中傷・人格攻撃すぎない。

このような形でなされる「トランス差別主義者(と「みどりのらいおん」が勝手に決めつけた人々)」に対しての“糾弾”が《トランス差別》の抑止・是正に資するとは到底考えにくい。仮に「トランス差別主義者」と名指しされた人々が《トランス差別》をやめたいと思っても、その“根拠”すらわからないのだから改めようがない。

つまるところ「みどりのらいおん」の行為は、魔女狩りのごとく「敵」を作りだしては一方的な吊し上げによって糾弾欲と加害欲を満たす、トランス擁護の形を借りた“糾弾ジャンキー”によるネットリンチの煽動に他ならない。

日頃から《レズビアン差別》を“糾弾”する私を含めて、分野を問わず「差別」の問題に取り組む人々は、まさに「みどりのらいおん(@greenlion1987)」を他山の石としなければならない。

  • なお「みどりのらいおん」による「トランス差別主義者」の認定は上述のとおり《何の根拠もないレッテル貼り》であるが、かといって私は「みどりのらいおん」に対して、私を「トランス差別主義者(トランス差別の人)」と認定した“根拠”についてあえて問うつもりはない。
  • 見ず知らずの他人に対してこうした断定的かつ不誠実な振る舞いをする人物と、議論以前に人としての健全なコミュニケーションを図ることは困難であると考えられるし、そこまでの負担を強いられる義務もメリットも当方にはないからだ。
  • 現在、Twitter上では「みどりのらいおん(@greenlion1987)」について副アカウントの「gl_game(@green_lion_game)」と共にブロックしている。
  • そも、こうした監視目的のリストはメンバーからブロックされたら外れてしまうため、公開で作成しても意味がない。それでも意味があるとすれば「おまえを晒し者にしてやる」という悪意に根ざしたたんなる“嫌がらせ”でしかない。
  • よって今後、謝罪なども含めて「みどりのらいおん」からのコンタクトは一切拒絶することをここに宣言する。

 

《百合に男が挟まりたい》問題の“震源地”を探る~女性百合作家へのハラスメント事案をめぐって #yuri #百合

(2020年4月14日 加筆修正)

「百合クラスタ」の間で定期的に話題に上る、「百合(女性キャラクター同士の恋愛関係、カップリング)」に対して「男(男性異性愛者)」が「挟まりたい・混ざりたい(という欲望を吐露する)」問題。 

じつのところ私個人としては、「百合」に男が挟まりたい・混ざりたい、という文字列を見るだけで胸糞が悪くなるし、そのような概念がこの世界に存在すること自体を認めたくない、というのが本音である。

ために、今回も深追いする気になれずスルーを決め込むつもりでいたものの、なにげなくTLを眺めているうちに、その“震源地”と言える変態野郎のアカウントをたまたま見つけてしまった。

 

 

 

 

  

「百合」やマンガといった分野を問わず、女性の表現者が男性客から目をつけられ、セクハラ、パワハラ、マンスプレイニングなどありとあらゆる形態のハラスメントを受ける事案は日常茶飯事である。

そして女性の表現者が、そのようなハラスメントを公に告発したとたん、別の男性から「その男性も悪気があったわけではないのだから許してあげるべきだ」「作家の側が笑って受け流す度量を身に着けるべきだ」「表現者であれば不快な意見・感想でも甘んじて受けるべきだ」「すべての男性が加害者ではない。男性に偏見をもつのは『男性差別』である」といった二次被害(セカンド・レイプ)を受けることもお決まりのパターンだ。

実際、上掲した百合嗜好者と思われる男性アカウントは、議論の発端となった犬井あゆ(@_osakana_man)を含め、あきらかに「女性作家」とわかるアカウントにしか絡んでいない(あるいは女性であっても「フェミニスト」からの声は無視する。この類の男にとってフェミストは「女」ではないらしい)。

男女を問わず、誰もこのような他人の痛みに寄り添わない独り善がりで上から目線の「クソバイス」など求めていない。逆に、この男が「女」に近づく口実として、自分が気安くマウンティングできる「女性作家」を必要としているだけである。

とはいえ、女性作家の立場から、そのような男性に毅然と「NO」を突きつけることはなかなか難しいだろう。

だとすれば、同じ百合嗜好の男性の立場から「NO」を突きつけるほかない。

なおお断りしておくが、以下に続く私の言辞は、あくまでも私自身の「同じ百合好き男性」という“当事者性”に立脚するものであり、ハラスメント被害の「当事者」であられる犬井あゆ先生を“代弁”ないし“支援”する目的・意図はいっさい含まれていない。

* * *

>挟まりたいくらい可愛い!という褒め言葉で決して悪気はなかったとは思うし 作品を観てどう感じるかは受け取った側の自由じゃないかなあ。ある程度のスルースキルは必要かも。

はぁ。「受け取った側の自由」と言いながら何テメェの独り善がりな「不自由」極まりない解釈を人様に押しつけてんの?

つーか「悪気」があろーがなかろーが百合絵を見て混ざりたいと発想する時点で、そのような「男」は異常者の変態野郎でしかないし、またそれが異常であることに気がつかない時点でテメエ自身も同じ異常者の変態野郎だよ。

変態野郎の分際が創作者に向かってスルースキルがどうのと頓珍漢な説教垂れてんじゃねえぞ?

せめて変態なら変態らしく身の程を弁えとけ。

>言ったのが男性だとしても「(もし女に生まれ変わったら)混ざりたい」って意味かもしれないしあくまで作品に対する褒め言葉の範疇ではないかな。

《ないかな。》じゃねえよアホ。

女性カップルに対して「挟まりたい・混ざりたい」などと言うことは、男は元より女が言ってもセクハラに決まってるだろうが。

逆になんで女同士なら許されると思うの? 一部の百合マンガに出てくる「女同士なんだからいいじゃない」的なセクハラ描写を鵜呑みにしているのか。《もし女に生まれ変わったら》などと加害者の心情を都合良く勝手に忖度して仮定を前提に話を進めてる時点で、空想と現実の区別が付いてないんじゃねえのか。

  • もっとも、実際にレズビアン当事者が他の女性カップルに挟まりたい・混ざりたいなどと発言しているのは見たことがないので、この《百合に挟まりたい・混ざりたい》という欲望は、やはり男性異性愛者に固有の心性と思われる。

つーか何だその屁理屈は。そんなわけのわからん屁理屈が赤の他人に通じると思い込んでる時点でテメエの精神構造は異常極まりないのだが?

>例えば 綺麗な海の絵を見て「ここで泳ぎたい」と言うぐらいの意味でしかなくそこまで悪質な言葉ではないかなと思った次第です。

えーと、まず百合カップルは「海(モノ)」ではなく「人間(人格)」なので、そのパラフレーズは不成立。喩え話が喩えになってないのはアホの特徴。

またそれに「挟まりたい・混ざりたい」と発想するのは、男性異性愛者のセクシュアリティとしてけっして“自然”なこと(本質)ではなく、異性愛至上主義に根ざした「差別思想」であり、言うなれば社会的・政治的に“つくられた(構築された)”マガイモノの感性。

んで、そのような異性愛至上主義の差別主義者を、わけのわからん屁理屈で必死に擁護しつつ女性作家に“マンスプレイニング”する変態野郎がテメエだよ。

 

forzastyle.com 

>もちろん明らかに悪質なものに関しては即通報するべきで間違いありません。

そうだな。あらゆる意味で「間違い」だらけのテメエみたいな変態野郎は、もはや存在自体が「暴力」だし「悪質」極まりないのだからテメエでテメエ自身を“通報”するべきだね。さいならー。

* * *

ここから先は長い余談になる。

《百合に男が挟まりたい・混ざりたい》問題。そのような異性愛至上主義に根ざした差別的欲望の表出を忌避するのは自明として、しかしその理由が「百合」が“尊い”からなどという次元に留まっていたら、逆に足元を掬われることになる。

上掲の【変態野郎】に対しては、当然のごとく「百合クラスタ」からの反論が殺到しているけれど、そも《百合に男が挟まりたい・混ざりたい》という欲望の表出自体が、異性愛至上主義に根ざした明確な《レズビアン差別》であり「ヘイトスピーチであるという論点が見受けられなかったことは残念でならない。

元よりこれはファンタジーの「百合」と現実の「レズビアン」が“同じ”だということではなく(あるいは百合作品のキャラクターが「レズビアン」だということでもなく)、現実の「レズビアン」に対する性的加害を正当化するレトリックが「百合」の解釈にも敷衍されているという意味である。

本件に関しては「当事者」である作家本人が不快感を表明している時点で、一つのハラスメント案件であることは論を俟たない。しかし、指摘されているとおり直接的・逐語的に“性的”な語彙(それこそ「射精したい」のような)が用いられていないこと、さらには作家本人に向けられていないことから、それを一般的な意味での「セクハラ(セクシュアル・ハラスメント)」として告発することも難しい実情がある。

たんに本人が嫌がっているのだからやめろ、というだけでは、それこそ「表現者」たるもの《多少否定的であれ正直な意見》《自分の意に反する反応》も甘んじて受けるべしといった薄っぺらで的外れな精神論に摩り替えられてしまいかねない。

くれぐれも言っておくが、ヘイトスピーチ」はそれ自体が《差別行為》であって“ご意見・ご感想”の類ではない。そして男性が女性同士の恋愛関係(百合)に介入したい(挟まりたい・混ざりたい)という欲望を表明すること――さらにはそのような「欲望」を許容するように迫ること――は、異性愛至上主義に基づいた「ヘイトスピーチ」の典型であり、だんじて「スルースキル」を身に着けて看過されるべき事柄ではない。

  • この問題は、女性の側から他の女性同士の恋愛関係に介入したいという欲望が発せられることがない(さらにはそのようなコンセプトの百合作品も存在しない)事実との非対称性に明らかであろう。
  • 付言すれば「ヘイトスピーチ」は、その逐語的な意味合いに反して、かならずしも(というか多くの場合に)直接的な「ヘイト(憎悪)」を示す言葉によって構成されるわけではない。
  • 仮に対象への「愛」や「好意」「憧れ」など(それこそ「悪気」「悪意」の対極にある感情)の表現であっても、その対象が〈女性〉であり、なおかつ〈女性〉が〈男性(異性)〉を愛するべきであるとする異性愛至上主義を前提とするのであれば、まさしく異性愛至上主義の社会的・政治的力学に依拠した「ヘイトスピーチとして機能する。
  • たとえば、である。ルワンダ虐殺の引き金となった『千の丘自由ラジオ』においては《ゴキブリども(ツチ族)を皆殺しにしよう!》といった直接的・逐語的に「ヘイト(憎悪)」を煽り立て虐殺を教唆するメッセージの他にも《ツチの女はどんな味か経験してみよう》といった「欲望」の表明が含まれていた。
  • レイプの根底にあるのは「愛」ではなく「支配欲」であり、また「支配欲」に根ざした「愛」はレイプに他ならない。《百合に男が挟まりたい・混ざりたい》という「支配欲」の表明を《褒め言葉の範疇》と捉える感性はレイピストの感性そのものだ。
  • もっとも、そのような「ヘイトスピーチ」の機能性の一つとして《沈黙効果(ヘイトスピーチを浴びせられた当人がショックのあまり思考停止に陥り失語してしまう現象)》があることから、実際にその場で適切な対応が取れなかったとしても責められるべきではない。だが、それでもなおヘイトスピーチ」をけっして許容しないという対外的姿勢を示すことは、それこそ「表現者」であれば必要不可欠である。

また一連の騒動に乗じて、有名無名を問わず百合系の作家たちが【百合に挟まりたい・混ざりたい男】をネタにした「大喜利」に興じている(私が今回話題になっていることを知ったのも、私がフォローしている推し作家がそのようなツイートをしているのを目にしたからだ)。

そうした作家たちの不真面目な態度は、しかし「百合」が現実の「レズビアン」に対する“性的消費”であるという批判を、むしろ裏打ちすることになりはしないだろうか?

おそらく「百合クラスタ」の間では、【百合に挟まりたい・混ざりたい男】と同様に(あるいはそれ以上に)私のような社会的・政治的論点を提示する者も異端視され、煙たがられるのかもしれない。

しかし《レズビアン差別》が現実社会の問題であり、そしてレズビアン差別》こそが、まさしく《百合に男が挟まりたい・混ざりたい》という欲望の“震源地”にほかならない以上、「百合」を愛する者はいやがおうにも現実の《レズビアン差別》と向き合わざるをえない。

あるいは「欲望」自体を“なくす”ことはできないとしても、そのような異性愛至上主義に根ざした差別的な「欲望」の表出が、おおっぴらにまかりとおる事態を抑止することは可能であろう。そのためには、たとえ愚直で不格好あろうと、やはり《百合に男が挟まりたい・混ざりたい》という欲望の表出自体が、異性愛至上主義に根ざした明確な《レズビアン差別》であり「ヘイトスピーチであるという前提を私たちが共有する他ないのではないか。

* * *

話ついでに、さらに面倒臭い論点を提示する。

上掲文章の中で私が、この異性愛至上主義の差別主義者を罵倒するにあたり、あえて「変態」という語彙を用いたことについて。

どうも近頃は「変態」という言葉を否定的に用いること自体が、同性愛者などを含めた「変態(クィア)」と呼ばれるセクシュアリティに対する「差別」を強化することにつながるというクィア理論」が幅を利かせている。女性専用車両に乗り込むミソジニストの男たちに対するカウンターとして「変態」という言葉を用いることについても、そのような意識のお高いクィア主義者による“言葉狩り”が散見された。

だが結論から述べると、というより当ブログを一読しておわかりのことと思うが、私はこの「クィア理論」に対して否定的な立場の人間である。

たしかに「変態」という言葉が、精神医学においては「変態性欲」として同性愛などの《生殖》につながらない「性欲」を“否定”する(つまり“治療”の対象として異性愛に“矯正”する)意味で用いられてきたのは歴史的な事実だ。

しかし日常生活で用いられる「変態」という言葉は、じつのところ定義が曖昧かつ茫洋としており、かならずしも「同性愛」だけを指すのではない。

つまり非異性愛者ないし非シスジェンダーについて「変態」という言葉を用いるなら《差別語》となるが、裏を返せば非異性愛者ないし非シスジェンダーと無関係の事柄を「変態」と言い表すことは、なんら「差別」になりえないのである。

とくに「百合(女性同士の恋愛関係)」に“挟まりたい・混ざりたい”と発想することが「男」にとって“自然”であり“本能”なのだと思い込む異性愛至上主義の差別主義者に対して、そのような欲望が「男」にとって普遍的に共通する心理ではない事実を突きつけるうえで「変態」という言葉は他の何よりもわかりやすく、有用であると考えられる。

  • ただしこうした場合に〈男性〉が、「百合」に“挟まりたい・混ざりたい”と発想する男性に対して「いっしょにするな」と言い放つべき相手は、そのような「男性」であって「レズビアン」ではないことを確認する必要がある。
  • 元より、このこと(=そのような欲望が「男」にとって普遍的に共通する心理ではないという事実)は、いわゆる「Not All Men」的な体の良い他者化・切断処理とは、まったく異なる。むしろ「男(百合好き男性)」の問題であると認知すればこそ、私を含めた「男(百合好き男性)」が自らの“当事者性”と“主体性”に基づいて発言すべきなのは自明である。
  • なお、ここでいう「男」ないし「女」の定義を問うことは不毛である。
  • 議論の本質は、あくまでも「男」が「女(女性同士の恋愛関係=百合)」を侵犯する行為の暴力性・差別性についてであり、当該のハラスメントを女性作家に行った「男(と思しき人物)」が、実際にどのような性自認を有しているかは何の関係もない。
  • 極論を述べてしまうなら、問題のハラスメント事案が実際に起きた(女性作家が体験した)出来事であったのかすらも関係ない。《百合に男が挟まりたい・混ざりたい》という欲望(およびその表明)は、それ自体が差別的である上に、それを擁護・肯定する者(上掲の「変態野郎」)が実在していることは紛れもない「事実」であるからだ。

また歴史的経緯を述べるなら、まさしくクィア理論」自体が、「男性(あるいは生物学的に〈男性〉である人、とくにトランス女性)」を性的対象にしない「レズビアン」を「差別主義者」「シスセクシスト」「TERF」「不寛容」として“糾弾”することで、性的加害を正当化してきたのも事実である。

そして「クィア理論」においては、まさしくレズビアン(非異性愛者)」に男性(異性)とのSEX(異性愛)を要求することに性的興奮を覚える男性異性愛者をも「クィア」として認め、かつ「レズビアン」に対してそのようなクィア(変態野郎)」との“連帯”を強要するレトリックが用いられている(実際にセジウィックという代表的なクィア活動家がそのように提唱している)。

そのような「クィア理論」を金科玉条に掲げる「クィア主義者」からすると、【百合に挟まりたい・混ざりたい男】が「変態(クィア)」として罵倒される様は、さぞ心苦しいであろう。

だが裏を返せば、「百合(女性同士の恋愛関係)」に「挟まりたい・混ざりたい(つまり【女性を愛する女性】に男性とのSEXを要求したい)」というあからさまな《レズビアン差別》の事案を目の当たりにしながら、そういった言葉尻を捉えて告発者を「無自覚の差別主義者」に仕立て上げることにばかり執心する精神性というのは、まさしく「クィア理論」自体が実質的に《レズビアン差別》の告発・批判を無効化する《差別主義者の論理》として機能している事実の証左に他ならない。

あるいは「変態」という言葉を用いなくとも「レズビアン」に対する性的加害を告発・批判することは可能だと言うだろう。しかし実際は逆で、「変態」という言葉が“狩られて”しまうなら、そのような「クィア理論」にもとづいた「レズビアン」への性的加害を告発・批判する手段が失われてしまうのだ。

  • それでも「変態」という言葉が「レズビアン」の迫害に用いられてきた事実に変わりはないと言い張るのであれば、まさしくそのような「クィア理論」に基づいて「レズビアン」が「差別主義者」「シスセクシスト」「TERF」「不寛容」などとして迫害されている実情があるのだから、「差別主義者」「シスセクシスト」「TERF」「不寛容」などといった言葉もいっさい使ってはいけないことになる。

そのような、まごうかたなき差別思想である「クィア理論」に対するカウンターも込めて、私は今後も「変態(クィア)」という語彙を“否定的”に使い続ける所存である。

 

「腐女子」を“異常視”するSF作家・山本弘は本当に「腐女子」の理解者か?

(2021年1月11日 タイトル変更/加筆修正)

  

山本弘の『BIS ビブリオバトル部』という小説については書店で手に取った際、冒頭からメインキャラクターの男子高校生がヒロインについて「俺は巨乳がタイプだから、こいつみたいな貧乳は好みじゃない(意訳)」といったミソジニー全開の発言をしていて、うんざりして棚に戻した記憶がある。ビブリオバトルの楽しさをラノベを通して伝えたいという意図であるなら、悪役でもない登場人物をなぜこのように造形する必要があったのか。男性読者の共感が得られると判断したうえでのことなら、女性読者を排除しているし、男性読者を舐めきっている。

そのようなミソジニーと表裏一体にあるのがホモフォビアであり、両者が結びついたのが「腐女子バッシング(BLバッシング)」である。

【僕の文章を勝手に誤解して、腹を立ててた人】とは、上掲のリンク先にある紹介記事のコメント欄で、同作品に登場する「腐女子」のキャラクター【ミーナ】の扱いを批判した人物のことである。引用しよう。

(前略)ミーナのBL好きが作中で「そもそも腐女子という概念自体、正しい女子の姿からはずれてるように思うんですが」だの「女性が男色に興味があるということ自体、すでに心のバランスが崩れているように思うのだが」だのと酷い評価を受けていますが、21世紀の現在、先進諸国の精神医学会は同性愛を「性的倒錯ではない」つまり“健全でノーマルな”愛の形としており、そのように愛し合う関係の男性たちを(あるいは「あの人とあの人が恋人同士だったら」という空想を)「素敵だ」「いとおしい」と感じる(つまり萌える)ことがそんな異常なことだと罵倒する権利は誰にもないと思います。
 最近よくテレビ番組などでも「約20人に1人がLGBT」と紹介されていますよね? つまり、ランダムに男性を100人を集めたらその内5人くらいゲイでもまったく何の不思議もない訳です。「ランダムに」を「山本さんの男友達や仕事でお世話になっている」とか「ビブリオバトル好き中高生の」に置き換えても同じですから、山本さんが「SFって面白いんだよ」「差別はよくないよ」「ニセ科学に騙されないで」と誰かに伝えたい時、その「誰か」がLGBTやアライ(支援者)である可能性は常に意識していただきたいです。
 作中のセリフや地の文でミーナのBL好きが否定されるのを読むたび、わたしは我が身のことのようにつらいです。
Posted by ヨネマサカシラ at 2016年02月09日 07:42

 

 先ほどのわたしのコメントについて、一点どうしても補足説明というかお詫びしておきたい箇所があったので、すみませんが連続コメントさせてください。
 「ランダムに100人の男性を集めたら~」のくだりですが、元々この段落はその前の、同性愛は健全でノーマルな愛の形だから男性同性愛に萌える腐女子も異常呼ばわりされる理由はない、という段落に入れようと思っていたのを、「100人中5人いるからノーマルだ、という理屈では、100億人に1人しかいないならアブノーマルだ、という話になってしまうから、この文章は別のところにつなげよう」とその次の段落に移した時、腐女子の萌えの対象について語っていたからゲイに限定していたのを、うっかりLGBT全般の話に直し忘れてああなりました。ゲイ以外のLGBTの皆さま、排斥するような形になってしまいたいへん申し訳ありません。
Posted by ヨネマサカシラ at 2016年02月09日 18:27

なんだか無駄に情緒的な文章で説得力に乏しいけれど、それはさておきBLおよび腐女子バッシングの根底に、ホモフォビアが存在することは事実である。なぜならBLについて指摘される「問題」は、ことごとく男女物にも当てはまる内容であり、それにもかかわらずBLだけをあげつらうのは、けっきょくのところBLのテーマである「同性愛」自体が《異常》であるという前提に立脚してるからだ(むろんこれは「百合バッシング」にも当てはまる)。

現実の同性愛とファンタジーのBLは違うのだ、といった物言いも目にする。しかし現実の同性愛とファンタジーのBLが同じなのではなく、現実の同性愛を否定するレトリックが、そのままフィクションのBLを否定するレトリックとして援用されているというのが実情である。ようは現実の同性愛を嫌悪する人間が、フィクションの同性愛の表現も同様に嫌悪しているだけのことであり、ただそれを愚直に表明したらたんなるホモフォビアの差別主義者であることがバレてしまうので、その代わりにBLを槍玉に上げているにすぎない。

一方で、ファンタジーのBLが現実の同性愛者を“性的消費”しているといった言い分もあるが、それこそ現実とファンタジーを混同した思考であろう。だいたいBLがファンタジーであるなら現実の同性愛者に対する“性的消費”にもなりようがなく、両者は完全に矛盾しているのだけれど、なぜか同じ口で主張されるのだから、やはり初めに否定ありきのもっともらしい難癖でしかない。

さて、これに対する山本自身の、これまた説得力ゼロの反論が以下である(※強調は引用者)。

 

(前略)あなたは僕の小説『アイの物語』をお読みでしょうか?
 あの小説の大きなテーマは、「異質なものは理解できなくてもいい、許容すればいい」というものでした。このテーマは『BISビブリオバトル部』でも貫かれています。
 部長である聡のモットーは、「自分の嗜好を他人に押しつけてはならない」というものです。

>「理解できないのは分かる。僕だって正直、BLなんて理解できない。でも、否定もしたくない。やっちゃいけない」

>「だからさ、このBIS、特にBB部は、安らげる場なんだよ。人と違ってて何が悪い。変わった趣味を持ってるからって、それがどうした。ユニークなのってサイコー!――そう胸を張って主張できる。それどころか理解者を増やせる」

 それは空や武人も同じです。
「ミーナのBL好きが否定されるのを読むたび、わたしは我が身のことのようにつらいです」? いや、2人ともミーナの趣味を理解できず、変だと思っているだけで、否定はしていませんよ。
「異常なことだと罵倒する権利は誰にもない」? 確かにその通りです。しかし、2人がミーナの趣味を「異常なことだと罵倒」している場面など、いったいどこにあるのですか? 「異常」なんて言葉は使っていませんし、ましてや「罵倒」などしていませんよね?
 つまりあなたは、作中に存在しない場面が「ある」と勝手に誤解しているだけです。

 また、あなたの主張がおかしいのは、かんじんのミーナの発言を無視していることです。

>「はあ、今どき同性愛者に対して、こんな感覚抱いてる若者がいるんだ」蟹江のツイートを読みながら、ミーナはあきれていた。「生きた化石だなあ」

 こういう台詞を読んで、僕がBLや同性愛に対して偏見を抱いていると思う人はいないはずです。あなたはこうした箇所を無視し、さらに空や武人の台詞を「異常なことだと罵倒」と歪曲することで、この小説を読んだことのない人に間違った印象を植えつけようとしています。
 そういうやり方ってアンフェアだと思いませんか?

 もうひとつ、いちばん重要なことを。
 僕の娘は現在19歳、大学生です。立派な腐女子です。
 今は『刀剣乱舞』の燭台切光忠がお気に入りで、イベントでコスプレもしていますし、グッズも集めています。もちろんBL同人誌も買っています。
 僕も妻も、娘の趣味を暖かく見守っています。妻など、コスプレ用の衣装を作ってやったりしています。
 作中のミーナの言動は、娘のそれがヒントになっている部分があります。

 そんな僕が腐女子を「異常呼ばわり」していると?
 つまりあなたは、僕が娘を異常呼ばわりしているとおっしゃっていることになりますよね?
 それは僕に対する重大な侮辱なんですが。

 もちろん、差別や偏見と戦うのは正しいことです。
 でも、誰かの著作の内容を誤読して文句をつけたり、その誤解を元に作者を差別主義者であるかのように決めつけるのは、明らかに間違っています。
Posted by 山本弘 at 2016年02月10日 20:13

山本が引用した「はあ、今どき同性愛者に対して、こんな感覚抱いてる若者がいるんだ」「生きた化石だなあ」という台詞は、あくまでも「腐女子」である【ミーナ】の言葉であって、作者である自身を仮託しているであろう男性キャラクターによる発言ではない。よって山本自身がBLや同性愛に対して偏見を抱いていないことの証明にはまったくならない。

また山本に言わせれば「異常」という語彙を直接的に“使って”さえいなければ「異常なことだと罵倒」「異常呼ばわり」したことにならないらしい。

“罵倒”という言い方が不本意なら“侮辱”でもいいと思うが「そもそも腐女子という概念自体、正しい女子の姿からはずれてるように思うんですが」「女性が男色に興味があるということ自体、すでに心のバランスが崩れているように思うのだが」といったセリフが腐女子」を“異常視”するものでなくて、いったいなんなのか。

思えば十年以上前、個人サイト上で掲示板を開いていた頃から、山本は議論で劣勢になると、このようにしょうもない言葉尻をいちいち捉えて相手を煙に巻く癖があるので(それにしても山本に追従する「信者」のネチョネチョとした気持ち悪さも相変わらずである)、具体的に指摘するなら《正しい女子の姿からはずれてる》《心のバランスが崩れている》という箇所が《女性が男色に興味がある》というセクシュアリティを“異常視”するものである。

あるいは山本にいわせれば「異常」という語彙を「変」に置き換えたなら「異常呼ばわり」することにならないらしい。そのくせ「理解できないのは分かる。僕だって正直、BLなんて理解できない。でも、否定もしたくない。やっちゃいけない」とこの期に及んで善人面をする。

「否定する」ということが、どういうことを想定しているのか、それこそ直接的に「異常」という語彙を用いて“罵倒”することだけを想定しているのか。

いずれにしても山本(が自身を仮託するキャラクターたち)が《女性が男色に興味がある》というセクシュアリティを“否定的”にとらえ、なおかつそのような「偏見」を疑うこともなければ改めようともしない精神性の持ち主であることは事実のようである。

そのような「上から目線」の態度をもって「腐女子」を“許容”しているなどと言われても、そも“許容”される以前に「腐女子」は存在しているのであり、まずはその存在を(余計な価値判断を挟まずに)ありのままに是認するべきではないのか。ましてや自己の卑小な価値基準に照らし合わせて“理解”できないからといって、一方的に“侮辱”する行為が、それこそ“許容”されるべきでもない。

そもそも男性である山本が「正しい女子の姿」なる“概念”を一方的に規定すること自体がミソジニー以外の何物でもない。

あと興味深いのは、山本が自身の「腐女子」であるという実子を引き合いに出して「偏見」のなさを自己アピールしていること。元よりこれは《I have black friends(私には黒人の友達がいる)》といって典型的な《差別主義者の論理》そのものだ。この「black friends」にはあらゆる被差別的属性が代入可能であることは言うまでもない。

腐女子」に対して「差別」という概念が適用されうるかという論点はさておくとして、「腐女子バッシング」の根底に《女性差別》と《同性愛者差別》が存在することはすでに述べたとおりである。そして山本自身が「差別主義者」であるか否かはともかく、都合が悪くなると《差別主義者の論理》を用いて自己正当化を図る人物であることにも変わりはない。

なお山本弘ホモフォビアについては、かつて当ブログでも取り上げていた。かれこれ十年前の記事だが、差別問題に関する山本の基本姿勢が、この時点からまったくアップデートされていないことがわかる:

山本弘のおかしな「ロリコン擁護」

やはりホモフォビアを正当化する山本弘