百錬ノ鐵

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【後編※ネタバレ有】まさに「クィア・ベイティング」の見本のような『琴崎さんがみてる』は異性愛至上主義の下に「百合」を貶める“男尊女卑”ラブコメディだ! #琴崎さんがみてる

これまでのおさらい。

YouTubeで公開されていた百合アニメ『琴崎さんがみてる』は、その小説化にあたり、主人公が「百合」を愛でる女性(琴崎入愛=イリア)から、その女性に恋愛感情を抱く男性(新堂瑛人)に変更されたことで、百合コンテンツのユーザーから猛烈な批判を浴びた。

その後、原作者・弘前龍は『百合ナビ』および自身のTwitter上で釈明を行うも、火に油を注ぐ結果となった。

じじつ発売前に版元の公式ページ上で公開された「試し読み(作品の序盤部分)」を読めば、その内容は男性異性愛者の作家による無自覚の異性愛至上主義と男尊女卑に根ざした、むしろ「百合」の世界観を全否定するに等しい代物である事実が判明する。

当ブログでは、これまで3回にわたり、公式ページの「試し読み」や宣伝文、YouTubeのプロモーション・ビデオ、原作者の発言など、発売前の時点で入手できた情報にもとづいて、作品の問題点を検証してきた。

そして発売日の10月8日。いよいよ明らかになったその全貌とは――

【琴崎さん】は男性主人公と「恋人」にはならないまでも「両想い」にはなり、将来的にはやはり「恋人」になることを暗示してエンド。

結論としては上掲ツイートのとおりだが、より詳しく補足する。

そも【琴崎さん】が「男性に対するトラウマ」を抱える原因となったのは、過去に自身の父親の浮気現場を目撃したからであった。

これを機に《男女の性的な営みと、それに類するものについて明確に忌避するようになった》という【琴崎さん】は、自身が恋愛をすること――作中の表現に倣えば「当事者」になることも同様に“忌避”する一方で、他の女性同士の恋愛を覗き見るという性癖に“よりいっそうのめりこむように”なる。

「わたくし……恋などいたしません」

「男女の恋だとか愛だとか……そのような汚いものは必要ありません」

「わたくしには清らかで美しい百合の花々と、そして瑛人さんがいてくれれば……それだけでいいんです」

ところが「百合」という共通の趣味を通して【瑛人】と行動を共にするうちに、いつしか男性である彼に対して恋愛感情を抱いている自分に気がつき始める。

それが決定的となったのは、【瑛人】がふいに他の女子からキスをされた事件。

「ええ……たった今、気がついてしまいました。自らの心の在り様を懸命に探っていたら、それを見つけてしまいました。わたくしの胸がこのように痛んでいるのは……」

「――瑛人さんが、あの行いの相手だったからなのです」

やがて物語の最後、いよいよ【琴崎さん】の方から【瑛人】に愛を告白する。

「あの、瑛人さんを見ていると……何だか顔が熱くなって胸がそわそわとするんです」

「それだけではなくて瑛人さんの傍から離れると動機息切れがして、何だか落ち着かない心地になって……ですからできる限り近くにいようと思ってこうしてお袖を拝借させていただいているのですが……」

「ですが間近で瑛人さんのお顔を目にしたら、それはそれで何だか急に気恥ずかしいような、そうしているのが照れくさいような妙な心持ちになってきてしまって……どうしてしまったのでしょう……? 今まではこんなことはなかったですのに……」

執拗に迫ってくるビッチ系ギャルの【獅子内マナ】に対しては「たとえ触ったりできなくても、そういう欲求を充足できなくても、俺は琴崎さんの隣にいるって決めたんだ。キラキラした、心と心の繋がりを大切にするって」と殊勝に宣言していた【瑛人】は、

しばしの戸惑いを見せながらも、けっきょくは据え膳食わぬは男の恥とばかりに【琴崎さん】の求愛を受けるのであった。

 いずれにせよ、今はまだ突き詰めるべき段階じゃない。

 琴崎さんの今の状態は、花にたとえたらそれこそつぼみどころかようやく双葉が生えてきた新芽のようなものだ。まだまだ発展途上もいいところ……なのだと思う。

 とはいえその反応が嬉しいものであることもまた事実であり……

「あの、もしお邪魔なようでしたら控えますが……」

「! い、いや、邪魔なんてそんなことはぜんぜんないって!」

「そう……なのですか?」

「う、うん。そうしてくれると俺としてもめちゃくちゃ嬉しいっていうか、むしろいつでもウェルカムっていうか……」

「……?」

 ああ、うん、自分でも何を言っているのかよくわからない。

 琴崎さんの前だと常にこんな感じだ。

 だけど琴崎さんと過ごすそういった予測不能で刺激的な毎日が意外と気に入っていたりもする。

 そんな俺の顔を、

 ――琴崎さんは、不思議そうな目でみていたのだった。

end

言わずと知れた元ネタである百合小説の古典『マリア様がみてるの【祐巳ちゃん】と【祥子さま】がそうであったように、

【琴崎さん】と【瑛人】の関係性は、作品の中で「恋人」には至らず《花にたとえたらそれこそつぼみどころかようやく双葉が生えてきた新芽のようなもの》にとどまっている。

創作物において、作者と主人公の関係性もまた、ケースバイケースであろう。

しかしTwitterにおける原作者・弘前龍の独白にあったように

【新堂瑛人】なる男性主人公は、あくまでも原作者の超個人的な性癖を具現化するための憑代にすぎない。

したがって【琴崎さん】と【瑛人】の関係性も、かつて原作者が【ムギちゃん】との“結婚”を夢想していたように、

やがては二人の未熟な男女が「恋人」となり、そして「夫婦」となる保守的な未来

「予測不能であるどころか、むしろ自明のものとして暗示されているのだ。

しかし、そのようにして【瑛人】と【琴崎さん】は“結婚”する未来の可能性が保障されているのに対し、

彼らが日々「観察」と称して一方的に面白おかしく覗き見ている「百合カップル」たちは、

いくら互いに深く愛し合っていたとしても、同性であることを理由に“結婚”することができない。

そのような異性愛至上主義社会の不条理について【瑛人】と【琴崎さん】――そして作者は、一度でも思いを馳せたことがあるだろうか?

なお最後の一文《そんな俺の顔を、――琴崎さんは、不思議そうな目でみていたのだった。》は、これもマリみて』第1巻のパクリである。

 祐巳紅薔薇のつぼみの妹となった夜。

 月と、マリア様だけが二人を見ていた。

女性同士の恋愛の可能性を肯定する、まさに「百合」という概念を一般層にまで周知した金字塔ともいえる『マリみて』第1巻のラストを締めくくる抒情的な一文が、

このような陳腐極まりない異性愛至上主義のパロディに回収されてしまう。

「冒涜」以外の言葉が存在するだろうか。

むろん「百合作品」は、現実の、いわゆる「レズビアン当事者」をエンパワーメントするために創られているわけではない。あくまでも〈異性愛者(非当事者)〉に向けた娯楽コンテンツだ。

また原作者・弘前龍のインタビューによれば、本作の対象ユーザーが既存の百合ユーザーではなく「百合に触れたことがないライトノベル読者」であることから、

社会のマジョリティである〈異性愛者〉の読者が感情移入しやすい世界観――本当にそうなっているかについては別項に譲る――をあえて選択したとの解釈もできるかもしれない。

しかし、だからといって女性同士の恋愛(同性愛)の表現を〈異性愛者〉のエンパワーメントに利用しようとする試みは、きわめてグロテスクであると言わざるをえない。

そも〈異性愛者〉にエンパワーメントなど必要ない。

なぜならば、私たちの生きる現実社会そのものが、すでに異性愛至上主義を基幹として成立しているからだ。

そこへきて、男と女が愛し合うこと(異性愛)の「素晴らしさ」を、ことさらに誇示する作品が、もはや執拗かつ強迫的といえるまで、現実社会に流通し続けている。

そのような異性愛至上主義社会において、女同士が結ばれた『マリみて』のエンディングを、女が男と結ばれるエンディングに書き換えた『琴崎さんがみてる』の試みは、はたしてどういう意味をもつのか?

――それはマリみて』の【祐巳ちゃん】と【祥子さま】のみならず、

現実の「レズビアン当事者」に対しても

《女は男を愛するべきである》《男を愛することが女の成熟である》

という異性愛至上主義・男尊女卑への迎合を要求・期待する社会的・政治的圧力の一環に他ならないのだ。

 * * *

ちなみに上述の【獅子内マナ】は【瑛人】にフラれた後どうなったのかというと

「とにかくあたしは諦めないからねー。首とあそこを洗ってあたしとヤる日を待ってればいいし」という、引き写す指が腐りそうな捨て台詞を吐いて、何処か?へ行ってしまう。

ギャルとお嬢様というカップリングは「百合」の定石であるけれど、そのような百合展開もなく、

たんに【獅子内マナ】という女性キャラクターが【琴崎さん】の清純さを引き立てるための噛ませ犬にしかなっていない。

男性異性愛者向けの低俗なライトノベルフェミニズム的視点を求めるのはつまらないかもしれないが、

しかしこのようにして「女性」という存在に「聖女」か「娼婦」かの極端な二項対立的役割を押しつけるのは、まさにミソジニー(女性蔑視)の最たるものであることは指摘しておかなければならない。

(総括に続く)

 

 

【中編・下】まさに「クィア・ベイティング」の見本のような『琴崎さんがみてる』は異性愛至上主義の下に「百合」を貶める“男尊女卑”ラブコメディだ! #琴崎さんがみてる

すでに発売前の時点で“炎上”している小説版『琴崎さんがみてる』だが、版元のKADOKAWA電撃文庫」の公式ページにある宣伝文では、次のように記載されていた。

dengekibunko.jp

俺は百合が好きだ。 隣にいる、琴崎さんも好きだ。

 名門お嬢様学校が今年から共学化して、クラスに男子は俺ひとり。普通の男ならハーレム万歳みたいになるんだろうけどあいにく俺は……百合が好きだ。
 そして、この学園には俺の同志がいる。
「はぁあああああ、尊いですわ……!」
 幼馴染の琴崎さんと二人。
 息を潜めて百合カップルを観察する。それが俺の……いや、俺たちのライフワークだ。
 この楽しい時間をいつまでも続けていくため、俺には守るべきルールがある。
 たとえば、琴崎さんが興奮のあまり俺に抱きついてきたとしても、邪なことを考えてはならない、とか……。

>たとえば、琴崎さんが興奮のあまり俺に抱きついてきたとしても、邪なことを考えてはならない、とか……。

予想外の“炎上”にイモを引いてのことか、締めの一文は現在《『琴崎さんを好きになってはいけない』だって、百合を愛する観察者は、自分が当事者になってはいけないんだから。》という比較的穏当な表現に変更されている(なお、変更前のスクリーン・ショットが『百合ナビ』の原作者・弘前龍のインタビュー記事に添付されている)。

しかし宣伝文を書き換えたところで、実際の作品中に《「百合」に興奮した【琴崎さん】が男性主人公に抱きつく》というシーンは登場する。

これについては、発売前日の10月7日になってYouTubeで公開された、小説版のプロモーション・ビデオの中でも言及されている。同PVでは、男性主人公【新堂瑛人】のナレーションによって作品の世界観が語られる。

www.youtube.com

うっとりとした表情で、ほとんど抱きつくように全身を擦り付けてくる――

琴崎さんは昔からこうだった。落ち着いた見た目に反して、とにかく感情表現が豊かで――高校生になった今も、子どもみたいに無邪気だ。

琴崎さんのスキンシップがあまりにも無防備なのと、目の前で繰り広げられる百合のクライマックスがあまりにも尊いので――心臓が口から飛び出してしまいそうなほど激しく脈打っている――

うっ……いかん、いかん。彼女に対して、邪なことを考えてはならない。肉欲は、百合の対極にあるもの。彼女の同志でありたいなら、俺は琴崎さんのことを、好きになってはいけないんだ――

こうした【瑛人】の【琴崎さん】に対する「感情」について、原作者・弘前龍は『百合ナビ』のインタビューで次のように説明している。

少なくとも、主人公(男性)は琴崎さんに対して限りなく恋愛に近い感情を抱いています。そのうえで「百合を愛する観察者は、自分が当事者になってはいけない」つまり「琴崎さんを好きになってはいけない」と苦悩します。自分自身が男であることに起因する「肉欲」への忌避感や罪悪感、という部分も小説版で描いております。

《限りなく恋愛に近い感情》ということは「恋愛」そのものではない、と解釈できる。

なぜその「感情」が「恋愛」そのものではないのかといえば、それを「百合を愛する観察者は、自分が当事者になってはいけない」という自身の矜持や《自分自身が男であることに起因する「肉欲」への忌避感や罪悪感》によって抑えつけているからだという。

しかし「感情」を抑えつけるということは、裏を返せばそうした「感情」が存在することの何よりの証明である。初めから「感情」が存在しなければ、それを抑圧するという行為も成り立たない。

すなわち【瑛人】が【琴崎さん】に抱いている「感情」は、たとえ原作者本人がどのように言い繕ったところで、やはり「恋愛」および「肉欲」に他ならないということだ。

また、このような男性主人公の「苦悩」は、けっきょくのところ【琴崎さん】の実際のセクシュアリティがどうあろうと、

他ならぬ【彼】自身が【琴咲さん】を「レズビアン(同性愛者=非異性愛者)」として認識している実情をも露呈している。

もし【琴崎さん】が初めから〈異性愛者〉であることがわかりきっているのであれば、そのまま相思相愛の恋人同士になればいい話であって《自分自身が男(=異性)であることに起因する「肉欲」への忌避感や罪悪感》に苛まれる必要はないからだ。

そしてその上で、男性主人公が、いくら「百合」に対してストイックな態度に徹しようとしたところでレズビアン(=琴崎入愛)」の方から迫ってくる――

こうした受け身の男性像によって、しかし逆説的に、当人――本作の場合は作者の分身である――の“弁明”に反して、男性の「レズビアン(=琴崎入愛)」に向ける「肉欲」が正当化されている。

言うまでもないことだが、男性異性愛者が女性同士の恋愛をテーマにした創作物に惹かれる心理とは、

人間としての「レズビアン」に「肉欲」を向けたり、あわよくば男性である自身が「レズビアン」とSEXしてみたい(=百合に挟まりたい・混ざりたい)と欲望することとは、まったく違う。この場合は、そも「肉欲」自体が発生していないのだから、それを抑圧する必要すらなく、したがって「苦悩」だの「忌避感や罪悪感」が発生する余地もないのである。

原作者・弘前龍も「百合」を愛する男性の一人として、自身の「百合萌え」が、そのような異性愛至上主義と男尊女卑に根ざした《レズビアン差別》と結びついてしまう事態を潔しとはしていないのだろう。

もっとも一方で、たとえそれが《レズビアン差別》の欲望であろうと、創作物の中でそのような“差別的”な欲望を表現すること自体は自由だ、とする皮相な見方もある。

たしかに、フィクションの上ではどのようなものも表現することが出来る。ゆえに作者が望もうと望まないと、フィクション作品は作者の内に秘めた「肉欲」をおのずと表出してしまう。

しかし、それが作者の望まないことであったなら?――たとえそれを支持する読者がいたとしても、そのような表現は“失敗作”と呼ばざるをえないだろう。

言い換えるなら、皮肉にも発売前に“炎上”を経験した『琴崎さんがみてる』は、やはり発売前から“失敗作”となることが運命づけられた作品だったのである。

(後編に続く)

【中編・上】まさに「クィア・ベイティング」の見本のような『琴崎さんがみてる』は異性愛至上主義の下に「百合」を貶める“男尊女卑”ラブコメディだ! #琴崎さんがみてる

あらためて説明すると『琴崎さんがみてる』とは、

名門女子校に通うお嬢様キャラの【琴崎イリア】が、校内の女性カップルを見て百合妄想に耽るというという「メタ百合」とも呼べる構造のアニメ作品(※ただし声優が声を当てているものの静止画なので「漫画」と見なす解釈もあり)である。

YouTubeで全5話が公開された後、2021年10月8日にKADOKAWAライトノベル部門「電撃文庫」からライトノベル版が発売された(なお原作者は弘前龍だが、実際に小説を執筆したのは五十嵐雄策という作家)。

ところが――そのサブタイトルは『俺の隣で百合カップルを観察する限界お嬢様』

作品の舞台は女子校から共学へと移り、

さらには主人公が女性キャラクターの【琴崎入愛(※小説化に伴って「イリア」から改名)】から、その【琴崎さん】に恋愛感情を寄せる男性異性愛者【新堂瑛人】に変更となった。加えて、男性キャラクターは主人公ただ一人という、いわゆる学園ハーレム物の御都合主義的な設定をそのまま踏襲したシチュエーションである。

「メタ百合作品」であったYouTube版から一転して「百合」の世界観(女性同性愛)とは真逆である、異性愛を主軸とした男女物のラブコメディへの路線変更。あまつさえ自身も「百合キャラ」であったヒロインの【琴崎さん】までもが、男性(異性)である主人公と恋愛関係(異性愛)に陥るという。

こうした“改悪”としか言い様がない改変に対して、心ある百合コンテンツのユーザーたちは一斉に「NO」を突きつけ、小説版『琴崎さんがみてる』は発売前から“炎上”の憂き目に遭った。さらには原作者の弘前龍が『百合ナビ』および自身のTwitter上で行った“釈明”も、その無自覚の異性愛至上主義に根ざした差別的かつ独善的な発言によって、かえって火に油を注ぐ格好となった。

ただ、発売前の“炎上”という事態から、そうした背景を理解しない部外者からは「まだ読んでもいないのに批判するのは如何なものか?」というお決まりの物言いがついたのも事実である。

しかし発売前であっても、電撃文庫の公式ページで「試し読み」を閲覧することが可能だ。

作品の冒頭部分(プロローグと第1話)が無料で公開されているが、

その時点ですでに小説版『琴崎さんがみてる』が、異性愛至上主義と男尊女卑に根ざしたまごうかたなき愚作である事実は、すでに明白である。

dengekibunko.jp

マリア様がみてる』におけるひびき玲音に象徴されるとおり、ライトノベルという表現様式において、イラスト(挿絵)はたんなるおまけではなく、文章と同等のプライオリティを占める。

また原作者の弘前龍は『百合ナビ』のインタビューの中で、小説版『琴咲さんがみてる』を通して《「百合作品を男女ハーレム作品にする」という目的ではなく》《百合に触れたことがないライトノベル読者にも、百合の素晴らしさを届けたい》といった「想い」を述べている。

だが、作品冒頭に掲載されている3枚の扉絵の内、女性キャラクター同士がよくわからない会話をしている1枚を除けば、残りの2枚は【琴崎さん】を含む2名の異なる女性キャラクターがそれぞれ男性主人公に迫るというもの。これらは、それこそ「男女ハーレム作品」にありがちな意匠であり「百合の素晴らしさ」は何一つ伝わってこない。

のっけからして嫌な予感しかないが、本文も推して知るべしである。

(※以下「試し読み」から抜粋。強調は引用者)

 と、いつのまに買っていたのかお茶のペットボトルを差し出してきてくれた。

「喉が渇いたかと思いまして。百合花茶、お好きでしたよね?」

「覚えててくれたんだ」

「それはもう、瑛人さんの好物ですもの」

「そっか……あ、ちょっとそっちも貸して」

「?」

「はい、琴崎さん」

 自分の分に加え、琴崎さんの分のペットボトルのフタを開けて彼女へと戻す。

 琴崎さんがちょっと驚いたような、だけど嬉しそうな顔をした。

「ありがとうございます。わたくし、いまだに一人ではフタを開けられなくて。やっぱり男の子なんですね

【琴崎さん】は女性であるがゆえに握力が弱く、ペットボトルのフタすら自分で開けられないのだという。

――しかし、だとしたら【瑛人】が入学してくるまではどうしていたのだろうか?

ちょっと考えればすぐにおかしいとわかる不自然な人物造形だが、

ようするにこれは女性の非力さを強調することで、男性である主人公の存在意義をさりげなくアピールするという、あざとい演出なのだ。

  • じじつ、この箇所にはわざわざ挿絵まで付けられており、作者としては余程読者に印象付けたかったシーンであることがうかがえる。

その根底にあるのは、女性は男性に依存せざるをえないという男性作家の女性蔑視・男尊女卑の意識であり、

そしてそれこそが、男性を必要としない女性同士の恋愛を、男女間の異性愛よりも本質的に劣るものと位置づけ、ひいては女性同士の恋愛に対する男性の介入を正当化する《レズビアン差別》の論拠となっていることは、言うまでもないだろう。

(なお、ペットボトルのフタを開ける器具(オープナー)は、100円ショップで売っている。男性作家の男尊女卑的な意識は、同時に男性の存在意義をも消費税込110円以下に貶めているのである)

torasantei.com

ここで『百合ナビ』における原作者・弘前龍のインタビューから引用する。

YouTube版では語り部的な立ち位置の琴崎さんでしたが、小説版では琴崎さんの男性に対するトラウマをはじめとした暗い過去などにも触れており、一人の人間として深く掘り下げる内容となっております。

・小説版の主人公は男性ですが、百合を愛する同志として、ただ一人、琴崎さんの傍にいることを例外的に許された存在です。

つまり【琴崎さん】は「男性に対するトラウマ」があるから、女性同士の甘美な「百合」の世界に逃避しているという設定であるらしい。

だが女性の「百合萌え」を、男性からの逃避などといった不純かつ不健全な動機にこじつける短絡的な発想は、

これもまた《男が嫌いだから「レズ」に“走る”のだ》というレズボフォビア言説の焼き直しにすぎない。

そしてこれも同様に「男嫌い」の“治療”“克服”と称して、非異性愛者(※「レズビアン」であるとはかぎらない)の女性に男性(異性)との恋愛やSEXを強要する、男性異性愛者向けポルノの定石をなぞったものである。

しかし、引用は前後するけれど、「男性に対するトラウマ」をもつとされる【琴崎さん】が、どういうわけだか男性である主人公に対しては、出会い頭に乳房を押しつけるといった過剰なスキンシップを厭わない。

「お久しぶりですね、瑛人さん。お会いしたかったですわ……!」

「!」

 彼女はそう言うと、俺の頭を包み込むようにがばっと抱きしめてきた。

 柔らかな感触とともにびっくりするくらいいい匂いがふわりと漂う。

 変わっていない。昔からの彼女の、親愛の情を示す時の行動だ。

「ふふ、四年ぶりだというのにぜんぜん変わっていませんのね。瑛人さんの抱き心地がいたしますわ」 

これでは、【琴崎さん】は百合好き女子というより、たんなる男好きの痴女ではないか。何より「男性に対するトラウマ」をもつという設定と完全に矛盾している。初っ端から人物造形がブレブレで、わけがわからない。

(なお、作品全体を通して【琴崎さん】がこのようなスキンシップを行う相手は男性である主人公のみであり、女性キャラクターとこのような関係性になることは一切ない)

そうそう、痴女と言えば、本作には【琴崎さん】とは別に、男性主人公に唐突かつ明け透けに肉体関係(!?)を迫るビッチ系ギャル【獅子内マナ】が登場する。前述の扉絵に登場した女性キャラクターの片方だ。

以下に【マナ】のセリフを抜粋する:

(えー、エイトにはなくてもあたしにはあるし。ていうか男子の匂いで/ちょっとスイッチ入っちゃったかも

(ほらほら、もっとくっつけていい的な? なんなら触ったりめくったり/ハグしてくれてもぜんぜん/オッケーっていうか、むしろウェルカム?

「それで知ってるとか知らないとかの話だけどさ、そんなのどうでもよくない? 知らないならこれから知っていけばいいだけじゃん。付き合えばどうせ隅から隅まで色んなところを全部知ることになるんだし

「あはは、ウケるなにそれ。マジでヤバいんだけど。てかそんな難しく考えなくていいじゃん。一度しかない人生、とりあえずヤッたもん勝ちっしょ。何ならカラダだけの関係でもいいし

男性主人公【新堂瑛人】のキャラクター造形に関して、作者は『百合ナビ』のインタビューで《「百合を愛する観察者は、自分が当事者になってはいけない」つまり「琴崎さんを好きになってはいけない」と苦悩します。自分自身が男であることに起因する「肉欲」への忌避感や罪悪感》を抱えた人物と説明する。またそれゆえに『琴崎さんがみてる』は男性を主人公としながら「男女ハーレム作品」とはならないのだという。

たしかに【瑛人】は【琴崎さん】に対しても【マナ】に対しても、男性の立場から女性には積極的にアプローチすることなく受け身に徹しているようだ。

しかし、そのようにして受け身の男性主人公が女子たちから積極的にアプローチされるというシチュエーションは、それこそ「男女ハーレム作品」の定石である。

加えて【瑛人】は「幼なじみ」という特権的な立場と「百合萌え」という共通の趣味によって、男性でありながら《ただ一人、琴崎さんの傍にいることを例外的に許され》ているのだという。

しかしじつのところそうした御都合主義的な設定は、逆に【瑛人】の側が【琴崎さん】を独占する口実にすぎない。そして一人の男性が複数の美女を独占するという排他的な構造もまた、やはり「男女ハーレム作品」の基幹を成す世界観だ。

こうしたことからも『琴崎さんがみてる』は、それ自体が「百合作品」ではなく、あくまでも「百合」を題材(というかネタ)にした、異性愛者のラブコメディであるという本質を見て取ることができる。

(中編・下に続く)

 

【前編】まさに「クィア・ベイティング」の見本のような『琴崎さんがみてる』は異性愛至上主義の下に「百合」を貶める“男尊女卑”ラブコメディだ! #琴崎さんがみてる

YouTubeで公開されていた百合アニメ『琴崎さんがみてる』が、その小説化にあたり、

「百合」を趣味とする女性の主人公から、その女性キャラクターに恋愛感情を抱く男性を主人公に変更したことで、

作品の世界観を根底から覆す結果となり、百合コンテンツのユーザーからの猛烈な批判に晒されている。

もっとも【琴崎さん】こと【琴崎イリア】は、作品の中で元々「レズビアン(女性同性愛者)」と明言されていたわけではない。

しかし、一方でレズビアン“ではない”とも明言されない。その上で《女性同士の恋愛を愛でる女性》という属性を付加したことで、自身もまた「レズビアン(女性同性愛者)」と解釈可能であるかのように“匂わせ”ている。

このようにして、レズビアン異性愛者女性を、あたかも「レズビアン」であるかのごとく見せかけることで世間の注目を集める手法クィア・ベイティング(queerbating)」と呼び、

さながら『琴崎さんがみてる』は(用例として事典に載せてもいいくらい)その悪しき見本と言える事例だ。

ossie.hatenablog.jpさて、こうした“炎上”を受け、作品の原作者(原案者)である弘前龍(@ryu_hirosaki_17が、百合情報サイト『百合ナビ』および自身のTwitter上で釈明を行った。yurinavi.com

YouTube版は、小説版から見るとプロローグ(1年前の話)になるような位置づけで制作しました。まだ公開されていないYouTube版5話でいくつか新しい設定を明かし、小説版へ繋げる予定でしたが情報公開の順番が前後してしまい、小説版のあらすじのほうが先に世に出てしまった結果、想定外の反響をいただいてしまった、という次第でございます。

とはいえ、YouTube版と小説版の設定がまったくの別物に見えてしまい、大きな混乱を招いてしまったのは事実です。YouTube版5話の公開時期調整も含め、もっと丁寧な導線を引くべきだったと反省しています。

それでは、上掲記事の直後に公開されたYouTube版の第5話(最終回)を観てみよう。

www.youtube.com

(【琴崎イリア】の台詞を抜粋)

そして語り部の役を担うのは/わたくし一人ではございません/実は・・・来年の春/わたくしの幼なじみが/百合の花の美しさを語り合う同志が/この猫丘学園に入学してくるのですわ/ご入学おめでとうございます/さぁ! 心ゆくまで語り合いましょう/ここは……尊き百合の花々が咲き誇るわたくしたちの楽園なのですから/今そう遠くない未来が見えたような気がいたします/ともに語り合い/切磋琢磨できる同志がいるならば/わたくしもさらなる高みへと/昇ることができるはず・・・

この期に及んでも【琴崎さん】の言う「幼なじみ」「百合の花の美しさを語り合う同志」が男性である事実は明かされていない。よって原作者のいう「導線」にもなっていない。問題の小説版に先んじてYouTube版5話」を公開していたとしても“炎上”は避けられなかったであろう(しかし、騒動を機に初めて観たが「百合」に男が混ざる云々を抜きにしても冗漫で退屈極まりないアニメである)。

次に、原作者・弘前龍のTwitter上の“釈明”を引用する。

(以下、連投ツイートを整理。強調は引用者。)

記事にもあるとおり、小説版の主人公を男性にしたことは、編集部の意向ではなく私自身の意向です。

企画初期からYouTube版と小説版をセットで構想しており、YouTube版は「百合好きのお嬢様が1人で語る」作品、小説版は「百合好きのお嬢様と百合男子が語り合う」作品にしたいと考えていました。

この「百合好きのお嬢様と百合男子」というコンセプトが百合ファンの皆様に上手く伝わらず、大きな誤解を招いてしまった気がします。

なので、そもそも弘前龍とは百合を語るに足る人物なのか、どうやってこの発想に至ったのか、補足説明あるいは自分語りをさせてください。

と言いつつ、ヘテロの話から始まるのですが……

約10年前、私は「けいおん!」のムギちゃんにガチ恋をしていました。 ムギちゃんの隣で、唯が梓に抱きつく様子を眺めている「俺」の姿をいつも妄想していました。

そして、そんな妄想こそが「琴崎さんがみてる」の原点となりました。

けいおん!」は当時、多くの一般人を百合の沼に引きずり込んだ作品です。 私もその一人で、唯梓、澪律、和憂がジャスティスでした。

彼女たちの日常をいつまでも見守っていたい、と思う一方で……

私は、ムギちゃんへの想いだけが、他と性質の違うものであることに気づきます。

ムギちゃんと結婚したい。

その気持ちを自覚した瞬間、私は大きな矛盾に直面しました。

壁や観葉植物やスッポンモドキではなく「俺」として「けいおん!」の世界に存在したいと願っている。

そんな輩には、百合男子を名乗る資格がないのではないか?

百合を愛する気持ちも、決して嘘ではないのです。

澪と律の間に挟まりたい訳ではなく、ほんの少し離れた場所で、2人の会話を聞かせてほしいのです。

漫才のような会話の中に幼馴染カップルならではの深い絆を発見した瞬間の歓びは、間違いなく本物でした。

その歓びを一人で噛みしめるのも悪くありません。

しかし、その瞬間、きっとムギちゃんも同じ歓びを抱いている…… 私は、ムギちゃんと二人で、澪律の尊さを語り合いたいと願ってしまったのです。

それは世界に「俺」を介入させる行為であり、当時の過激派に殺されてもおかしくない思想でした。

宗派によっては、自己をムギちゃんに投影する、自分がムギちゃんだと思い込む、というアプローチを取る人もいました。

「俺」の介入と比べたら、遥かに穏当な解決手段だと思います。

しかし、私はムギちゃんになることができませんでした。

何度考え直しても私は「俺」だったのです。

『ねえ聞いて! さっき、唯ちゃんが梓ちゃんに……』

嬉しそうに語るムギちゃんの笑顔を思い浮かべるとき……

こには、聞き手としての「俺」が存在していました。

「俺」がいなければ、ムギちゃんは誰と唯梓を語ればいいのでしょうか?

※まだ菫が登場していなかった頃の話です。

こうした葛藤を抱えたまま、月日は流れていきました。

劇場版の公開も続編漫画の連載も終わり「けいおん!」は少しずつ思い出に変わっていきました。

同時に、百合作品の多様化が進み「捏造トラップ」など革命的な作品も現れるようになっていきました。

今なら、当時の葛藤を、ひとつの作品に昇華できるかもしれない。

2019年「けいおん!」アニメ放送10周年を祝いながら、私は「琴崎さんがみてる」の原型となる企画書を作りました。

「百合好きのお嬢様と百合男子」というコンセプトは、約10年にわたる私の想いが結実したものです。

それから約2年。

五十嵐雄策さん、佐倉おりこさん、福原香織さん、他にも大勢の方々にご協力いただきながら「琴崎さんがみてる」プロジェクトは進展を続けてきました。

いよいよ小説版の発売という節目を迎える直前、予期せぬ形で世間をお騒がせてしまい、私自身、困惑しておりました。

今回の騒動でネガティブな誤解が広まってしまったのは、私の説明不足が原因だったと反省しています。

ご心配をおかけした関係各位にお詫び申し上げるとともに、説明の機会をくださった百合ナビ様に厚く御礼申し上げます。

そして、百合ファンの皆様に私の真意が伝わることを願っております。

女性キャラクターである【ムギちゃん】と男性である弘前が「百合」を語り合うのに、わざわざ“結婚”をする必要はないだろう。

こうした弘前の思い込みは《男女間の「友情」は成立しない》という異性愛至上主義の固定観念に囚われたものである。なぜそれが異性愛至上主義であるかというと、それは元来、女同士(あるいは男同士)の「恋愛」は成立しないという信念と表裏一体であるからだ。

そして何より、弘前の個人的かつ身勝手な性癖の問題が「俺」がいなければ、ムギちゃんは誰と唯梓を語ればいいのでしょうか?》などと、いつのまにか【ムギちゃん】の心情を斟酌して思いやるかのような態度に転嫁されている。

性加害者特有の強固な思い込みと認知の歪みに根ざした、ありていにいって、じつに気色の悪い文面である。

自身の卑しい性欲を満たすにあたって【ムギちゃん】を必要としているのは、他ならぬ弘前であり、【ムギちゃん】の側は作品世界の外側にいる弘前の存在など必要としていない。【ムギちゃん】は弘前の存在とは関係なく、ただ純粋に「百合萌え」という自身のセクシュアリティを楽しんでいるだけである。

それにもかかわらず、異性愛者である【ムギちゃん】には男性(異性)である自分が必要だと決めつける勝手な思い込みは、

まさに《女は男を愛するべきである》《男を愛することが女の成熟である》という異性愛至上主義・男尊女卑の発露に他ならない。

繰り返すが【琴咲さん】も【ムギちゃん】も作品の中で「レズビアン」と規定されているわけではない。

しかし、そもレズビアン」でなければ男性を愛せるはずだ・愛するべきだ、という思い込み自体が、まさに異性愛至上主義の最たるものではないのか。

そして【琴咲さん】や【ムギちゃん】が実際に「レズビアン」であろうとなかろうと、《女は男を愛するべきである》《男を愛することが女の成熟である》という異性愛至上主義・男尊女卑にもとづいて男性との恋愛やSEXを要求・期待するのであれば、そのような行為は必然して《レズビアン差別》として機能するのだ。

弘前澪と律の間に挟まりたい訳ではなくと弁明するが、どのように言い繕ったところで、そのようなレズビアン差別》に依拠する男の欲望は、所詮「百合に挟まりたい男」の亜種でしかない。

まして言うまでもなく、それは「男の百合萌え(百合に“萌える”男)」とはまったく別次元の問題だ。

こうした原作者・弘前龍の、何の説得力もない、冗長な“釈明”に対しても、当然のことながら多くの反論が寄せられているが、

一方で「嫌なら読むな」「読んでから批判しろ」といった、作者のシンパないし百合アンチからの皮相な“混ぜっ返し(反論ですらない)”も散見する。

しかし、公式サイトに掲載されている「試し読み」を読んだ時点で、

小説版『琴崎さんがみてる』が、異性愛至上主義と男尊女卑に根ざした、救いようのない駄作である事実はすでに明白なのだ。

(中編・上に続く)

 

『マリみて』は「百合」じゃないと“力説”する人に突っ込みを入れてみた結果 #マリみて #マリア様がみてる #コバルト文庫 #百合

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マリみて』こと『マリア様がみてる』が日本のオタク・カルチャー史に名を残す作品となりえたのは、ひとえに「百合萌え」という“古くて新しい”価値観を再発見した功績による。

むろん「百合」は『マリみて』が発明したわけではなく、その用語自体は遡れば70年代の中頃に作られたものだ。

しかし、それまではアンダーグラウンドな同人業界の符丁にすぎなかった「百合」が、ゼロ年代に入って一般層にまで周知するに至るには、ゼロ年代前半の『マリみて』ブームの到来を待たなければならない。

その意味でオタクカルチャーの歴史は、まさにマリみて』以前と『マリみて』以降に分かれるといっても過言ではないだろう。

もっとも、後続の百合作品に対する直接的な影響力は『青い花』の方が大きい。こうした実情については過去記事を参照のこと:

「百合」の“源流”は「エス」にあらず~『マリみて』を中心とした「百合史観」の試論 - 百錬ノ鐵

《少女達の揺れ動く心情》を売りにした作品は、他にいくらでも存在する。だが、それらの多くは「少女小説(少女マンガ)」という枠組みの中で同性から支持されるにとどまり、今日では忘れ去られてしまった。

そんな中で『マリみて』が《男が読んでも感動する作品》すなわち多くの男性読者からの支持を得るに至ったのは、これもひとえに女性のキャラクターを主体(主人公)としながら、女性を愛する心情を繊細かつユーモアたっぷりに描いたことにより、

その世界観に図らずも異性愛者の男性(女性を愛する男性)が共感できる余地を創り出しているためだ。

  • むろん男性の異性愛者ないし『マリみて』の男性ファンの誰しもが「百合」に共感できるわけではないことは言うまでもないし、そもそもここではそんな話はしていない。

一方、現実社会において同性愛者の女性(女性を愛する女性)はマイノリティであることから『マリみて』を「百合(女性同士の「恋愛」の表現)」と解釈ないしカテゴライズすることで、読者の間口を狭めてしまうことを懸念する向きも根強くあり、上掲のツイートはその典型である。

しかしそれこそ倒錯した発想であり、むしろ「百合」という“取っ掛かり”があったからこそ、本来であれば「少女小説(少女マンガ)」というマーケティングの対象外であった男性異性愛者の読者の関心も惹くことが可能となったととらえられるべきであろう。

そしてその倒錯は、まさに同性愛者が嫌悪・忌避されるべきであるという異性愛至上主義に根ざした「ホモフォビア(同性愛者嫌悪)」に端を発するものだ。

その証拠に上掲のツイート主は、男子校を舞台としたスピンオフ作品『お釈迦様がみてる』についても同様に《BL?とんでもない》と“力説”しているではないか。

フィクションの「百合」や「BL」は、現実の「同性愛」と異なるという物言いをしばしば目にする。しかし問題の本質は両者が同一であるということではなく、

現実社会の「同性愛」を否定するレトリックが、そのままフィクションの「百合/BL」にも敷衍されている点だ。

それらが「百合/BL」という文化に対する偏見と無理解に凝り固まったものであることは論を俟たないが、そのような歪んだ認知バイアスの下で「百合/BL」は元より『マリみて』ですらもありのまま(虚心坦懐)に読解できているか疑わしい。

少なくとも「あとがき」は読んでいないのだろう。

マリア様がみてる 黄薔薇革命』あとがきより(P.212 ※強調は引用者):

ま【マリア様がみてる】インターネットの某ページに『マリア様がみてる』のことが記載されていて、「ソフトだけど完全に百合」というコメントが添えてあったのには笑ってしまった。最高の褒め言葉です、ありがとう。

シオヤギくん(Gay_yagi)、国連“トランスジェンダリズム”広告を謎理論で全力擁護するの巻

以前にも少しふれたが、件の国連によるトランスジェンダリズム広告『もし彼女がトランスジェンダーであっても愛しますか?(Would you still love her if she were transgender?)』について、

当然のことながら、トランス主義者でレズビアン差別主義者のシオヤギくん(@Gay_yagiも全面支持の態度をとっている。

その理屈がまた例によって例のごとく“謎理論”なのだが……

まず、トランスジェンダーと非当事者の関係性を考える上で「家族」「恋人」では、意味がまったく違ってくる。血縁にもとづく「家族」は選べないが、「恋人」は自分の意志で主体的に選び取る関係性であるからだ。

それをふまえたうえで、しかし任意の相手と「恋人」になる――すなわち恋愛関係・肉体関係を取り結ぶにあたって、わざわざ自分の性別を隠して(偽って)接近するというのがわからないし、あるいは「恋人」の関係にありながらパートナーがトランスジェンダーであることに気がつかないというのもわからない。

そのような非現実的かつ“恣意的”な想定をもとに、シオヤギくんは件のトランスジェンダリズム広告を全力擁護するのである。

だが仮にトランスジェンダー《暴力を振るわれたり家から追い出されたりするケース》を想定しているのであれば、たんに暴力反対といえばいいだけのことだ。

そこをいくと、トランスジェンダーを“愛する(love)”ことをしない、すなわち性的対象に含めないこと自体が「差別(discriminate)」であると主張する件の広告は、論点が摩り替っており、その意味でも不適切といわざるをえないだろう。

加えて、広告とは言葉(キャッチコピー)だけでなく、図版も用いて総合的にメッセージを発する表現である。

言うまでもなく「love」とは「恋人や性的対象」に用いる言葉で、「家族」はともかく「友達」に用いることは稀であろう。日本語には「家族愛」「親子愛」「兄弟愛」「姉妹愛」「人類愛」「隣人愛」などの語彙も存在するけれど、

いずれにしても「love(愛)」から「恋愛・性愛」の意味を排除する解釈は語義矛盾に他ならない。

そも件の広告の、同世代の男女と思しき人物がうっとりした表情で額を寄せ合う表象からロマンティック・ラブ・イデオロギーを“読む”ことができないのであれば、もはや表象を読み解く能力が欠如しているというより、トランスジェンダリズムイデオロギーに凝り固まって認知そのものが歪んでいるとしか言い様がない。

あるいは、まぁ一億歩ほど譲って、件の広告に「(トランスジェンダーを)性的対象に含めなければ差別」という意図がまったくなかったとしても、

まさしくそれを支持するシオヤギらトランス主義者が「(トランスジェンダーを)性的対象に含めなければ差別」と主張していることは何も変わらない。

その証拠に、

トランスジェンダー「当事者や団体」「性的対象に含めなければ差別」と《誰もそのような主張はしておりません》“主張”する一方で、

トランスジェンダーの恋愛やSEXを拒む人を「差別的な人」と決めつけている。

  • まさかとは思うが……もしかして「差別」ではないが「差別“的”」ではある、という意味なのだろうか? 
  • じじつ「差別」ではないが「偏見」ではある、といった(※過去記事参照)コマッしゃくれた小学生レベルの“屁理屈”を十八番とするシオヤギくんなら、じゅうぶんありうる話だ……。

あげくのはてに、私たちが日常的に用いている、恋愛関係・肉体関係を結ぶという意味での“付き合う”という俗語を、恋愛関係・肉体関係を伴わない友人との「交際(付き合い)」に摩り替えるという、極右政権顔負けのご飯論法まで駆使するのだ。

www.gentosha.jp

もっとも、以前にも他のトランス主義者について指摘したとおり、このような“病的なレベルのウソツキ”でなければ、

トランスジェンダリズムという《嘘とか欺瞞に溢れる世界》を恥も臆面もなく喧伝することなどできないのだが……。

youtu.be

夫や妻の「性別」が変わっても“離婚”できない!? 本当は怖い「LGBT差別禁止法」の危険性とは? #lgbt差別禁止法 #差別禁止法 #lgbt法案

(※公開直後に加筆修正)

私との議論を打ち切った後も、小浜耕治(@aoikousi)氏は引き続き、トランスジェンダーを恋愛対象に含めないことは「差別(トランスフォビア)」であるとの主張を展開している。

以下のツイートもそれに関連したものであるけれど、一連の議論に目を通しているうちに、議論の最中には思いつかなかった、ある恐ろしい事実に気がついた。

今年の6月、いわゆる「LGBT新法」をめぐって、与党の提案する「理解増進法」と野党の提案する「差別禁止法」が衝突し、(いったんは「理解増進法」で妥協されたものの)どちらも否決されたことは記憶に新しい。

しかし小浜耕治氏によれば、

配偶者が性別を変更したことを理由に離婚を切り出すのは「差別」であるとのことだから、

仮に「LGBT差別禁止法」が制定された場合に、

配偶者が性別を変更したことは離婚成立の事由にならないどころか、

むしろ離婚を求める側こそが慰謝料を請求されかねない

という事態に至る可能性が出てきたのだ。

そして小浜耕治氏は、一つの政治戦略として、理念法(罰則規定なし)の「理解増進法」ではなく、を足掛かりとしながらも、

最終的には実効法(罰則規定あり)である「差別禁止法」を制定すべきとの立場を表明している。

ようするに小浜耕治氏の“戦略”としては、 いったんは罰則規定がなく実現のハードルが低い「理解増進法」を通してから、 後付けで罰則規定を盛り込んだ「差別禁止法」に作り替えればいいとお考えのようだ。騙し討ちと変わらない気がするが……。

なお、私自身は異性愛者でありながら結婚願望がなく、また当ブログの性質上《レズビアン差別》を前提に考察する習慣があるため、そうした婚姻関係をめぐるトラブルの可能性には思い至らなかったが、

世間の人々にトランスジェンダリズムの危険性を説くにあたっては、むしろこちらのほうが現実的に受け止められるかもしれない。

日々、ブログで《レズビアン差別》を告発・批判する私としては、当然ながらLGBT差別には反対の立場である。

とはいえ、何が「差別」であるかのコンセンサス(共通理解)も確立されず、あまつさえレズビアンが男性やトランス女性を愛さないことも「差別」であるといった“曲解”が罷り通っている現状において、

「差別禁止法」を拙速に定めてしまうことが、差別概念の恣意的な濫用を招き、ひいては公権力にもとづく思想検閲やプライバシー侵害の口実として利用されることは必至である。

今回の国会では見送られたものの、与党のやる気があまり感じられない「理解増進法」はともかく、「差別禁止法」は可決されるまで何度も執念深く提出されることだろう。

どうか「差別禁止法」に反対する方は、そのたびに拙記事を拡散し、トランスジェンダリズムのおそろしさと危険性を周知していただきたいと願う所存である。

(……というか、配偶者が性別を変えても離婚できなくなるといわれたら、「差別禁止法」に賛成する人なんてトランス主義者・クィア主義者を除けば誰もいなくなるのでは?)