百錬ノ鐵

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《トランス女性を愛さない奴は差別主義者》←このようなトンデモ思想こそが「差別」である理由

(2021年11月14日 加筆修正)

jiji氏が指摘しているように、この「国連機関」のメッセージは、あまりにも独り善がりでいろいろとおかしい。

そもそも生物学的性別を基準に恋愛やSEXのパートナーを選択するという多くの人にとって、トランス女性がその対象にならないのは生物学的性別が理由であって「ジェンダーアイデンティティ性自認)」の問題ではない。

一般的な社会生活の上で、トランス女性の「ジェンダーアイデンティティ」を尊重して〈女性〉として扱う・接するということは、トランス女性を恋愛ないしSEXの対象にすることとは違う

――というのが、トランスライツをめぐるごく一般的な考え方だと思っていたが、どうも近頃の流行は違うようだ。

そういえば昔、ゲイリブ嫌いのゲイが「(LGBT運動に反対する理由について)いくらLGBTの権利が公に認められたところで、自分が思いを寄せる人から愛されないのなら何の意味もない」と言っていたのを思い出した。

とはいえ世の中には、自身がトランス当事者でないにもかかわらず、いや「当事者」でないからこそ自分自身の意識お高いアピールのために、このようなトンデモ思想に賛同する、傍迷惑な自称「トランスアライ」が存在する。

https://twitter.com/justkiddddding/status/1114729428054040577

 感覚や感性として合う合わないは当然あるし、関係を拒絶する自由はひとりひとりの不可侵な権利だし、その選択も尊重されるべきだけど、そうした拒否の理由が特定の身体的特徴や性自認に求められた場合は、ベッドの外だろうと中だろうとまぎれもなく差別ですよ。「人の勝手」とかいう次元ではない。

まず、それを言うのなら

自身がトランスジェンダーでありながら、他のトランス女性とのSEXを(特定の身体的特徴を理由に)拒否するトランス女性(トランスレズビアン)に対しても、同じことを言うべきであろう。

ここで議論されている「差別」とは、文字通りに“差をつけて区別すること”ではなく、そのような差異を利用した《人権侵害》を指す言葉である。

しかるにレズビアンが「トランス女性」を性的対象(恋愛対象)にしようがしまいが《トランスジェンダーの権利》が侵害されることはない。よって《特定の身体的特徴や性自認》を理由に「関係(肉体関係・恋愛関係)」を“拒絶”することは《トランスジェンダー差別》にも当たらない。

あるいは《特定の身体的特徴や性自認を理由に「関係(肉体関係・恋愛関係)」“拒絶”することが「差別」であると言い張るのなら、

そもそも《(特定の)感覚や感性》を理由に「関係(肉体関係・恋愛関係)」を“拒絶”することは《(特定の)感覚や感性》に対する「差別」にはならないのか? 《身体的特徴や性自認だけでなく《感覚や感性》もまた自分自身の意志や努力で変えられない「精神的特徴」であるはずなのだが。

だいたい@justkidddddingの理屈に倣うのであれば〈異性愛者〉が〈同性愛者〉との「関係(肉体関係・恋愛関係)」を、相手が〈同性〉であることを理由に“拒絶”したとしたら《同性愛者差別》ということになってしまう。

むろん、そんな馬鹿なことを言うゲイリブ活動家は見たことがない。にもかかわらず、そのような異常な言動がまかりとおっているのが今日の「トランスジェンダー運動」の実情なのだ。

https://twitter.com/justkiddddding/status/1114729428054040577

おかしいですね。ポスターの時点から「愛さないこと」の「理由」における差別性が一貫して問題なのに、いつのまにか「愛すること」の「理由のなさ」という誰が見ても首肯できる次元に話がすり替わっている。あと、愛と差別がつねに無関係なら、The personal is politicalはどこへ行ってしまったのか

「The personal is political」とはラディカル・フェミニズムの用語で、ドメスティック・バイオレンス児童虐待など、それまで“私的(パーソナル)”とされてきた空間ないし関係性の内で隠蔽・正当化されてきた人権侵害を告発するための概念である。

「愛」やセクシュアリティといったプライバシーの領域に、赤の他人がズカズカと土足で踏み入る行為を正当化するものではないし、むしろそのような事態に陥らないよう、じゅうぶん配慮する必要がある。

あるいは「差別」の機能する社会で暮らす以上、人は誰しもが「差別」の構造から免れないといったことを言いたいのなら、

それは一種の「原罪論」であって、生物学的性別や身体的特徴に基づいてパートナーを選択することが「差別」であるか否かといった議論とはまったく別次元の問題である。

なぜならば生物学的性別を基準にしようがしまいが、前述のとおりどのような形の「愛」であっても「差別」に結びつく“可能性”はありうるのだから。

ゆえに、そのようなそのような意味合いで生物学的性別のみを、ことさら“差別的”とあげつらうのは論理矛盾であるし、ましてそうした原理原則を振りかざして、特定の個人やセクシュアリティを攻撃するのは愚の骨頂だ。 

https://twitter.com/justkiddddding/status/1114718475883180033

まず、もとのポスターでは「love」となっている箇所を、なぜ「性的関係」に限定しているのかわかりません。この時点でポスターの解釈として狭すぎる。次に、もし「性的関係」に限定したとして、「誰」に対しても「拒否できるのは当たり前」ですが、それが「何」だからと表明するのは差別になりえます。

>まず、もとのポスターでは「love」となっている箇所を、なぜ「性的関係」に限定しているのかわかりません。

「love」の概念から「性的関係」を切断・排除しようとする試みは《「精神的な同性愛」は認めるが「肉体的な同性愛」は許さない》というホモフォビアにつながっていく、それこそ“差別的”な考え方ではないか。

どうやら、この@justkidddddingなる御仁はトランスフォビアには意識がお高くてもホモフォビアにはまるで無知、無関心のようだ。

https://twitter.com/justkiddddding/status/1114718481407045632

国連のポスターもそういうことだろう。たまたま出会った「トランスジェンダーである」人を愛さない自由は当然あっても、それを相手の「トランスジェンダー」という属性に絡めて表明するのは、女性だろうと男性だろうと差別的(そもそももとのポスターは、シス男性のMtFへの偏見を撃つ狙いなのでは?)

《属性に絡めて表明》とは、一体どういうことか?

トランス女性を恋愛やSEXの対象にしない人――この場合は〈男性異性愛者〉または〈女性同性愛者〉は、

たんに生物学的性別を基準に恋愛やSEXのパートナーを選択しているだけであって、

トランスジェンダー」という“属性”だとか、またその「相手」がどのような「ジェンダーアイデンティティ」をもっているかは無関係であろう。

それをわざわざ《「トランスジェンダー」という属性に絡めて》いるのは、こうした自称「トランスアライ」くらいなものだ。

>(そもそももとのポスターは、シス男性のMtFへの偏見を撃つ狙いなのでは?)

仮にそれが《シス男性のMtFへの偏見を撃つ狙い》であっても、現実に〈男性異性愛者〉がトランス女性(あるいは生物学的に〈男性〉である人)との恋愛(性愛)を強要されることは稀なので、

実質的には〈女性同性愛者(レズビアン)〉への恫喝として機能している。

そも「女性」を愛することについて議論する上で「シスジェンダーの男性異性愛者」しか想定されず「女性同性愛者(レズビアン)」の存在が排除されるのであれば、

それは裏返しの「異性愛至上主義」「男性至上主義」に他ならない。

ようは異性愛者/同性愛者〉〈男性/女性〉の社会的・政治的力関係の非対称性をまるっきり無視した問題提起(問い)であり、またそうした非対称性に無自覚・無頓着である意識のありよう自体が「差別意識といえるだろう。

人は「完全なマジョリティ」にも「完全なマイノリティ」にもなりえない。現実に実現不可能な「政治的正しさ」を掲げるのは、けっきょくはマイノリティの中の“マジョリティ性”を針小棒大にあげつらうことで、マイノリティをさらに追い詰める口実に利用されるだけだ。  

>たまたま出会った「トランスジェンダーである」人を愛さない自由は当然あっても、それを相手の「トランスジェンダー」という属性に絡めて表明するのは、女性だろうと男性だろうと差別的

そもそもトランス女性を恋愛やSEXの対象にしない人が、なぜトランス女性を恋愛やSEXの対象にしないことを、わざわざ“表明”しなければならないのかといえば、

まさに《トランス女性を愛さない奴は差別主義者》などというトンデモ思想を喧伝する一部の「トランス活動家」だとか、またそれを無批判に受け売りする思考力ゼロの「トランスアライ」がいるからで、まさに語るに落ちている。

やれトランス女性のペニスは大きなクリトリスだのレディディックだのといった屁理屈を、当事者やそのパートナーが自分たちで納得するだけならともかく、人に押しつけるのであれば、生物学的性別を基準に恋愛やSEXのパートナーを選ぶ人は、トランス女性は対象外と表明せざるをえない。

そのようにしてトランス女性が恋愛やSEXの対象と見なされないことに、トランス女性が傷つくのだとしても、問題の本質は、そのような“表明”をせざるをえない状況を作りだしているイデオロギーやスローガンの側にこそある。

マッチポンプもいいところだ。

https://twitter.com/justkiddddding/status/1114718481407045632

人種Aのaさんがbさんに対して性的関係を拒否する事自体は完全に自由ですが、その理由としてbさんがマイノリティの民族Bであることを挙げたなら、bさんの自尊を毀損する差別になる。逆に、欧米や日本の男性による東南アジア女性への眼差しのように、他者を特定の性的存在として認識することも差別です。

>人種Aのaさんがbさんに対して性的関係を拒否する事自体は完全に自由ですが、その理由としてbさんがマイノリティの民族Bであることを挙げたなら、bさんの自尊を毀損する差別になる。

いかなる過激な民族主義者であるとしても、民族マイノリティを恋愛やSEXの対象に含めないことを「差別」だなどと言ったりしない。よって《その理由としてbさんがマイノリティの民族Bであることを挙げ》るという状況自体が、仮定として成立していない。

>逆に、欧米や日本の男性による東南アジア女性への眼差しのように、他者を特定の性的存在として認識することも差別です。

これも然りである。《他者を特定の性的存在として認識することも差別です。》というのなら、それこそ〈男性〉の異性愛者が〈女性(異性)〉という“属性”を《特定の性的存在として認識すること》も「差別」ということになるはずだ。

繰り返すが、このような異常きわまる言説がトランスジェンダー擁護にかぎって持ち出されるのは、

いかに現行の「トランスジェンダー運動」が、多くの「当事者」の意向や実態から掛け離れた異常なものであるかを示す根拠にしかなっていない。

じつのところトランス女性を性的対象に選ぶかどうかは「政治的正しさ(political correctness)」ではなく性的嗜好(sexual preference)の問題でしかない。

男性異性愛者の中にも「男の娘バー」「ニューハーフヘルス」に通う人がいるのと同じで、個人のセクシュアリティとして否定されるべきではないけれど、人に押しつけるべきでもない。

そもそも特定の“属性”を愛することと、個人としての【その人】を愛することは両立するし、現実に社会はそのようにして成り立っているはずなのに、

どうしてこの人(というか生物学的性別を否定する政治的イデオロギーにかぶれた人たち)の中では両者が排他的な二項対立に設定されているのだろうか。

だいたいさっきも言ったとおり、シスジェンダートランスジェンダーを恋愛やSEXの対象に含めないことが問題視されるのは、

裏を返せばトランス女性(この場合はトランスレズビアン)の側も、自身がトランスジェンダーであろうと恋愛やSEXの相手は身体女性がいいと考えているからだ。

生物学的性別を基準に恋愛やSEXのパートナーを選択することが「差別」と見なされるなら、その批判はまっさきにトランスジェンダーに向けられることになるであろう。

だから少しでも道理のわかる「活動家」は、少なくとも表立ってはそのようなトンデモ思想を口にしたりはしないのだ。

(2021年7月27日 追記)

なお、この2年後、問題の国連ポスターについて@justkidddddingとは異なる解釈で擁護する者が現れた。

ossie.hatenablog.jp

しかし制作者の意図がどうあろうと、@justkidddddingに見たとおり、

それをトランスジェンダーを性的対象(恋愛対象)に含まないことは「差別(トランスフォビア)」である》と解釈した上で、

なおかつそれを支持する者が存在するかぎり、

それが「性的対象(恋愛やSEX)」の問題を想定したものではないといった弁明は、何の意味もなさないのである。

 

《セクシャリティーの可変性・流動性》の下に切り捨てられる「レズビアン」のアイデンティティ(ある「人生相談」によせて)

Twitterに、このような「人生相談」の記事が流れてきた。

【相談】「レズビアンとして31年生きてきたのに、男を好きになりました」でも、セクシャリティに正解はない|生粋のレズビアン?/セクシャリティーは変化する/あなたは間違ってない #LGBTQ
https://twitter.com/lchannel_/status/1085154099912298501

一目見て、嫌な予感がした。レズビアンの「セクシャリティー(この場合は性的指向)」やアイデンティティはじつにセンシティブな問題で、ともすれば後述するとおりレズビアン差別――具体的には《異性愛=男性を愛すること》の要求――の正当化につながりかねないからだ。

おそるおそるリンクを開いてみると――まさに予感的中、模範解答の対極にある“ダメ解答”の見本のような内容であったため、戒めを込めてこうして取り上げることにした。

なお上掲ツイートは「LChannel(@lchannel)」という情報系アカウントのものだが、当該記事が掲載されているのは「恋愛コラムメディア AM」なる外部サイトである。

レズビアンとして31年生きてきたのに、男を好きになりました」でも、セクシャリティに正解はない|肉乃小路ニクヨのニューレディー恋愛駆け込み寺
https://am-our.com/love/510/16085/

今回の相談者は、レズビアンを自認している女性。
31歳まで自分はレズビアンだと思っていたのに、男性を好きになってしまって……!?

当事者であり、年長でもあるニクヨさんが、
自身のセクシャリティの捉え方と経験をふまえ、アドバイスします。

回答者は《当事者であり、年長でもあるニクヨさん》と紹介されているが、「当事者」といってもそのじつ「レズビアン当事者」ではなく、「肉乃小路ニクヨ」なるゲイ男性のライターである。

女性であるレズビアンの「セクシャリティー」に関する相談に、男性であるゲイが答えるという時点で、すでにちぐはぐな印象を受けるし、的確な回答が返ってくるのかと不安になる(ついでにいえば「セクシャリティー」という表記にもデリカシーが感じられない。これはセンスの問題だが……)。

しかしそうした性差の問題を抜きにしても、この回答者の態度はあまりに酷い。

31歳の女性が31年レズビアンだったと言い切る。
この部分に私は違和感を覚えました。
0歳児からレズビアンだったのでしょうか?
私はゲイですが、ゲイだと自覚したのは小学生で初恋をした相手が
転校生の男子だった頃からです。
あなたは随分とおませさんだったんですね。

感じ悪い冒頭ですみません。
ゲイ、レズビアンが先天的なものだという説もあるので、
あなたはそれで自分が生粋のレズビアンだと思っていたのかもしれませんが、
私はそういう風には考えません。

私はLGBTの専門家では無いですし、またその括りにあまり興味がありませんが、
当事者であることは自覚しています。
ゲイ、レズビアンというのはセクシャリティー(性的指向)という
カテゴリーになると思うので、
性的指向や恋愛感情がハッキリとしていないなら
レズビアンでもゲイでも無いのではないでしょうか。

のっけから相談者の「レズビアン当事者」としての実感や心情に寄り添おうともせず、言葉尻を捉えた厭味ったらしい揚げ足取りで、一読して不快きわまりない気分に落とされる。

ようするに回答者は《ゲイ、レズビアンが先天的なものだという説》が気に食わないようだが、そのくせ《私はLGBTの専門家では無いですし、またその括りにあまり興味がありません。》などとあらかじめ逃げを打っておく姑息さも見せる。

おまけに、口語調の文体であるから仕方がない面もあるとはいえ、そもそも文章がめちゃくちゃで性的指向や恋愛感情がハッキリとしていない》《レズビアンでもゲイでも無い》とされているのがいったい誰のことを指しているのかもわからない。

そしてあろうことか回答者は、相談者の「レズビアン」としてのアイデンティティにまでケチをつけるのだ。

あなたのレズビアンというのも性的感情や恋愛感情が芽生えてから
と考えた方が良いのではないでしょうか。
そうするとあなたは別に生粋のレズビアンではありませんね。
そこはハッキリとしておいた方が良いと思ったので、
長々と書いてみました。すみません。

「生粋のレズビアン」という語彙は相談内容にはなく、回答者が付け加えたものであるが、これは「レズビアン」を《真性レズビアン(完ビ=完全レズビアンとも))/仮性レズビアン》に二元化する硬直した発想の受け売りにすぎない。

もっとも人間の性的指向が常に流動するという立場を取るのであれば《真性レズビアン》は存在しえず、すべての「レズビアン」が《仮性レズビアン》ということになる。

しかしレズビアン」の自認・自称が当人のアイデンティティ(主体性)の問題である以上、赤の他人、ましてや男性であるゲイからその“ありよう”についてジャッジ(審判)される筋合いはない。そのような「特権」を、回答者はいったいどこから引っ張り出してきたのか。

もっとも「完ビ」については、その定義は別として、あくまでもレズビアン当事者の《男性を愛さない(愛したくない)》という主体性(アイデンティティ)を表明するものであり、それが他人の「セクシャリティー」の審判ではなく当人の自認・自称にとどまるかぎりにおいては尊重されるべきであろう。

私は今のところゲイ男性という括りですが、
この先もずっとゲイだという風にも思っていません。
歳を重ねるにつれ、人に対する見方や愛し方は変わります。

私も若い頃に比べるとグッと恋愛対象の範囲が広がってきました。
ある程度年齢がいくと歳下はだいたい可愛く見えますし、
同年代から歳上も共感や頼もしさ、年齢を重ねた魅力に目がいきます。
体型も自分が贅沢を言える身体でも無いので、
極端でなければあまりこだわりがありません。
この先もしかすると女性を好きになることもあり得るとすら思っています。

えーっ嘘!?  という声も聞こえて来そうですが、
私がこういう風に考えるようになったのも私が二丁目のミックスバーやクラブで
長年働いて来たからだと思います。
ノンケと言われていた男性が女装とならばSEX出来るというところから始まり、
いつの間にかゲイになっていたということもありましたし、
鬼レズと自らを称していた女性が結婚して子供を産んだりしています。
女性から男性になろうとしていたFTMレズビアンだった女性が
男性としてゲイと付き合うということもありました。

人のセクシャリティーはかくも多様で変動するというのを
間近に見ていると自分を決めつけるのは馬鹿らしいなと思うのです。
それよりもどんな形であれ、当事者達が生き易い社会になれば良いと思うし、
そういう多様性の応援になるのであれば、LGBTの運動も応援しがいがあるなと思うのです。

けっきょくのところ回答者は相談者のアイデンティティにまつわる切実な悩みをダシにして《人のセクシャリティーはかくも多様で変動する》という陳腐な持論をぶちたいだけのようだ。

加えて回答者による一連の回答からは、レズビアン」のアイデンティティを取るに足らない、無価値な(=馬鹿らしい)ものと“決めつけ”て、一方的に切り捨てる傲慢さがありありと伝わってくる。

さもアイデンティティごときに囚われるのではなく自分の「感情」を優先するべきだ、とでも言いたげであるが、それこそ回答者の価値観を押しつけているだけだし、また回答者自身がそうした思考の偏りに無自覚である。

そもLGBTの権利が保障されるべきであるのは、ひとえにそれが「性の自己決定権(人権)」であるためであって、《人のセクシャリティーはかくも多様で変動する》から、などという理由ではない。

換言すれば人間の「人権(性の自己決定権)」とは、まさしく“主体性(アイデンティティ)”の問題に他ならないのだ。

そこへきてセクシャリティー」の可変性・流動性などを至上の価値に置くのは、「人権」の根拠を“主体性”でない他の何かに委ねているという点で、それを“生産性”に求める杉田水脈と本質的に何も変わらない非人間的な発想である。

さてそれを踏まえた上で、性的指向は“変動”する人もいれば、しない人もいる。身も蓋もないけれど、それこそが模範解答である。

ただし、異性愛者であれば“変動”しない場合がほとんどだ。なぜなら同性を愛するように迫られるという動機が存在しないからだ。

一方で同性愛者、とくにレズビアン(女性同性愛者)のセクシュアリティを論じる時にだけ、なぜか性的指向の可変性・流動性が強調される風潮にある。

しかし何をもって性的指向が“変動”したといえるのだろうか。同性間の婚姻が法律で認められていない日本社会において、レズビアンが「レズビアン」としてのアイデンティティを保持したまま男性との結婚を選択するという話はべつに珍しくもなんともない。

そうした社会的・政治的力学の非対称性を考慮しないまま、性的指向の可変性・流動性をあげつらうのは、たとえていうなら飛行機の速度を算出するのに空気抵抗をいっさい想定しないようなもので、現実社会の差別構造を隠蔽・温存する机上の空論にすぎない。

換言すれば回答者は、異性愛至上主義の社会構造をめぐる議論を、観念的な自己啓発の問題に摩り替え、矮小化しているのだ。

加えて「レズビアン」をめぐる議論においては、そも「レズビアン」を“語る”ための言葉・語彙自体にnegativity(否定的コノテーション)が内在するという根源的な問題が横たわっている。下記の記事を参照のこと:

《人を愛さない権利》と「レズビアン」を“語る”ことの困難~「関西クィア映画祭2014」シンパからの反応:@yu_ichikawa編(2)
https://herfinalchapter.hatenablog.com/entry/20141110/p2

そして、いずれにしても相談者のアイデンティティに関する悩みは、そのじつ性的指向の問題とは何の関係もない。

引用は前後するが、相談の内容は以下のとおりである。

【お悩み】
31年間レズビアンとして生きてきました。数ヶ月で終わったことも、何年か続いたこともあります。

男性のカラダに嫌悪感すら持っていた私が、この歳になってまさかと思いましたが、友人だと思っていた旧友男性を好きになっていました。性格が好きで長く一緒に過ごしているうちに、気付けば愛情に変わっていました。彼からの好意も少し感じています。
想いは告げていません。
今まで同性しか好きになったことがなく、周りの目にも苦しみながら恋愛してきました。
なのに今さらなぜという想いで、彼に告白することもなく友人関係を続けています。

もやもやして敢えて知らない男性と肉体関係を持ち、一晩限りを何度か繰り返しました。 最初は、"男はやっぱり無理だ"と悟りたくて寝たのだと思います。
しかし蓋を開けてみれば思ったよりも悪くなく、気持ちがより混乱しています。
彼ともっと近付きたくなってしまいました。 私の周りはレズビアンばかりです。仲間に話しづらく、プライドが邪魔をし、ただ混乱しています。想いを封印するか突き進むか、どちらを選んでも不安を感じます。ご助言ください。
(31歳・女性)

 元より人間は、身体的に健康であれば誰しもがSEXをして快感を得ることができる。これも性的指向の問題ではなく、たんなる生理的反応であって、さらにいえば《性的感情や恋愛感情》も必要ない。

裏を返せば、そのような「可能性基準」の人権解釈に準拠するなら、身体的に健康でSEXが“可能”である女性は「レズビアン」であっても男性とSEXするべきであり、またそのような“可能性”を肯定するかぎりにおいて「レズビアン」に“主体性”が認められることになる。

すなわちこれは「レズビアン」が、その性的主体性(セクシュアル・アイデンティティ)を行使するにあたって条件を課されることを意味する。

しかし言うまでもなく「人権(性の自己決定権)」とは、すべての人に対して無条件に保障されるべき概念であり、よってその行使は他者の「人権」を侵害しないかぎりにおいて、“可能性”に開かれようが開かれまいが無条件に肯定されるべきである。

換言すれば「可能性基準」とは、性的指向の変化の“可能性”に開かれるべきであるとする政治的イデオロギーを「人権(性の自己決定権)」よりも上位に置くという、まさしく《人権侵害》の上にしか成り立ちえない思想なのだ。

加えて、前述のとおり異性愛至上主義を基幹とする現代社会においてレズビアン」は、意識・無意識を問わず《女性は男性を愛さなければならない》という強迫観念から免れることができない。ゆえに相談者のように、意中の人ではない男性と無為な「肉体関係」を持つといった、しばしば第三者からすると不条理で自暴自棄にも思える行動に出る。

だが、このような事例をもって《セクシャリティーの可変性・流動性》の証左とするのは、その背景にある個々の「レズビアン当事者」の生き様も葛藤も切り捨て、そうした自己の政治的イデオロギーの補強に都合の良い“モノ”として扱う行為でしかない。

そも相談の内容を見るかぎり、レズビアンである相談者は意中の男性に“告白”するなど具体的にアプローチしたり、実際に交際しているというわけでもなく、ただ自分の内面の“ゆらぎ”に戸惑っているだけである。

もちろん、人を“好きになる”ことは自由だ。しかし、ただ人を“好きになる”ことと、その人を恋愛ないしSEXのパートナーとして選ぶことは、まったくの別問題だ。

その上で、レズビアンが《男性を愛すること》よりも自身の「レズビアン」としてのアイデンティティや「プライド(あるいは仲間たちとの連帯)」を優先するなら、それについて他人から責められる謂れは何もないのである。

私の感覚からするとあなたは間違っていないと思います。
これが正解ということがないのがセクシャリティーです。
あなたは絶対に間違ってない。

植え付けられた畏れに縛られること無く、手のなる方、
自分で自分を祝福したくなる方に進めば良いのです。
他のレズビアンがあなたを責めたとしても
私はあなたを祝福したいと思います。
大丈夫。幸せになってください。

《あなたは間違っていない》《これが正解ということがないのがセクシャリティー》などと、それ自体は何人も否定しようのない(ゆえにそのじつ何も言っていないに等しい)正論めいたことをのたまいつつ、じつのところ《植え付けられた畏れに縛られること無く、手のなる方、自分で自分を祝福したくなる方に進めば良いのです。他のレズビアンがあなたを責めたとしても私はあなたを祝福したいと思います。》といい、ようするに相談者が「レズビアン」のアイデンティティを捨てて男性に“告白”するという「正解」に誘導しているのである。

そしてそれは一方で相談者が「レズビアン」のアイデンティティを優先し、意中の男性との関係性をこれまでどおり友達にとどめるという主体的な判断を取ることを、暗黙の裡に“間違い”と決めつけている。「性の自己決定権」の根拠を「セクシャリティー」の可変性・流動性に求めるなら、このように必然して人間の“主体性(アイデンティティ)”を否定せざるをえなくなるからだ。

それは一見すると「自由」を謳いながら、そのじつ「セクシャリティー」の可変性・流動性に“開かれない”という選択肢を閉ざしたダブル・バインド(二重拘束)を「レズビアン」に対して仕掛けているのだ。

  • もっとも現実の「レズビアン当事者」の中には上述のとおり「レズビアン」としてのアイデンティティを保持したまま男性との結婚を選択したという人もいるが、いずれにせよ《男性を愛すること》は【男性を愛する人】の問題であって「レズビアン」の問題ではない。
  • またそうした個別の事例とは別に概念としての「レズビアン」は――まさしく「レズビアン」が《男性を愛すること》を要求・期待される社会的・政治的圧力を可視化する上で――有効なのであり、よって性的指向の可変性・流動性を理由に「レズビアン」の存在意義を否定することは不当である。

しかし回答者は「当事者」を自認しながら、相手の男性がゲイないしアセクシュアルである可能性を、なぜ考慮しないのか? 同性愛であれ異性愛であれ、あるいは性別を前提としない恋愛の“形”であれ、恋愛とは相手があってのことなのだから、自分一人の気持ちで先走っても仕方がないだろう。

繰り返すが、性的指向は“変動”する人もいれば、しない人もいる。《変動する》などと“言い切る”のは、それこそ勝手な“決めつけ”でしかない。

問題は、やはりその人が他者とどうありたいか? どのような関係性を築きたいのか? という、まさしく“主体性(アイデンティティ)”の問題に他ならない。

人を“好きになった”からといって、かならずしもその人に“告白”しなければならない、「SEX」をしなければならない、「結婚」をしなければならない、その人の子供を産んで育てなければならない――などといちいち思い詰めてしまっては、恋愛も人生も「不自由」になるだけではないか。

性的指向や恋愛感情(性欲)は、時として当人でも制御できない場合がある。しかし他者との望ましい関係性は、自らが主体となって築いていくことができるし、またそうしなければならない。

一時の「感情」に振り回され、その都度、築き上げてきた人間関係を破壊していくような非建設的な生き方は、回答者が自分で実践するぶんには勝手にすればいいし知ったことではない。が、相談者の心の弱みにつけこんで偏向した政治的イデオロギーをすりこんでいくような自己啓発セミナーまがいの真似は慎むべきであろう。

  • あらためて強調するのも馬鹿馬鹿しいことだが、かならずしも一定の文章読解力を有する読者の目にだけ留まるわけではないだろうから注意しておく。私はなにも、相談者が「レズビアン」としてのアイデンティティを貫くべきだとか男性に“告白”するべきではないなどと言っているわけではない。
  • ただ私は「レズビアン」のアイデンティティが、かくのごとくあまりにも無下に扱われすぎている現状に違和感を抱き、またそのようなあからさまに偏向した――あまりに偏向していて、当人でさえその偏りに無自覚なほどに――政治的イデオロギーに根差した内容の言説があたかも「模範解答」であるかのとごく“拡散”されている風潮に疑義を呈すべく、あえて真逆の見方を提示したまでである。

 

 

婚活メディアで「男とセックス出来るレズビアン」を自己アピールする某女性ライターの責任と“特権性” #ちょうどいいブスのススメ #人生が楽しくなる幸せの法則

(2019年2月2日 加筆修正)

女性芸人・山崎ケイの著作をTVドラマ化した『ちょうどいいブスのススメ』が、すでに放映前から炎上(その結果、放映前の時点で『人生が楽しくなる幸せの法則』に改題が決定)している最中。

とある婚活系の女性メディアに掲載された、毒親育ち・既婚・レズビアンフェミニストミサンドリー(男嫌い)・元ビッチ・オタク・百合好き・ADHD・婦人科系疾患治療中で妊活中》なる肩書の女性ライターが当該ドラマの企画を酷評した内容の記事が流れてきた。

なお、以下に当該の女性ライターの提唱する「観念」について批判的な議論を展開するが、以下の理由により、本稿においてはあえて名前を伏せることにする:

  • じつのところ“そのような「観念」が存在すること(ならびにそれをこうして取り上げること)”自体が「レズビアン」に対する誤解や偏見を助長しかねない(ほどの悪質さを内包している)。
  • 現時点では世間的にまったく無名の人物であるが、やはりこうして取り上げることによって注目を浴び、不相応な影響力をもってしまう可能性がある。

近い将来、当該の女性ライターが牧村朝子氏並の知名度をもつようになったら名指しで批判するようになるかもしれない。

また当該メディアは《今を生きる女性に、表面的なモテテク、婚活や「世の中に押しつけられた女性像や常識」に縛られない自由な選択肢を提案》すると謳っているものの、その運営基盤は「結婚支援事業」を中心としたサービスを女性ユーザーに“提供”する株式会社であること。加えて当該の女性ライターがまさしく「婚活」に特化した情報を発信していることから、本稿においては便宜上「婚活メディア」と称することにする。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000052.000018971.html

女性ライターは、当該メディアにおいて「レズビアン」である自身が女性との恋愛に“疲弊”し、男性との「法律婚」「友情婚」を選択した経緯について連載している。

https://am-our.com/marriage/539/15293/?p=2
 一口に「恋愛対象が女性」と言っても様々なグラデーションがありますが、私は「心が恋愛として求めるのは女性、セックスは男女どっちとも出来る」という感じ。なのでよく「男とセックス出来るレズビアン」と名乗っていました。セクシャリティで言うならバイセクシュアルに分類されると思います(セクシュアリティは誰にも侵されない、あくまでも自分で決めるものだと思うのですが、往々にして「はぁ?男とセックス出来るならビアンじゃなくてバイでしょ(怒)」みたいな主張を押し付けられることがあるのです。もっと自由であれ~)。

そも《女性は男性と結婚すべきである》というジェンダー規範に囚われている時点で「不自由」きわまりないように思えるが、それはさておき現実の「レズビアン当事者」のありようはたしかに多様で複雑だ。

レズビアン」はしばしば性的指向(セクシュアル・オリエンテーション)と混同される。しかしじつのところ、それは「セクシュアル・アイデンティティ(性的主体性)」として位置づけられるべき概念である。

よってこのことから女性ライターのように実際の性的指向は「バイセクシュアル」であっても、性的指向にはグラデーションがあるため、その比率によっては女性の方が好きだから「レズビアン」を名乗るという人も少なからず存在する。性的主体性(セクシュアル・アイデンティティ)の観点からすれば、そのような「当事者」のありようも尊重されるべきであることは言うまでもない。

だが同時に、そのような「当事者」のありようが「レズビアン」に対して《男性を愛すること》を要求・期待する「SOGIハラ」の正当化に利用されかねないことについても、じゅうぶん注意が必要だ。

  • むろん、この場合の“愛する”にはセックスや結婚の可能性も含まれる。
  • じつのところセックスも結婚も、恋愛感情(あるいは性欲)がなくても物理的ないし法律的に成立するけれど、後述するとおり議論の本質はそうした個別の事例ではなく、異性愛至上主義社会の構造を読み解くことにある。

連載を通してうかがい知れるのは、女性ライターがそのじつ「レズビアン当事者」のコミュニティの中に居場所がなく、孤立しているのではないかということである。

異性愛至上主義を基幹とする現代社会。「レズビアン」が《男性(異性)を愛さないこと》を理由に迫害され、《男性(異性)を愛すること》を要求・期待されている実情がある中で「男とセックス出来るレズビアン」などと声高に主張すれば、他の「レズビアン当事者」から顰蹙を買うのは当然であろう。レズビアン・コミュニティの排他性や閉鎖性をあげつらう声も聞かれるが、レズビアン・コミュニティがそのような排他性・閉鎖性を獲得しなければならなかった社会的・政治的経緯について何ら考慮しないまま、上から目線で杓子定規の「政治的正しさ」を“押し付ける”のは、それこそセクシュアル・マイノリティに対するパターナリズム以外の何物でもない。

もっとも、性的指向性自認に関わらず身体的に健康であれば誰もが《男とセックスする》ことは“出来る(物理的に可能である)”だろう。しかしここで問われるべきなのは、そうした“可能性”ではなく、当人がどのようにありたいかという“主体性(アイデンティティ)”であるはずだ。

言い換えるならレズビアン」が《男とセックス出来ない》ことが「不自由」なのではなく、《男とセックスしない》という“主体性(アイデンティティ)”が否定されていることこそが「不自由」なのである。

元より《男とセックス出来る》ことは男とセックスする人の問題であって「レズビアン」の問題ではない。よって「男とセックス出来るレズビアン」などと、「レズビアン」を《男とセックス出来る》か否かによって分類・分断する議論は前提からして破綻していと言わざるをえない。

概念の定義を議論するにあたって、個別の事例を持ち出すのは詭弁であるし、その逆も然りだ。個別の「当事者」の事例がどうあれ「レズビアン」という概念自体は《男性を愛さない女性》というセクシュアリティ(性のありよう)を可視化するために存在する。そこへきて《男とセックス出来る》ことを「レズビアン」の定義に包括するなら、そのような概念定義(の曲解)を通して「レズビアン」が《男性とセックス出来る》ことを要求・期待される事態となる。

実際、女性ライターは「フェミニスト」の立場から「ちょうどいいブス」というキャッチコピーの根底にある「ミソジニー(女性蔑視)」については「最悪でクソ」「黙れクソ」「クソみたい」「クソミソジニー」「ゲンナリ」「はぁ?????」などの語彙を駆使して強烈に“DISる”一方で、《レズビアン差別》の問題については「レズビアン当事者」の立場から言及すらしない。

婚活メディアを利用する女性は多くが異性愛者であることから《レズビアン差別》の話題は読者の関心を惹かないものと思われる。しかし、だとすれば女性ライターが女性異性愛者向けの婚活メディアに連載するコラムであえて「レズビアン」を自己アピールする必要もないはずだ。

それをわざわざ強調するのはレズビアン(非異性愛者)」が〈男性(異性)〉とセックスや結婚をするという意外性によって“キャラが立つ”と判断しているためだろう。上掲引用箇所に見たとおり、率直に言ってライターとしての技量は低く、セクシュアリティ以外に注目を集める要素が皆無であることは当人がいちばんよくわかっているのかもしれない。

たとえば同一の論旨で『ちょうどいいブスのススメ』批判を展開した他媒体の記事と比較すれば文章力や情報量、見識の差は歴然である:

「ちょうどいいブス」は処世術だが女性蔑視でもあり、呪いでもある|WEZZY
https://wezz-y.com/archives/62013

繰り返すが、いかなる「レズビアン」のあり方であってもそれ自体は否定されるべきではない。「男とセックス出来るレズビアン」が《レズビアン差別》に利用されるのは、あくまでも「男とセックス出来るレズビアン」を《レズビアン差別》に利用する者の問題であり、個々の「当事者」に責任はない、と言われればそれまでだ。

だが、その論法に倣うなら、まったく同じ理屈で「ちょうどいいブス」も肯定されてしまう。「ちょうどいいブス」が「ミソジニー」に利用されるのは、あくまでも「ちょうどいいブス」を「ミソジニー」に利用する者の問題であり、「ちょうどいいブス」を目指す山崎ケイに責任はない、と。

しかしここでいう問題の本質は、「ちょうどいいブス」や「男とセックス出来るレズビアン」といった自己実現にあるのではなく、そのような観念・表象をマスメディアの上で提唱する者の社会的・政治的責任こそが、まさしく問われているのではないだろうか。

性的指向アイデンティティに関わらず、すべての女性に《男性(異性)を愛すること》ことが規範化されている異性愛至上主義社会においては、レズビアン」であっても《男とセックス出来る女》こそが「正しいレズビアン」と見なされる。ゆえに同じ「レズビアン当事者」の中でも「男とセックス出来るレズビアン」は、〈男性(異性)〉とのセックスを望まない「レズビアン」と対等ではありえない。

むろん女性ライターは、他の「レズビアン」のありようを見下したり否定したりするつもりはないと言い張るだろう。だが、そのようにして自己の社会的・政治的特権性に無自覚・無頓着でいられること自体が「特権」に他ならない。

げんに「レズビアン」が《男性を愛さないこと》を理由として迫害や蔑視に晒されている状況下で「男とセックス出来るレズビアン」という“キャッチコピー”が社会的・政治的にどのような意味をもつか、メディアに携わる者は自覚すべきではないか。「当事者」であることは、その免罪符にならないはずだ。

まして女性ライターは、男性との「法律婚」を主体的に選択したことにより、婚姻制度が根源的に内包する社会的・政治的権威性に加担している事実に変わりはない。それにしても、婚姻制度の問題はまさしくフェミニズムのテーマの一つであるのに、「フェミニスト」を自認する女性ライターがその社会性・政治性に何の疑問ももたないばかりか「婚活」の指南までしているのは解せないところだ。

レズビアン」が「性的指向」と同義ではないように、異性愛者」もたんに「性的指向」を表すばかりでなく、異性愛至上主義社会における社会的・政治的な立場性を示す概念である。ゆえに〈男性(異性)〉との「法律婚」を選択することは、いかなるセクシュアル・アイデンティティをもとうと必然して「異性愛者」としての社会的・政治的立場性とそれに伴う特権性を獲得することになるのだ。

  • なお近頃は「クィア理論」の観点から「同性婚」の法制化も婚姻制度の強化につながるとして頭ごなしに否定する論調が幅を利かせている。
  • しかしそのような「クィア主義者」は《同性愛者が同性と結婚すること》については反対する一方で、「レズビアン(非異性愛者)」が〈男性(異性)〉との「法律婚(異性婚)」を選択した場合については何ら批判しないどころか「性的指向」の可変性・流動性を示す“生き証人”として持て囃すのである。
  • こうしたダブル・スタンダードは「クィア運動」の本質が、そのじつヘテロセクシズム(異性愛至上主義)が形を変えたバイセクシズム(両性愛至上主義)にすぎない事実を端的に物語っている。

私は別に、女性ライターに「『男とセックス出来るレズビアン』という生き方は間違っているから改めろ」と言うつもりはない。彼女自身が自己実現として「男とセックス出来るレズビアン」を自分ひとりで勝手に目指すだけならどうぞ好きにしたら、と思うだけだ。

しかしそれを、あたかも良いことのように「これが正しい『レズビアン』の生き方」と言わんばかりに提唱されると、ちょっと待てと言いたくなるのだ。

SOGIハラは笑えないし、「異性愛者」に「レズビアン」のセクシュアリティをジャッジする権利はないという声を上げる人が少しずつ増えてきているとはいえ、まだまだ世の中は「異性愛者」優位で、息をするように《レズビアン差別》をする人が多くいる。

そんな世の中で「男とセックス出来るレズビアン」のようなものが持ち上げられたら、「やっぱり『異性愛者』にとって都合よく生きるのが『レズビアン』の処世術なんだな」と思ってしまう「レズビアン当事者」や、ヘテロセクシズム(異性愛至上主義)の呪いに傷つけられる「レズビアン当事者」が出てくることは自明だ。

あと何より面倒くさいのが「『男とセックス出来るレズビアン』を目指せる『レズビアン当事者』って分かってるよな」「『男とセックス出来る』って他でもない『レズビアン当事者』が言ってるんだから」というクソみたいな言い訳をクソみたいな差別主義者(異性愛至上主義者)に与えてしまう可能性がある。ていうか既に鬼の首でもとったみたいこういうこと言ってるやつ、山ほどいると思うけど。 

元ネタはこちら:
https://am-our.com/marriage/539/16024/?p=2

私は別に、山﨑ケイに「ちょうどいいブスという考え方は間違っているから改めろ」なんて言うつもりはありません。彼女自身が処世術として「ちょうどいいブス」を自分ひとりで勝手に目指すだけならどうぞ好きにしたら、と思うだけです。

しかしそれを、あたかも良いことのように「これが賢い女の生き方」と言わんばかりに提唱されると、ちょっと待てと言いたくなるのです。

容姿いじりは笑えないし、男性に女性の容姿をジャッジする権利はないという声を上げる人が少しずつ増えてきているとはいえ、まだまだ世の中は男性優位で、息をするように女性差別をする人が多くいます。

そんな世の中で「ちょうどいいブス」のようなものが持ち上げられたら、「やっぱり男性にとって都合よく生きるのが女性の処世術なんだな」と思ってしまう女性や、ルッキズムの呪いに傷つけられる女性が出てくるかもしれません。

あと何より面倒くさいのが「“ちょうどいいブス”を目指せる女って分かってるよな」「“ちょうどいいブスを目指せ”って他でもない女が言ってるんだから」というクソみたいな言い訳をクソみたいな男に与えてしまう可能性があります。ていうか既に鬼の首でもとったみたいこういうこと言ってるやつ、山ほどいると思うけど。

 

 

 

#新潮45 「差別者」に“対話”“理解”を求めるべきと主張する作詞家・小室みつ子(miccorina)氏との議論をインタビュー形式でまとめてみた。 #杉田水脈 #小川榮太郎

(2018年12月8日 加筆修正)

新潮社「新潮45」2018年8月号に掲載された、自由民主党議員・杉田水脈のLGBTに対するヘイトスピーチ(以下「杉田事件」)。そして同誌10月号に掲載された自称「文藝評論家」小川榮太郎による、杉田擁護にかこつけたさらなるヘイトスピーチ(以下「小川事件」)が、その内容の深刻さと常軌を逸した醜悪さによって大きな波紋を呼び、同誌を休刊にまで追いやったのは周知のとおりです。

そんな最中、Get Wild』『SEVEN DAYS WAR』などTMネットワーク(およびTMN)の代表曲を含む歌詞の大半を手掛けたことで知られる、作詞家の小室みつ子氏(@miccorina)が、「杉田事件」および「小川事件」をめぐる一連の「論争」についての見解をTwitter上で表明しました。

しかし氏の主張は、要約すると「非当事者」が「当事者」を“置き去り”にして「差別者」を“罵って”いる(ように小室みつ子氏には見えるらしい)、“罵り”ではなく“対話”“理解”を求めるべきである、といった(事実認識からして履き違えている)薄っぺらで偽善的な「どっちもどっち論」であり、首をかしげざるをえないものでした。

氏の主張の内容に疑問を抱いた私が、氏のツイートを引用する形でリプライをしたところ、即座に小室氏よりリプライがあり、議論が展開されました。

その結果、私自身も「当事者」の【小さな声たち】を“置き去り”にして「自身の掲げる主義主張」や「正義を主張する」ために「当事者たち」を利用する「差別者」である、とのレッテルを貼られてしまいました。

ここで私自身の名誉を回復する意味も込めまして、また何よりも差別問題をめぐる「非当事者」のあり方を考える上で、小室みつ子氏と私のリプライをインタビュー形式でまとめてみたいと思います。インタビュー中に引用したツイートのURLは省略しました。必要な方は当方のTwilogから当日のツイートを辿ってください。

当日のTwilog
https://twilog.org/herfinalchapter/date-180924 

(「杉田事件」直後の2019年7月に投稿された小室みつ子氏のツイート)

あまり具体的に触れたいとは思わなかったけど、長年の友でもあり、ゲイでもある人を通じて垣間見る世界。皆それぞれ違う。カミングアウトしたくない人もいる。好きな人と法律的にもパートナーとして認められたいと思う人もいる。 理解がない人を「差別者」として罵ることで彼らが生きやすくなるのかな
https://twitter.com/miccorina/status/1022006010507079680

どんな運動にも言えることだけど、生き方を決めるのは当事者。 理解が足りない故に言葉の選び方を間違える、そういう人たちに理解をしてもらうのは罵りではないと思うのですが…。余計にLGBTへの反発が強まる恐れさえあるのではと危惧します。 法律整備は私は賛成です。選択肢があるだけでも違う。
https://twitter.com/miccorina/status/1022007397156573184

これは典型的な論理の摩り替え。杉田水脈ならびに小川榮太郎ヘイトスピーチ(さらにはそれらを無批判に掲載した「新潮45」)に抗議している人々は、ただヘイトスピーチをやめろ」と言っているだけであって、LGBTを“理解”しろなどとは言っていません。

そも「非当事者」がLGBTを“理解”してあげるという発想自体が傲慢ですし、また“理解”できなければ「差別」をするという短絡的な発想もさらに間違っています。

いまさら言うまでもありませんが、LGBTに対する偏見は、100%偏見をもつ側の問題です(さらに言えば、偏見がおうおうにして無理解に根差しているからといって、“理解”をすれば偏見がなくなるという単純な話でもない)。それなのに小室みつ子氏は、なぜ偏見そのものを批判せず、偏見を批判する側にばかり責任転嫁するのでしょうか?

元より、公の場でヘイトスピーチ(差別煽動表現)を放言する人物を「差別者」と呼ぶことは、適切な人物評であり、なぜそれが“罵り”になるのでしょうか? そのようなものは小室みつ子氏の勝手な印象にすぎないでしょう。
 
たしかにヘイトスピーチに抗議する人々の中には、過激な表現をする人も含まれているかもしれません。しかし、そのような一部分だけを取り出して抗議活動全体をあげつらうのは、「差別」に抗議する人々に対して聖人君子のような振る舞い(過度な潔癖さ)を要求することになります。裏を返せば「差別者」の側は「被差別者」の粗探しをすることで、「差別」に対する告発・批判を一方的に無効化し続けることができるのです。

こうした小室みつ子氏のアンフェアな議論は「差別」に対する抗議活動を萎縮させ、実質的に「差別者」を利するものでしかありません。 

(2019年9月「杉田事件」と「小川事件」を総括する小室みつ子氏のツイート)

自分のこの投稿(註:上掲の「杉田事件」関連ツイート)をRTをしましたが、書いたのは7月です。ほぼ同じ趣旨の投稿があってそれをRTしたので、私も同じように思っていたので…。 当事者それぞれの気持ちが置き去りにされて「善意」の異性愛者たちが誰かを罵倒する不思議…。
https://twitter.com/miccorina/status/1043887846182907904

最近SNS疲れしています; 延々と続く論争。納得できるところは歩み寄る、互いを尊重して意見として耳を傾ける。それをする方たちを見るとホッとしますが、意見が違う相手をただ罵るだけの投稿を見ると、それで何が変わるのだろう…ずっとこれが続くのかな…と思って見るのをやめることが多いです。
https://twitter.com/miccorina/status/1043890411188580352

当事者たちの、それぞれに違う小さな声を拾う人は少ない。私も全て見ているわけではない。私自身が異性愛者だから当事者それぞれを理解できるわけでもない。小さな声たちに耳を傾ける発言力のある方たちに密かに期待するのみです。
https://twitter.com/miccorina/status/1043891167488700416

あらためて読み返すと、興味深いことに気がつきました。

小室みつ子氏の態度は、まさしく《小さな声たちに耳を傾ける発言力のある方たちに密かに期待するのみであり、小室みつ子氏自らが言葉のプロとして「小さな声たちに耳を傾け」た上で「それぞれに違う小さな声」とやらを主体的に“発言”するつもりなどさらさらない(もっとも、そのような試み自体が良いか悪いかは別として)ということです。

ようは、どこまでも他人任せの他力本願。ふわふわとした薄っぺらなポエムを垂れ流しながら、自分自身は「差別」の抑止に向けて何もせず、ただ「差別者を“罵る”人」を高みから見下して一方的かつ一面的に論評する、小室みつ子の無責任で不誠実な姿勢が、冒頭から如実に示されています。

* * *

聞き手:百合魔王オッシー(@herfinalchapter)

――杉田水脈氏ならびに小川榮太郎氏のヘイトスピーチを読んだ上で、こういった皮相な感想しか出てこないということは、けっきょくのところ「異性愛者」「非当事者」である小室みつ子氏がヘイトスピーチの被害を“他人事”として過小評価しているからだと思いますよ。

小室 他人事と思うのなら別に言及しません…。

――同性愛を「生産性」がないと決めつけた上で「痴漢」のような性犯罪と同一視する「意見」の、いったいどこに“尊重して”“耳を傾ける”べき要素があるのでしょうか?

小室:そういう人の考え方を変えるにはどうすればいいのか、その先のことを考えて書いています。LGBT当事者である方たちの意見もRTしたのですが(引用者註:後述)、その方たちのご意見も読んでくださるとありがたいです。

――同性愛を“理解”できなくてもヘイトスピーチの問題は“理解”できませんか? 小室みつ子氏はご自身を「異性愛者(非当事者)」の安全圏に置いた上でヘイトスピーチを放置する言い訳をしているだけに見えますね。

小室 飛躍がすごいですね。私の過去のツィートを読んでいただけたら幸いです。

――同性愛を“理解”できないことと、マイノリティに対してヘイトスピーチという言葉の暴力をぶつけることは全く違います。《生き方を決めるのは当事者》とおっしゃいますが、「非当事者」である貴方がご自身を棚上げして上から物を言うのも“違う”のではないですか?

小室 (質問に答えず)何故私にだけリプライするのですか? 当事者の方たちのRTをしているのに、その方たちには同じリプライはなさらない? 私が異性愛者だからですか。 私は長年の友である人、そして彼の恋人や友達が生きやすくなることを願っています。それだけです。

  • これにはすっかり面喰ってしまいました。小室みつ子氏が「当事者」をダシにしておかしなことを言っているのだから、その反論は「当事者」ではなく小室みつ子氏に向かうのが当然だと思うのですが……?
  • 小室みつ子氏自身が異性愛者」としての“非当事者性”を強調した持論を展開しておきながら、都合が悪くなると「当事者」に責任転嫁するというのは、あまりに無責任なのでは?

小室 すみませんが、当事者たちはあなたにとって何なんでしょう? ご自身の掲げる主義主張のための存在に思えてきます…。私は非当事者ですがLGBTが世間から反発を受けることなく、当事者が居心地の悪い思いをしないで自然に浸透することを望んでいるから言及しました。

  • 「当事者たちはあなたにとって何なんでしょう?」このような質問には、どう答えれば納得するのでしょうか。そも私は初めからヘイトスピーチについて議論しているのであり、「当事者たち(この場合はLGBT)」については何も言っていません。よって「何なんでしょう?」と訊かれても、答えようがありません。
  • だいたいヘイトスピーチに抗議するにあたって、私個人がLGBTについてどう思うのかなど何の関係もありませんし、ましてや見ず知らずの小室みつ子氏に私の内面を詮索される筋合いもありません。

――同性愛を“理解”できない人はたくさんいるでしょうが、そういった人々のすべてがヘイトスピーチをするわけではありません。
 ヘイトスピーチをする人がいるのは、まさにヘイトスピーチが許される風潮が社会にあるからで、小室みつ子氏の言説がそれに加担しかねないことを危惧しています。
 そして杉田氏や小川氏に抗議する「異性愛者」は「当事者」を代弁したいわけはなく、ヘイトスピーチを許容しないという意志を社会に表明しているのですよ。
 言葉のプロである小室みつ子氏の目にはたしかに乱暴で粗削りに映るでしょうが、それこそ言葉尻をとらえず、もう少し寛容になられたらいかがですか?

小室 当事者の代弁ではないのですね? では、当事者のそれぞれの気持ちはどうなるのでしょう。なんなのでしょう…。

――そもそも私の掲げる「主義主張」とは「何なんでしょう」? 私はLGBTの「当事者」に向けて何も要求していませんが。
 むしろ小室みつ子氏こそ《被差別者ないし「差別」に抗議する人は世間から反発を受けるような行動をするべきではない》という“主義主張”を掲げていらっしゃるようにお見受けします。
 「当事者」が「差別者」と対話を求めることが否定されるべきではありません。ただ、小室みつ子氏や私のような「非当事者」の立場から対話だの理解だのを求めるのは、やはり無責任に思えるというだけです。
 また、問題のヘイトスピーチは本当に悪質かつ深刻なものなので「非当事者」でも抗議する人はいますが、抗議活動の中心になっているのはあくまでも「当事者」です。
 それなのに「当事者」が「非当事者」から置き去りにされていると印象付けるのは、「当事者」の“怒り”の主体性を否定することにはなりませんか?

小室 (返答はなし。これにて終了) 

すみません、いろいろツィートしてお騒がせしました; 同じ属性に見えたとしても、個はそれぞれ思いも考え方も違うよね……ってのを伝えたかったのですが。長引いてしまいました。 おやすみなさいー。
https://twitter.com/miccorina/status/1043916814143475713

こんにちは。もうひとつだけ書かせて。 問題になっている当該の雑誌にはゲイ当事者の文章も載っています。だから読んでもらって考えてもらいたいという当事者もいる。 「ゲイを理解してない人やこんな雑誌は潰せ」 これゲイだけの問題じゃないです。焚書のような流れは私達全ての首を締めます。
https://twitter.com/miccorina/status/1044177937379938304

あの議員さんはどうしようもないですが、「謝れ」と言われて謝ったとして、それで世間の理解が深まるのかな…。発言しないけど偏見が深くなる人もいるのではと危惧。
雑誌は個別の方針があるので、それが良くなければ自然に淘汰されるでしょう。炎上については、周りも騒ぎ過ぎのように思えます。
https://twitter.com/miccorina/status/1044219171897131008

「ゲイを理解してない人やこんな雑誌は潰せ」

“潰せ”などという物騒なことは、誰も言っていません。なんだか小室みつ子氏を見ていると、「差別」に抗議する人々に“歩み寄る”“耳を傾ける”どころかその実態についてロクに調査も検証もしないまま、あやふやかつ一面的な印象に基づいたレッテルを貼りつけ、頭の中で勝手にモンスターを作り上げているかのようです

元より杉田水脈氏ならびに小川榮太郎氏のヘイトスピーチに抗議している人々は、たんに掲載誌の休刊・廃刊を要求しているのではありません。そのようなヘイトスピーチが掲載されるに至った経緯を検証した上で、再発防止の手立てを講じてほしいと訴えているのであり、休刊・廃刊自体に反対する人もいます。

その意味でヘイトスピーチに抗議する人々は、新潮社に対して、まさしく小室みつ子氏の言うとおり「個別の方針」“良く”するための働きかけをしているのです。そのような働きかけを、なぜ小室みつ子氏はくだらない難癖をつけて“潰そう”とするのでしょうか?

ヘイトスピーチを掲載する雑誌に「個別の方針」があったところで、それが外部の働きかけを受けず“自然に”良くなることも淘汰されることもありえないのは、「杉田事件」がエスカレートする形で「小川事件」が引き起こされた経緯にも明らかです。

その意味では“騒ぎ過ぎ”どころか、まさしく小室みつ子氏を含めた私たちの「社会」がマスメディア上のヘイトスピーチを放置してきたことのツケが「杉田・小川事件」なのであり、その是正に向けた働きかけを“モンスター化”して妨げる小室みつ子氏は、やはり控えめに言っても「差別者」の加担者に他なりません。 

いえ、城戸さんが申し訳なく思うことなど全くないです; 私が誰とかも関係ないと思います。彼にとっての正義を主張したかったんだと思います。私はその方法に同意できなかったですが…。それだけです。こちらこそ、お気遣いまでさせてしまい、すみません。
https://twitter.com/miccorina/status/1044223218557444096

「私にとっての正義」とは、それこそ「何なんでしょう?」。有名な作詞家の先生が、社会問題について基礎的な知識もなく頓珍漢な持論をぶっているのがたまたま目に入ったから、あまりにも痛々しくてつい突っ込みを入れてしまっただけなのですが……。

それにしても《私自身が異性愛者だから当事者それぞれを理解できるわけでもない。》ということは、ようするに「異性愛者(非当事者)」である小室みつ子氏自身に「差別者」と“対話”する意思はなく、「当事者」に対して「差別者」との“対話”を要求することになるのでしょう。

しかしそれはけっきょくのところ「非当事者(異性愛者)」が安全圏から「当事者(LGBT)」を「差別者」の矢面に立たせることを意味します。なんとも身勝手で無責任な話です。

また、小室みつ子氏によれば「非当事者」が「差別者」を“罵る”ことで、LGBTが《世間から反発を受け》《居心地の悪い思い》をするとのことです。

一見もっともらしいようですが、そのじつ筋が通っていません。

「非当事者」が「差別者」を“罵る”ことで、「非当事者」が《世間から反発を受け》《居心地の悪い思い》をするならわかります。しかし、なぜ「非当事者」の代わりに「当事者」が《世間から反発を受け》《居心地の悪い思い》をすることになるのでしょうか?

それはけっきょくのところ「差別者」が「非当事者」をダシにして「差別」を正当化する言い訳をしているだけです。

仮に「差別者」を“罵る”ことで「当事者」が《世間から反発を受け》《居心地の悪い思い》をするのだとすれば、「当事者」が「差別者」を“罵る”ことは、もっとダメでしょう。だって「非当事者」よりも「当事者」が“罵る”ことのほうが「当事者」のマイナスイメージにつながるのだから。

つまり「差別」に対しての抗議活動をめぐる議論の中で「当事者/非当事者」の枠組みを持ち出すことは、たんに抗議活動を萎縮させる以外に、何の意味もないことにになります。

小室みつ子氏は、そのようにして「当事者/非当事者」の枠組みを恣意的に持ち出しながら、けっきょくは「当事者」による《表現・言論の自由》に基づいた主体的な抗議活動を「非当事者」の立場から妨げているにすぎません。

小室みつ子氏は、自身が言葉を生業とするプロの表現者でありながら《表現・言論の自由》に不寛容な人物であることが判明しました。

遡ること二十年前、TMネットワーク(TMN)の音楽と「言葉」とともに陰鬱な青春時代をくぐりぬけてきた私としては、あまりに非情で残酷な現実ですが、それもまた小室みつ子氏自身の“主体性”の行使であるというなら、受け止めるほかありません。

* * *

「杉田事件」および「小川事件」をめぐっては、「LGBT法連合会」「レインボー・アクション」など様々な当事者団体が抗議声明を発表していますし、またロバート・キャンベル氏や岡野千代氏など今回の件を機にカミングアウトした知識人もいます。 

杉田水脈議員「LGBTは生産性がない」論文の発表とその反響が(だいたい)わかる参考資料集|レイシズム監視情報保管庫
http://odd-hatch.hatenablog.com/entry/2018/09/25/180025

それなのに小室みつ子氏は、なぜそのような「LGBT当事者」の【声たち】を無視して、あくまでも「差別者」に抗議しているのは「非当事者(異性愛者)」である、という図式を作りたがるのでしょうか? そのような印象操作は事実に反しているどころか、「差別者」に抗議する「LGBT当事者」の当事者性・主体性を否定するものであり、タブロイド的な陰謀論の類と言っても過言ではありません。

《小さな声たちに耳を傾ける》ことは、「非当事者」が自分に都合の良い「当事者」の“声”だけを恣意的に抜き出して、持論の補強に利用することではありません。小室みつ子氏こそ《被差別者ないし「差別」に抗議する人は世間から反発を受けるような行動をするべきではない》という「小室みつ子氏にとっての正義を主張」するために、自分に不都合な「当事者」の【声たち】を“置き去り”にしています。

なおインタビュー中で小室みつ子氏が言及している「LGBT当事者である方たちの意見」とは、具体的にはゲイ作家・伏見憲明氏が主宰するLGBTメディア「A Day In The Life」と、当ブログではすっかりおなじみのバイセクシュアル作家・森奈津子氏によるツイートです。 

(2019年9月「小川事件」を受けて小室みつ子氏がリツイートした「当事者」のツイート)

90年代初頭、ゲイのセクシュアリティ本を出版することは大変だった。伏見の最初の本は、当時、上野千鶴子さんのフェミ本などで当てていた学陽書房へ持っていったのだが、編集者が企画を通すのは難航し、本ができた後でさえ、「えー同性愛!?」てな感じで営業さんにも一部書店さんにも不興を買った。→
https://twitter.com/noriakikoki/status/1043759046677782528

→ ちょっと前までみんな同性愛を差別してたからなあ。当事者だってね。自分たちですら自己肯定の言葉を持っていなかったのだから、とくに上の世代の人たちが差別的なのも仕方ないっちゃーしかたない。ここはそういう方々にも問題を共有してもらって、大いに学んでもらうのもいいかと。(伏見憲明
https://twitter.com/noriakikoki/status/1043762969551618048

たぶん、意識高い系ヘテロの方々でも、10年前とか20年前とかには、性的マイノリティを差別してたんだと思うよ。だって我々、嘲笑してOKの「変態」「犯罪者予備軍」扱いだったもん。で、意識高いだけに、そんな自分の「黒歴史」が許せなくて、今、過剰なまでに「新潮45」を叩いているんだと思うよ。
https://twitter.com/MORI_Natsuko/status/1043817023476625409

LGBT当事者が「新潮45をちゃんと読んでから批判してほしい。中には、我々を理解するためにも読んでほしい記事がある」と主張しても、読んでない異性愛者から叩きリプが来るぐらいだもの。もはや集団ヒステリーの域に入りつつあると思うよ。彼ら、三週間後ぐらいにハッと我に返るんじゃないかな。
https://twitter.com/MORI_Natsuko/status/1043818410566594560

「A Day In The Life」こと伏見憲明氏は(引用された箇所にかぎっては)ともかく、森奈津子氏にいたっては相も変わらず独善的な思い込みと被害妄想に根差した“下衆の勘繰り”でしかありません。

数ある「LGBT当事者である方たちの意見」の中から、なぜ「非当事者(異性愛者)」である小室みつ子氏が、わざわざそのような人物の「ご意見」を選り抜いて引用するのか? それこそ《ご自身の掲げる主義主張のため》に都合の良い「当事者の方たち」を利用しているだけでしょう。

《同じ属性に見えたとしても、個はそれぞれ思いも考え方も違う》というのであれば、「非当事者」としてすべきことは自分に都合の良い「当事者(個)」の言い分だけを鵜呑みにしたり利用したりするのではなく、「それぞれ」の言い分を検討した上で、やっぱり自分の頭で考えることだと思いますよ。 

<追記>
小室みつ子氏との議論(※上掲Twilog参照)の中で、「非当事者」が「当時者」の運動に口出しすべきではないといった旨の発言をしましたが、これはじつのところ私の本心ではなく、自身に対する批判の矛先を「当事者」に向けようとする小室みつ子氏の無責任かつ不誠実な態度を批判する意図のものでした。
時間をかけて推敲する記事とは異なり、リアルタイムでの対話ではこうした“言葉の綾”が生じる場合があります。が、いずれにしても私自身の「差別」に対する日頃のスタンスと矛盾する発言であるため、上掲インタビューでは削除させていただきました。
この場を借りて、謹んでお断りとお詫びを申し上げます。

 

 

過去の日付の記事をアップしました。

2018年5月12日付で、以下の記事を公開しました。

 『立花館To Lieあんぐる』を「キモい」と言いつつ『聲の形』を推す「まなざしかぶとむし(kabutoyama_taro)」の見苦しさ

https://ossie.hatenablog.jp/entry/2018/05/12/000000

昨日公開した『【 #オタク差別 論争】「百合/BL」は「性的嗜好」であるから規制されるべきと主張する「まなざしかぶとむし(kabutoyama_taro)」 』の続きになります。

 

過去の日付の記事をアップしました。

先日、コミケ前で行われたという山田太郎議員の演説に際して、「BL/百合」の否定・排除は《LGBT差別》とは無関係という意見が目につきます。

そこで、ずいぶん前に書いたものの発表のタイミングを逸してお蔵入り状態になっていた記事を今更アップしました。

今年の4月ごろにTwitterで話題になった「オタク差別」なる言葉をめぐる議論です。

【 #オタク差別 論争】「百合/BL」は「性的嗜好」であるから規制されるべきと主張する「まなざしかぶとむし(kabutoyama_taro)」

https://ossie.hatenablog.jp/entry/2018/08/13/140224

日付は、記事の作成が完了した「2018年4月22日」に設定しました。その後、別の話題の記事を公開し、過去ログに埋もれるような形となってしまいましたので、新規エントリーにて告知させていただきます。

結論からいうと、もちろん“安易な混同”はすべきではありませんが、実際の「BL/百合」に対するバッシングの大半は「同性愛は“キモい”から(マンガの中でも)見たくない」といった単純なホモフォビアに立脚しているので、まったく無関係と断じることもまた“安易”で“粗雑”な切断にすぎないということです。

「BL/百合」バッシングの“大半”がホモフォビアによるもので、じゃあ残りはどうなんだ? というと、もう少し頭の回る人は「現実の同性愛者」は認めるのだとしながら、同性愛者への「性的消費」に反対しているだけだと言い訳します(上掲記事で取り上げた「まなざしかぶとむし(社虫太郎)」もそのタイプ)。でも、それなら異性愛者を「性的消費」するのは構わないのか? という話になるだけなので、やっぱり頭が悪いことに変わりないですね。

 

「男のレズビアン」を擁護する牧村朝子氏の論点ずらし(+百合魔王オッシーの牧村朝子氏に対する所感)

「男のレズビアンをめぐる前回の記事の続きである。

「男のレズビアン」は男性によるレズビアンアイデンティティの簒奪にすぎない

https://ossie.hatenablog.jp/entry/2018/06/10/181110

そも牧村朝子氏が自身のブログで「男のレズビアン」について取り上げたのは、先月の下旬にTwitter上で「男のレズビアン」が話題になったのを受けてのことである(私のTLにも流れてきたが、議論を追っていないので発端はわからない)。

しかし牧村氏の記事は、じつのところ巧妙に論点をずらしている。

記事のタイトルには『胸のうちでそっと「ぼくはレズビアンなのかも」と思う男性たち』とある。だが当然ながら「男のレズビアン」が物議を醸しだしたのは、それを《胸のうちでそっと思う》にとどめず、SNS上で公言する人物が存在したからである。

言い換えるなら「男のレズビアン」なる観念の是非をめぐる議論は、次の二点に集約される。

・「男のレズビアン」なる観念そのものについての是非

・「男のレズビアン」なる観念の社会的認知・承認についての是非

《「男のレズビアン」なる観念そのものについての是非》はさておき《胸のうちでそっと思う》ことまで否定するのは、さすがに内心の自由の侵害であると考える人も多いだろう。しかし前述のとおり内心の自由を認めることは、その思想や嗜好自体の正当性をまったく意味しない。

また上掲した二点はゆるやかに独立しながらも、「男のレズビアン」が社会的認知・承認を得るにあたってはその正当性を証し立てる必要があるのだから、じつのところ論点は一つという見方もできる。

ところが牧村氏は、そこへ《胸のうちでそっと思う》ことの是非というまったく無関係な第三の論点を勝手に持ち出してきた。

言い換えるなら、牧村氏は「男のレズビアン」の不当性を主張する人々が、さも内心の自由まで否定しているかのように印象操作しているのである。

内心の自由をめぐっても是非はあるだろうが、たとえ差別的・暴力的な思想や嗜好であろうと《胸のうちでそっと思う》かぎりは問題ない、というか周りの知ったことではないので勝手にすればいいとする見方が一般的だろう。つまり牧村氏は「男のレズビアン」を擁護するにあたり、そのように否定されようのない事柄を盾にすることで「男のレズビアン」を擁護する牧村氏自身を否定されようのない立場に置き、第三者の批判をあらかじめ退けようとしているのである。

ようするに牧村氏にとって「男のレズビアン」自体の正当性すらそのじつどうでもよく、たんに牧村氏自身の承認欲求を満たすために「男のレズビアン」を“ダシにしている”にすぎないのだ。

このような牧村氏の論点ずらしは「男のレズビアン」に否定的な人々に対してはもちろん、当の「男のレズビアン」にとってもきわめて不誠実と言わざるをえない。なぜならば「男のレズビアン」自体の正当性を証し立てないかぎり「男のレズビアン」は内心の範疇に制限され、社会的な認知・承認まで得ることはありえないからだ。つまり牧村氏の議論は「男のレズビアン」を擁護しているかのように見せかけて、そのじつ当の牧村氏自身の承認欲求を満たすことにしか役に立たない。

男性が「レズビアン」を名乗ること、つまり《胸のうちでそっと思う》にとどめず社会的認知・承認までも要求する行為は、言い換えるならレズビアン女性」に対して、男性である自分を「レズビアン」として認めろ、受け容れろと迫る行為だ。これによって「レズビアン女性」は「男のレズビアン」を受容しないかぎり、「男のレズビアン」を“差別”する差別者として糾弾・恫喝に晒される事態に陥る。

だが本来は女性のジェンダーアイデンティティに基づく概念である「レズビアン」を男性が名乗ることは、まさしく男性によるレズビアンアイデンティティの侵犯であり、簒奪に他ならない。ゆえにそれはけっきょくのところ、男性異性愛者が「レズビアン女性」に性欲を向けることの受容を当の「レズビアン女性」に求めることと本質的に変わらない。

繰り返すが、男性が女性を愛することが「異性愛」である以上、シスジェンダー男性の性自認に基づく「男のレズビアン」が「同性愛者」として“差別”されることなどありえない。つまり「男のレズビアン」なる語義矛盾を肯定するのであれば、同性愛者嫌悪と異性愛至上主義に基づく《レズビアン差別》の構造について告発・批判することが不可能となる。

ゆえに「男のレズビアン」が社会的認知・承認を得たところで「レズビアン女性」の社会的認知・承認には何ら繋がらない。否、それどころかレズビアン」のありようが「異性愛者」に都合良く定義されることにより、ひいては「レズビアン」に対して「男のレズビアン」を含めた〈男性(異性)〉との恋愛ないしSEXを要求・期待する行為が正当化される事態を抑止することもできない。

* * *

さて当ブログではこれまで、上に見たような牧村朝子氏による巧妙かつ陰険な「レズビアン・バッシング」の事例の数々について折に触れて検証してきた。

しかし誤解しないでいただきたいが、私はなにも牧村氏の揚げ足を取るために牧村氏の言動を逐次チェックしているわけではない。牧村氏のマスメディアにおける発言は、Twitter上のリツイート機能で流れてきた記事をたまたま目にするだけであり、そして目にした記事の大半は、まさしく上に見たようなフワフワ・キラキラとした文体を装いながらそのじつ「レズビアン」に対する深刻な蔑視と偏見を撒き散らすものばかり、というのが実情なのだ。

周知のとおり牧村朝子氏は、かつて「レズビアン・タレント」という肩書でマスメディアに登場していた人物である。だが、現在は「レズビアン」と名乗ることをやめている(ついでに芸能事務所も辞めているので「タレント」と呼べるかも微妙である)。牧村氏によると、自分で自分に「レズビアン」などのレッテルを貼ることで、自分自身の可能性を閉ざしてしまうというのがその理由なのだそうだ。レズビアンアイデンティティの獲得を“レッテル貼り”などと決めつけること自体が、まさしく「レズビアン」に対する深刻な蔑視と偏見に他ならないのだけれど、牧村氏がどのようなセクシュアリティをもとうと私の知ったことではない。

翻って私は、ハンドルネームに明らかであるとおり百合作品を嗜好する男性異性愛者である。そのような立場の者が「レズビアン当事者(では現在の牧村氏はないのだが)」の言説を批判することは、男性異性愛者(しかも「百合萌え」)による「レズビアン」へのパターナリズムでありマンスプレイニングである、などと見なされなかねない。

だが牧村氏の一連の言説はいずれも、これまで見てきたとおり(また上掲の記事にも明らかなとおり)印象操作や論点ずらしなどのごく初歩的な詭弁術を駆使したものであり、その論理的誤謬を指摘するにあたって男女の性差を持ち出す必要はないはずだ。

げんに牧村氏自身、「レズビアン」を名乗っていた頃から自分は「レズビアン」である以前に「人間」なのだ、という話をよくしていた。そも「人間」のアイデンティティである「レズビアン」を、わざわざ「人間」と二項対立に置くこともありがちな詭弁であるが、いくらセクシュアリティが自己申告であるとはいえ、自分に都合の良い時だけ「レズビアン」としての当事者性を持ち出すのは論者としての誠実さを自ら貶めるに等しい。

「(元)レズビアン当事者」としての立場から「レズビアン」を論じる牧村氏の言説が、なぜこうも常に“外して”しまうのかといえば、けっきょくのところ牧村氏には《レズビアン差別》を批判するという意識がなく、ただ「(元)タレント」として、マジョリティである異性愛者(非同性愛者)に都合の良い言葉を忖度する習性が身についているためであろう。

そも牧村氏に言わせると、差別主義者を罵倒・嘲笑することは「差別する人たちを差別する」「ホモフォビアフォビア」になるというのだから、もはや《レズビアン差別》を批判する以前の問題であり、むしろ牧村朝子氏は実質的に《レズビアン差別》を容認する立場の人物と捉えて差し支えない。

「差別する人たちを差別する」というレトリック自体の“差別性”〜牧村朝子『百合のリアル』(5)

https://ossie.hatenablog.jp/entry/20140123/p1

だから牧村氏には「レズビアン」の主体性(アイデンティティ)を尊重する意識もなく、「レズビアン」が男性を愛することは“可能”であるかとか、男性が「レズビアン」になることは“可能”であるかといった、じつに非人間的な「可能性基準」の思考に陥ってしまうのである。

いずれにしても牧村氏が「(元)レズビアン当事者」であることを理由に、自身の「レズビアン」に対する蔑視と偏見の告発・批判を免れるのであれば――あるいは私が「百合萌え」の男性異性愛者であることを理由に、牧村氏の言説の差別性に対する告発・批判が無効化されるのであれば、それは《レズビアン差別》を容認する体の良い口実にすぎない。

だから私が牧村朝子氏を批判することが《男性異性愛者(しかも「百合萌え」)による「レズビアン」へのパターナリズムでありマンスプレイニング》であるように見えるとしても、それは錯覚であり皮相な印象批判でしかない。

が、それでも人情として印象が良くなることに越したことはない。そこで、当ブログの人名表記は原則として敬称略であるが、本記事以降、牧村朝子「氏」にかぎっては、例外的に敬称を付けることにした次第である。

追記 以上のとおり、私は「男のレズビアン」に対して否定的な見解をもつ男であるが、その私がTwitter上で「百合魔王」を自称していることについて論理矛盾と捉える向きもあるかもしれない。

しかし、そも「百合」は「レズビアン」を指す言葉ではない。正確にいうと、七〇年代後半にゲイ雑誌『薔薇族』の編集長・伊藤文學が《ゲイ=薔薇族》に対応して作った「レズビアン」の呼称は百合族である。

二一世紀の今日、「百合」という呼称はもっぱらマンガなどのオタク・カルチャーにおいて、女性キャラクター同士の恋愛を描く作品を示すものとして用いられ、新宿二丁目などの「レズビアン当事者」のコミュニティを指す「Lカルチャー」とは一線を画している。げんに百合作品の多くに「レズビアン(のアイデンティティを有する女性)」のキャラクターは登場しない。

また「Lカルチャー」が「レズビアン当事者」の当事者性に根差す文化であるのに対し、「百合」という表現自体は「女性」のジェンダーに立脚しながら、百合作品の作者および消費者は〈男/女〉双方にまたがっていて、明確に“誰のもの”と規定することはできない。

一部では「女性向けの百合」「男性向けの百合」などと線引きしようとする向きもあるけれど、そも百合作家の多くはペンネームを用いており性別すら不明である中で、そのような二項対立的分類は非実際的かつ無効であり、ようは自分の気に食わない「百合」の表現に“男性向け”とレッテルを貼って排除したいというユーザーのエゴイズムにすぎない。

話は逸れたが、いずれにしても「百合」は「レズビアン当事者」の当事者性とは無関係であり、ゆえに“レズビアンのもの”ではない以上、男性である私が「百合魔王」を称することは《レズビアンアイデンティティの簒奪》にはなりえないのである。

「魔王」とは偉そうだ、何様だ、という批判はあろうけれど、ファンタジーやRPGの世界では「魔王」という職業(?)自体が「男性」のジェンダーとして認知されており、男性が「百合魔王」を名乗ることはあくまでも「男の百合萌え」以上の意味をもたないと私は考えている。