百錬ノ鐵

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『マリみて』は「百合」じゃないと“力説”する人に突っ込みを入れてみた結果 #マリみて #マリア様がみてる #コバルト文庫 #百合

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マリみて』こと『マリア様がみてる』が日本のオタク・カルチャー史に名を残す作品となりえたのは、ひとえに「百合萌え」という“古くて新しい”価値観を再発見した功績による。

むろん「百合」は『マリみて』が発明したわけではなく、その用語自体は遡れば70年代の中頃に作られたものだ。

しかし、それまではアンダーグラウンドな同人業界の符丁にすぎなかった「百合」が、ゼロ年代に入って一般層にまで周知するに至るには、ゼロ年代前半の『マリみて』ブームの到来を待たなければならない。

その意味でオタクカルチャーの歴史は、まさにマリみて』以前と『マリみて』以降に分かれるといっても過言ではないだろう。

もっとも、後続の百合作品に対する直接的な影響力は『青い花』の方が大きい。こうした実情については過去記事を参照のこと:

「百合」の“源流”は「エス」にあらず~『マリみて』を中心とした「百合史観」の試論 - 百錬ノ鐵

《少女達の揺れ動く心情》を売りにした作品は、他にいくらでも存在する。だが、それらの多くは「少女小説(少女マンガ)」という枠組みの中で同性から支持されるにとどまり、今日では忘れ去られてしまった。

そんな中で『マリみて』が《男が読んでも感動する作品》すなわち多くの男性読者からの支持を得るに至ったのは、これもひとえに女性のキャラクターを主体(主人公)としながら、女性を愛する心情を繊細かつユーモアたっぷりに描いたことにより、

その世界観に図らずも異性愛者の男性(女性を愛する男性)が共感できる余地を創り出しているためだ。

  • むろん男性の異性愛者ないし『マリみて』の男性ファンの誰しもが「百合」に共感できるわけではないことは言うまでもないし、そもそもここではそんな話はしていない。

一方、現実社会において同性愛者の女性(女性を愛する女性)はマイノリティであることから『マリみて』を「百合(女性同士の「恋愛」の表現)」と解釈ないしカテゴライズすることで、読者の間口を狭めてしまうことを懸念する向きも根強くあり、上掲のツイートはその典型である。

しかしそれこそ倒錯した発想であり、むしろ「百合」という“取っ掛かり”があったからこそ、本来であれば「少女小説(少女マンガ)」というマーケティングの対象外であった男性異性愛者の読者の関心も惹くことが可能となったととらえられるべきであろう。

そしてその倒錯は、まさに同性愛者が嫌悪・忌避されるべきであるという異性愛至上主義に根ざした「ホモフォビア(同性愛者嫌悪)」に端を発するものだ。

その証拠に上掲のツイート主は、男子校を舞台としたスピンオフ作品『お釈迦様がみてる』についても同様に《BL?とんでもない》と“力説”しているではないか。

フィクションの「百合」や「BL」は、現実の「同性愛」と異なるという物言いをしばしば目にする。しかし問題の本質は両者が同一であるということではなく、

現実社会の「同性愛」を否定するレトリックが、そのままフィクションの「百合/BL」にも敷衍されている点だ。

それらが「百合/BL」という文化に対する偏見と無理解に凝り固まったものであることは論を俟たないが、そのような歪んだ認知バイアスの下で「百合/BL」は元より『マリみて』ですらもありのまま(虚心坦懐)に読解できているか疑わしい。

少なくとも「あとがき」は読んでいないのだろう。

マリア様がみてる 黄薔薇革命』あとがきより(P.212 ※強調は引用者):

ま【マリア様がみてる】インターネットの某ページに『マリア様がみてる』のことが記載されていて、「ソフトだけど完全に百合」というコメントが添えてあったのには笑ってしまった。最高の褒め言葉です、ありがとう。

シオヤギくん(Gay_yagi)、国連“トランスジェンダリズム”広告を謎理論で全力擁護するの巻

以前にも少しふれたが、件の国連によるトランスジェンダリズム広告『もし彼女がトランスジェンダーであっても愛しますか?(Would you still love her if she were transgender?)』について、

当然のことながら、トランス主義者でレズビアン差別主義者のシオヤギくん(@Gay_yagiも全面支持の態度をとっている。

その理屈がまた例によって例のごとく“謎理論”なのだが……

まず、トランスジェンダーと非当事者の関係性を考える上で「家族」「恋人」では、意味がまったく違ってくる。血縁にもとづく「家族」は選べないが、「恋人」は自分の意志で主体的に選び取る関係性であるからだ。

それをふまえたうえで、しかし任意の相手と「恋人」になる――すなわち恋愛関係・肉体関係を取り結ぶにあたって、わざわざ自分の性別を隠して(偽って)接近するというのがわからないし、あるいは「恋人」の関係にありながらパートナーがトランスジェンダーであることに気がつかないというのもわからない。

そのような非現実的かつ“恣意的”な想定をもとに、シオヤギくんは件のトランスジェンダリズム広告を全力擁護するのである。

だが仮にトランスジェンダー《暴力を振るわれたり家から追い出されたりするケース》を想定しているのであれば、たんに暴力反対といえばいいだけのことだ。

そこをいくと、トランスジェンダーを“愛する(love)”ことをしない、すなわち性的対象に含めないこと自体が「差別(discriminate)」であると主張する件の広告は、論点が摩り替っており、その意味でも不適切といわざるをえないだろう。

加えて、広告とは言葉(キャッチコピー)だけでなく、図版も用いて総合的にメッセージを発する表現である。

言うまでもなく「love」とは「恋人や性的対象」に用いる言葉で、「家族」はともかく「友達」に用いることは稀であろう。日本語には「家族愛」「親子愛」「兄弟愛」「姉妹愛」「人類愛」「隣人愛」などの語彙も存在するけれど、

いずれにしても「love(愛)」から「恋愛・性愛」の意味を排除する解釈は語義矛盾に他ならない。

そも件の広告の、同世代の男女と思しき人物がうっとりした表情で額を寄せ合う表象からロマンティック・ラブ・イデオロギーを“読む”ことができないのであれば、もはや表象を読み解く能力が欠如しているというより、トランスジェンダリズムイデオロギーに凝り固まって認知そのものが歪んでいるとしか言い様がない。

あるいは、まぁ一億歩ほど譲って、件の広告に「(トランスジェンダーを)性的対象に含めなければ差別」という意図がまったくなかったとしても、

まさしくそれを支持するシオヤギらトランス主義者が「(トランスジェンダーを)性的対象に含めなければ差別」と主張していることは何も変わらない。

その証拠に、

トランスジェンダー「当事者や団体」「性的対象に含めなければ差別」と《誰もそのような主張はしておりません》“主張”する一方で、

トランスジェンダーの恋愛やSEXを拒む人を「差別的な人」と決めつけている。

  • まさかとは思うが……もしかして「差別」ではないが「差別“的”」ではある、という意味なのだろうか? 
  • じじつ「差別」ではないが「偏見」ではある、といった(※過去記事参照)コマッしゃくれた小学生レベルの“屁理屈”を十八番とするシオヤギくんなら、じゅうぶんありうる話だ……。

あげくのはてに、私たちが日常的に用いている、恋愛関係・肉体関係を結ぶという意味での“付き合う”という俗語を、恋愛関係・肉体関係を伴わない友人との「交際(付き合い)」に摩り替えるという、極右政権顔負けのご飯論法まで駆使するのだ。

www.gentosha.jp

もっとも、以前にも他のトランス主義者について指摘したとおり、このような“病的なレベルのウソツキ”でなければ、

トランスジェンダリズムという《嘘とか欺瞞に溢れる世界》を恥も臆面もなく喧伝することなどできないのだが……。

youtu.be

夫や妻の「性別」が変わっても“離婚”できない!? 本当は怖い「LGBT差別禁止法」の危険性とは? #lgbt差別禁止法 #差別禁止法 #lgbt法案

(※公開直後に加筆修正)

私との議論を打ち切った後も、小浜耕治(@aoikousi)氏は引き続き、トランスジェンダーを恋愛対象に含めないことは「差別(トランスフォビア)」であるとの主張を展開している。

以下のツイートもそれに関連したものであるけれど、一連の議論に目を通しているうちに、議論の最中には思いつかなかった、ある恐ろしい事実に気がついた。

今年の6月、いわゆる「LGBT新法」をめぐって、与党の提案する「理解増進法」と野党の提案する「差別禁止法」が衝突し、(いったんは「理解増進法」で妥協されたものの)どちらも否決されたことは記憶に新しい。

しかし小浜耕治氏によれば、

配偶者が性別を変更したことを理由に離婚を切り出すのは「差別」であるとのことだから、

仮に「LGBT差別禁止法」が制定された場合に、

配偶者が性別を変更したことは離婚成立の事由にならないどころか、

むしろ離婚を求める側こそが慰謝料を請求されかねない

という事態に至る可能性が出てきたのだ。

そして小浜耕治氏は、一つの政治戦略として、理念法(罰則規定なし)の「理解増進法」ではなく、を足掛かりとしながらも、

最終的には実効法(罰則規定あり)である「差別禁止法」を制定すべきとの立場を表明している。

ようするに小浜耕治氏の“戦略”としては、 いったんは罰則規定がなく実現のハードルが低い「理解増進法」を通してから、 後付けで罰則規定を盛り込んだ「差別禁止法」に作り替えればいいとお考えのようだ。騙し討ちと変わらない気がするが……。

なお、私自身は異性愛者でありながら結婚願望がなく、また当ブログの性質上《レズビアン差別》を前提に考察する習慣があるため、そうした婚姻関係をめぐるトラブルの可能性には思い至らなかったが、

世間の人々にトランスジェンダリズムの危険性を説くにあたっては、むしろこちらのほうが現実的に受け止められるかもしれない。

日々、ブログで《レズビアン差別》を告発・批判する私としては、当然ながらLGBT差別には反対の立場である。

とはいえ、何が「差別」であるかのコンセンサス(共通理解)も確立されず、あまつさえレズビアンが男性やトランス女性を愛さないことも「差別」であるといった“曲解”が罷り通っている現状において、

「差別禁止法」を拙速に定めてしまうことが、差別概念の恣意的な濫用を招き、ひいては公権力にもとづく思想検閲やプライバシー侵害の口実として利用されることは必至である。

今回の国会では見送られたものの、与党のやる気があまり感じられない「理解増進法」はともかく、「差別禁止法」は可決されるまで何度も執念深く提出されることだろう。

どうか「差別禁止法」に反対する方は、そのたびに拙記事を拡散し、トランスジェンダリズムのおそろしさと危険性を周知していただきたいと願う所存である。

(……というか、配偶者が性別を変えても離婚できなくなるといわれたら、「差別禁止法」に賛成する人なんてトランス主義者・クィア主義者を除けば誰もいなくなるのでは?)

 

 

やっぱりトランスジェンダーを恋愛対象に含めないのは《トランス差別》と主張しているLGBT活動家・小浜耕治(aoikousi)氏に再度反論する

前回に引き続き、LGBT活動家の小浜耕治@aoikousi)氏が、

トランスジェンダーを恋愛対象に含めないのは《トランス差別》と主張する独自の見解を表明されている。

前回の議論の結果、私は小浜耕治氏からブロックされてしまったが、私に対する反論と思しき箇所もあるので、あらためて取り上げてみる。

以下、スレッドのまとめ:

性的指向~どんな性別を恋愛や性愛の対象とするか?について、具体的な経験がゲイであるレズビアンであるヘテロであるなどへの帰属の根拠となっているように思います。

トランスジェンダーの人口は1%にも満たない圧倒的な少数派ですから、出会ったことがある人、恋愛をしたことがある人も少数です。

(中略)

性的指向の指し示す対象としてトランスジェンダーが入るかどうか?というのは、トランスジェンダーと出会ったことが少ない、または無い人は、そこは判断しなくてよいことだと思うのです。わからないこととすれば良い。

だからと言って、目の前のトランスジェンダーから交際を申し込まれたときに、受け入れるかどうかは「わからない」中での判断となるので、それ以外のものに基づく判断をすることになるでしょう。トランスジェンダーからの交際を断るかどうかは個人的な判断です。断ったからといって差別とは言えないでしょう。

しかし、トランスジェンダーとの接点がなかった他人がトランスジェンダーを恋愛対象としないと公言することは、実はわからないことに自分の価値判断を下すことであり、その対象が差別されやすい属性であるときには、差別の影響を受けて判断していると思われても仕方ないのではないかと思います。

なにやらごちゃごちゃと書かれているので途中省略したが、

ようは実際にトランスジェンダー当事者と逢ったこともないのに“食わず嫌い”するのは、やはり「差別(トランスフォビア)」だとのことである。

もっとも前回の議論で小浜耕治氏は、

トランスジェンダーを性的対象に含めない(性的対象から除外する)ことは「差別(トランスフォビア)」であるか? という私の問いに対して、

「差別じゃないでしょう。」という見解を示されていたが、

やっぱり「差別」になるようだ。だから初めからそう言えばいいじゃん。

見ず知らずの他人に上から目線で講釈しておきながら、じつのところ小浜耕治氏自身の思考が整理されていない様子がうかがえる。

しかし小浜耕治氏のレトリックは、

まさに男性を性的対象に含めないレズビアンに対する

「食わず嫌いなんじゃないの?」

「実際に男とSEXしてみた後で、自分が本当にレズビアンかを判断すべきだ」

といったSOGIハラスメントを、ただ「男性」を「トランス女性」に置き換えたにすぎない。

加えて、女性を愛して男性を愛さないレズビアン」が「性別」で人間を「差別」している、というのは「レズビアン」に対するヘイトスピーチの常套句である。

元より、ここで議論されているのはトランスジェンダーと恋愛する可能性がありうるか? という将来の可能性(ポシビリティ=できること)ではなく、

現時点において【私】がトランスジェンダーとの恋愛を望まないという個人の主体性(アイデンティティ=ありたいこと)の問題なのだから、小浜耕治氏の議論は前提からしてズレている。

  • 言い換えるなら、人間の性的主体性(セクシュアル・アイデンティティ)とは「現在」にしか成立・通用しない概念である。
  • あるいは現時点では困難であっても、将来においてはトランスジェンダーを愛する可能性(ポシビリティ)に“開かれる”べきだと言い換えたところで、
  • 将来の可能性に“開かれる”態度は取りも直さず「現在」の問題であり、よって「現在」の主体性(アイデンティティ)に干渉する行為となるからだ。
  • したがってトランス主義者がしばしば口にする「(将来においてトランスジェンダーを愛する)可能性を提示しているだけで“強制”ではない」というエクスキューズは、その言に反して人間の性的主体性(セクシュアル・アイデンティティ)を否定し、《将来においてトランスジェンダーを愛する可能性に“開かれる”態度》を“強制”するものとならざるをえないのである。

じじつ小浜耕治氏もトランスジェンダージェンダーアイデンティティ性自認)を尊重すべきだと主張しているが、

しかしその一方で、異性愛者および同性愛者のセクシュアル・アイデンティティ(性的主体性)を否定している。これはダブル・スタンダードであり、

それこそシスジェンダー至上主義(シスジェンダリズム? というものがあるとすればだが)を裏返したトランスジェンダー至上主義(トランスジェンダリズムでしかない。 

なお、ここへきて小浜耕治氏から、実際にトランスジェンダー当事者と逢ったこともないのに、なぜトランスジェンダーを性的対象に含まないと言えるのか? という新たな論点が提示されているが、

その答えについては後述するとして、とりあえず先に進める。

さらに、実際に恋愛関係などにある時、相手の性自認性的指向が明らかになったところで、それのみを理由として関係を一方的に解消するというのは、どうなのだろうと考えます。個人同士の恋愛関係は、その人の全人格を受けとめるものではないかと思います。(セフレやアッシーくんなど、目的を限定した関係はここでは議論しません。)

(中略)

単一の要素がわかってそれを理由に一方的に関係を解消するのは、誠実な対応とは言えません。その要素が差別を受けやすい属性であるなら、それは差別だと言われます。

民族・国籍が違うとか、部落出身だとかで一方的に別れるとなったら、それは差別だと容易にわかることでしょう。 

個人同士の恋愛関係は、その人の全人格を受けとめるものではないかと思います。

これも前回指摘したことだが、

個人同士の恋愛関係は、その人の全人格を受けとめるもの勝手に決めつける一方で、

「性別」を「人格」から排除して、両者を排他的な二項対立に設定する小浜耕治氏の人間観は、まったく理解できない。

(セフレやアッシーくんなど、目的を限定した関係はここでは議論しません。)

ちょっと待ってほしい、なぜ「セフレ」「アッシーくん」を排除するのだろうか?

どうも前から気になって仕方がないのだが、小浜耕治氏の恋愛観の根底には、一人のひとを永続的に愛することこそが「正しい恋愛」であるというロマンティック・ラブ・イデオロギーによる頑迷な思い込みが、どっしりとアグラをかいているようだ。

繰り返すが、そのような恋愛観をもつこと自体は小浜耕治氏の自由である。しかし、それを他人に押しつけるのであればそれは「不自由」となる。そのようにして小浜耕治氏が自身の議論に都合良く設計した人間像は、現実の複雑で多様なセクシュアリティに対応することができない。

差別問題について的外れな講釈を垂れる前に、まず小浜耕治氏は、現実社会には多種多様な恋愛観だとか「性」のありよう(=セクシュアリティの多様性)が存在するという「不都合な真実」に目を向けるべきではないだろうか。

そも差別問題とは、人間の「権利(人権)」をめぐる議論であり、個人の恋愛観を押しつけ合うような話ではないはずである。

民族・国籍が違うとか、部落出身だとかで一方的に別れるとなったら、それは差別だと容易にわかることでしょう。

性的対象としての「性別」をめぐる問題を、なぜか無批判に「人種」にパラフレーズするというレトリックも、

トランス主義者に典型的な詭弁であり、当ブログでも折に触れて反証してきた。

それらをいちいち繰り返すと冗漫になるので、ここでは文脈に沿って最小限に留めるが、

元を正せば、なぜ「レズビアン」がトランス女性を性的対象に含めないことをあえて明言しなければならないのかというと、

それはひとえに「女性」を愛する「レズビアン」であれば「トランス女性」を愛せるはずだ・愛するべきだという偏見が、現実の社会に蔓延っているためだ。

現実の「レズビアン当事者」の中には「トランス女性」を性的対象に含める人もいれば、含めない人もいるにもかかわらず、

ただ「レズビアン(同性愛者)」であるという理由で「トランス女性」との恋愛やSEXを要求・期待することは、

まさしくレズビアン(同性愛者)」の性的指向(同性指向)を理由に性的主体性(セクシュアル・アイデンティティ)を否定・否認する《レズビアン差別》以外の何物でもない。

翻って「レズビアン」であれば特定の出自をもつ人や民族的マイノリティ(あるいは特定の容姿をなす人や障害者などでも)を性的対象に含めるべきだといった「偏見」は存在しない。このことからレズビアン」の性的対象について「トランス女性」を他の属性に置換するレトリックは成り立たないことがわかる。 

そうした雑なパラフレーズが許されるというのであれば、ここで私も「宗教」に喩えてみよう。

たとえばキリスト教が同性愛を禁止していると仮定して(※諸説あり。ちなみに小浜耕治氏はクリスチャン(震災後に受洗しました。――Twitterプロフィールより)とのこと)、

私たちがキリスト教徒に言えることは「その信仰を異教徒にまで押しつけるな」「他者の同性愛を否定するな」ということであり、

キリスト教徒が自らの信仰にもとづいて同性との恋愛やSEXを拒むことは誰にも否定できない。そうでなければ《信仰の自由》という人権・人格を否定することになるからだ。

言うまでもなく人権・人格はすべての人に等しく保障される概念であり、けっして小浜耕治氏の言うようにトランスジェンダーにだけ特別に付与される「特権」ではない。

その意味では、信仰もセクシュアリティも、個人のプライバシーにかかわる重要な人権問題であることに変わりない。そういった個人のプライベートな領域に、トランスジェンダリズムクィア理論にもとづく偏狭かつ独善的な「政治的正しさ」を振りかざして干渉する行為は《人権侵害》であり思想検閲に相当する。

さらにいえば、人に与えられた正当な「権利」「自由」について、無用な罪悪感を植えつけることでその正当な(←大事なことなので二回言いました)行使を妨げ、相手を支配しようと試みるのは、まさにカルト宗教の洗脳のテクニックそのものだ。小浜耕治氏らの“信仰”するトランスジェンダリズム「トランスカルト」と呼ばれる所以である。

  • ちなみに前回の議論において、私は小浜耕治氏にトランスジェンダーを性的対象から除外することによって、トランスジェンダーの人権・人格が、どのように侵害されるのか?」と尋ねたものの、
  • けっきょく氏から回答は得られなかったことを付記しておく。
  • また同様の質問を、能川元一氏に投げかけても同じであった。

もう一点、恋愛は相手の性別を前提に成り立っているのでそれが変わったらそもそもその前提が崩れるから必然的に解消となるという意見がありました。 これにはいくつかの点で錯誤があるかと思います。

その一つは、性別は変わらないという前提は誤りだということです。ましてや性別を厳密に確認した上で始まったものではないでしょう。

小浜耕治氏が挙げている恋愛は相手の性別を前提に成り立っているのでそれが変わったらそもそもその前提が崩れるから必然的に解消となる》というのは、

まさに前回の議論で提示した私の「意見」であるけれど、

しかし私は「性別は変わらない」などとは一言も言っていない。

ここでいう「性別」とは「性的指向」を想定したものと思われるがが、

性的指向に変化があるか否かは、人によって様々であり、変化しないと決めつけるのも、変化すると決めつけるのも間違いだ。

ただ一つ言えることは、性的対象の問題に際して、可能性(ポシビリティ=できること)ではなく、主体性(アイデンティティ=ありたいこと)を尊重するべきだということである。

なぜならば繰り返しになるが、人間の性的主体性(セクシュアル・アイデンティティ)を否定することは「性の自己決定権」の正当な行使を妨げる《人権侵害》であり、

ましてやそれが「レズビアン」に適用されるのであれば――否、「レズビアン」だけを免除する理由もない――レズビアン差別》となるからだ。

トランスジェンダーは特殊な性別のあり方だという、シス中心主義に基づいた感覚で、これに囚われると差別することになりがちなので、注意が必要だと思います。

たしかに小浜耕治氏が指摘するとおり、トランスジェンダーを性的対象に含めないというセクシュアリティが、トランスジェンダーを“特殊視”する「トランスフォビア(トランスジェンダー嫌悪)」に立脚している場合もありうるだろう。

しかしこれも繰り返し述べてきたとおり、

トランスジェンダージェンダーアイデンティティ性自認)を尊重することと、トランスジェンダーを性的対象に含めるか否かは、まったくの別問題である。

すなわちトランスジェンダーを性的対象に含めないというセクシュアリティ「トランスフォビア(トランスジェンダー嫌悪)」に立脚している場合もあれば、それと無関係の場合もあるという当たり前の話であり、

ゆえにトランスジェンダーを性的対象に含めるか否かで「トランスフォビア」の有無を判定するのは失当ということだ。

差別は意識的に行うだけでなく、自分が身を置いている社会のあり方が差別的な行動や言動を生むこともあります。差別のある社会の中で、自分は差別に当たることをしていないだろうかという意識を持つことは、差別しないために必要な姿勢だと考えます。

小浜耕治氏の主張していることは、じつに素朴でナイーブな「原罪論」だ。

《差別のある社会》においては、誰しもが何らかの形で「差別」に加担しうるし、あらゆるセクシュアリティが「差別」と結びつく可能性を有している。

しかし、だとすればなおのことトランスジェンダーを性的対象に含めないという特定のセクシュアリティだけをあげつらって“差別的”と決めつけることもできない。

元より、一切の“差別性”を伴わないセクシュアリティなど成立しえない。仮にトランス女性を性的対象に含める人であっても、実際にはトランス女性であれば誰でもいいというわけではなく、身体女性に見た目が限りなく近い――当事者の言葉を用いるなら“パス度の高い”トランス女性を選ぶ傾向にある。なんのことはない、それは形を変えた「シスセクシズム」に他ならないのではないか。

まして《差別のある社会の中で、自分は差別に当たることをしていないだろうかという意識を持つこと》は、あくまでも自分自身に向けて問いかけるべきことであり、

それを根拠に他人を糾弾・恫喝するようになれば、ただ自分の気に食わない奴に「差別主義者」のレッテルを貼って無制限に攻撃するだけの魔女狩りに変容する。

そも「差別」を告発・批判するにあたっては、何が「差別」に“当たる”のかを論理的に証明することが必須となる。

げんに私は当ブログをとおして、トランスジェンダーを性的対象に含まないことを《トランス差別》と決めつけるトランスジェンダリズムおよびクィア理論こそが、まさしくレズビアン」の性的主体性(セクシュアル・アイデンティティ)を否定・侵害する《レズビアン差別》の思想であることを論証してきた。

「差別」を指摘されたら、まず立ち止まって考えるべし、といったことをトランス主義者・クィア主義者はきまって偉そうに口にする。しかし一方で自分たちに向けられた、私の《レズビアン差別》の告発には立ち止まって考えようともしない(じじつ「原罪論」は、むしろ「差別」の正当化や告発の無効化に利用されてきたレトリックだ)

けっきょくのところ、小浜耕治氏に象徴されるトランス主義者・クィア主義者は「差別」に反対しているわけではなく、

ただ見ず知らずの他者を「差別主義者」に仕立て上げ、一方的に“糾弾”するという特権的立場に自らを置くことによって、自己の内にあるレズビアンへの「差別意識」を正当化しているにすぎないのだ。

だいいちトランスジェンダーを性的対象に含まないことが「トランスフォビア(トランスジェンダー嫌悪)」という勝手な思い込みからして、まず疑ってかかる必要がある。

男性の異性愛者であれ女性の同性愛者(レズビアン)であれ、ただ漠然と「女性」が好きだといった場合に、

「ただし性器はペニスに限る」「ただし染色体はXYに限る」

などといちいち指定することは(それこそ「ペニスフェチ」「XY染色体フェチ」といった“特殊”な性的嗜好でもないかぎり)、まずないであろう。

つまりトランスジェンダーを性的対象に含めない(性的対象から除外する)ということは、実際のところトランスジェンダーを“嫌悪”しているのではなく、ただ性的対象として“想定していない”という話にすぎない。

しかるにトランスジェンダーに限らず、性的対象にならない人との恋愛やSEXを想定して、嫌悪感を抱くのは、ごく自然な心理ではないだろうか。

換言すれば、むしろ「もし彼女がトランスジェンダーであっても愛しますか?」などという無神経で傲慢な問いを投げかける者こそが、必要のない「トランスフォビア」を煽り立てているのが実情なのだ。

したがって、自らの“意識お高い”アピールの為に、見ず知らずの他人を「トランス差別主義者」に仕立て上げてマウンティングするための“踏み絵”として「トランスジェンダー」の存在を利用する、

小浜耕治氏のようなトランス主義者(トランスジェンダリズム信奉者)の振る舞いこそ、

まさしくトランスジェンダー」に対する“政治的搾取”と言う他ないのである。

 

【トランスQ&A】Q:恋人の性別が変わっても「恋愛関係」を続けなければ《トランス差別》になりますか?~LGBT活動家・小浜耕治(aoikousi)氏に訊く

(2023年2月25日 加筆修正)

当ブログでも取り上げた国連スローガンWould you still love her if she were transgender?もし彼女がトランスジェンダーであっても愛しますか?)》をめぐって、また新たな解釈にもとづいて支持するトランスアライの人が現れたのでご紹介します。

以下に続く、仙台のLGBT活動家・小浜耕治(@aoikousi氏と私の議論を、インタビュー形式でまとめました。 

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Twitter上の会話をインタビュー形式で編集するにあたり、次の加筆修正を行いました。

  • 強調・改行
  • 明らかな誤字の差し替え
  • 言葉のニュアンスや議論の流れに影響しない程度の補足
  • 私自身の解説・感想

インタビュー中に引用したツイートのURLは省略しました。必要な方は当方のTwilogから当日のツイートを辿ってください。

当日のTwilog

https://twilog.org/herfinalchapter/date-210726

トランスであることを理由に関係を終わらせたら、それは差別でしょう。勘当したり、家族に反対されて別れたりって言うのは、トランスを理由に解雇するのがダメなのと同じでしょ。すでにある関係性を侵すわけだから。
これから関係を持つかどうかの、個別の個人的選択とは違う話。

https://twitter.com/aoikousi/status/1419327320746184709

さて議論に入る前に、確認しておかなければならないことがあります。

まず《勘当したり、家族に反対されて別れたり》という家庭内の問題、あるいは《トランスを理由に解雇》という就職・労働の問題。

次にトランスジェンダー(※ここでは性別が変化した恋人)」との「恋愛関係」を継続するか・解消するかという個人のセクシュアリティ、あるいは当事者間のプライベートな「関係性」の問題。

これらはそれぞれ、まったく別次元の問題であるはずですが、小浜耕治氏の議論では、どういうわけだか無批判かつ無条件に混同されています。

加えて「トランスジェンダー(性別が変化した恋人)」との「恋愛関係」を解消するという個人間の「関係性」の問題と、そうした「恋愛関係」を“持つ”以前に「トランスジェンダー」を恋愛対象から除外すること――小浜氏のいう「個別の個人的選択」を恣意的に線引きした上で、

前者が「差別」であり、後者が「差別」でないとする小浜耕治氏特有の解釈も、よくわかりません。

つまり小浜耕治氏の議論は、その前提からして間違っているわけで、もうこの時点で暗雲が立ち込めているのですが――

* * *

聞き手:百合魔王オッシー(@herfinalchapter)

――恋人の性別が変わったら、私の恋愛対象ではなくなるので「恋愛関係」は終わりますね。友達にはなれるかもしれませんが。

 で、それが「差別」なのですか。

小浜 性別が変わると恋愛対象でなくなるというのは、どういう根拠なのでしょうね。
性別だけが根拠で維持される恋愛って、硬直してませんか?

 葛藤はあるでしょうが、それだけで判断はしないでしょう。トランスジェンダーだとわかっても、その人の人格は変わっていませんよ。

――それは貴方の価値観で「差別」であるか否かという問いの答えにはなっていませんし、それを人に押しつけるのも間違いです。

 つーか一度「恋愛関係」を結んだ人とは性別が変わっても「恋愛関係」を維持しなければならないというのは、それこそ“硬直”した考え方ですね。

 あと「性別」を人格から切り離すのも意味不明です。

  • そもそも「性別」が変わっても「人格」が変わらないというのが意味不明です。たとえば〈女性〉が〈男性〉に変わったなら、仕草や口調や思考や趣味も“男らしい”ものとなり、さらに性別適合手術を受けるのであれば性器の形状や(ホルモン量の変化に伴う)体格も変わるのだから、これはもう「人格」どころか、それこそ染色体を除けばまったくの別人になるといっても過言ではないと思うのですが……。

小浜 恋愛関係が終わるのにはいろいろ要素があるでしょう。それを考えないで「性別が変わった」のみで即決したら「性別が変わる」ことに特にネガティブに考えてるってこと。それは社会のトランスフォビアの影響を受けた自分の問題でしょ。

 もちろん性別は人格の一部よ。でも全部じゃないって言ってるの。

 「性別が変わる」にもいろいろあるわ。戸籍性を変更したら結婚できなくなるというのだったら、それは制度的差別です性別を変えた人に責があるわけではない。制度も含めて関係を話し合えば良いこと。終わらせるという選択も有り得るけれど、それは一方的なものではないでしょう。関係性の問題よ。

  • なぜ急に「オネェ言葉」になるのかわかりません……。

――ただ恋愛対象でなくなるというだけで《「性別が変わる」ことに特にネガティブに考えてるってこと》ではないですね。

 むしろ貴方こそ恋愛対象でなくなることを《特にネガティブに考えてる》だけでは。

 私は男性の異性愛者なので、女性(異性)のパートナーが「男性(同性)」に変わったら恋愛対象(性的指向)から外れるというだけですね。

 《「性別が変わる」ことに特にネガティブに考え》てなどいませんし《トランスフォビアの影響を受けた》わけでもありません。

 どうして見ず知らずの貴方に私の内面的な「考え」を勝手に決めつけられなければならないのでしょうか。

 性別が人格の「全部」であるとも言っていません。勝手な決めつけはやめてください。 

 ただ、性別が変われば人格だけでなく容姿も変わりますね。 容姿を基準にパートナーを選別するのが「差別(ルッキズム)」であるとするなら、そもそもパートナーを“選別”するという行為自体が“差別的”ということになってしまうのでは。

 もっとも《制度も含めて関係を話し合えば良いこと。》というのは仰る通りです。

 私がパートナーとどのような「関係性」を形成するかは、私とパートナーが話し合って決めることで、見ず知らずの貴方にジャッジされる筋合いはありません。

小浜 「性別が変わった」のみで即決したら「性別が変わる」ことに特にネガティブに考えてるってこと。それは社会のトランスフォビアの影響を受けた自分の問題でしょ。 相手に責はない。二人で話し合うことよ。

――「責?」があるだのないだのという話はしていません。【相手】が悪いとも言っていない。

 「トランスフォビア」はさておき「自分の問題」というのは、たしかにそのとおりで、それこそ私自身の問題について見ず知らずの貴方に干渉される筋合いはありません。 

小浜 性別が変わるって言うけど、何を指してるの? 性自認は変わってないでしょ。カミングアウトしただけ。

――えっ? 「トランス男性は男性」なんですよね? だとすれば男性異性愛者(あるいは女性同性愛者)の性的指向から外れることになりますよね。

 もちろん個々の事例としては「恋愛関係」を維持する人たちもいるでしょうが、それは個人の問題であるはず。

小浜 性自認が変わるのが「性別が変わる」ってことなのね。すでにその人を好きになってるのに、性的指向から外れることになるのかしら?

 好きになってきた経験で、性的指向は明確になっていくわよね。時には揺らいだりもする。

  • 抽象的な言い回しでわかりにくいのですが、ようするに小浜耕治氏の言わんとするところは、恋人の性別の変化に応じて「性的指向」も変えていくべきという主張のようです。
  • しかし前にも述べましたが、それは小浜耕治氏の価値観であって、人に押しつけるのは間違いです。
  • トランスジェンダージェンダーアイデンティティを尊重すべきであるというなら、異性愛者および同性愛者のセクシュアル・アイデンティティも尊重すべきでしょう。

――性自認が変われば容姿(髪型や服装の好みなど)だって変ってくるんじゃないですか? 加えてSRSを希望しているのであれば性器の形状も変わり、SEXの仕方も変わりますね。

 その上で「恋愛関係」を維持するか否かは性的嗜好」の問題であり「差別」ではありません。

小浜 フォビアに影響されてネガティブに、って言うのは無自覚にそうなることが多いから恐いのよ。悪気はなくても差別は差別ということ、大事な点ですね。

――いや、私は「トランスジェンダー(あるいは性別を移行した恋人)」を恋愛対象から除外することが「差別(トランスフォビア)」であるという前提自体に疑義を投げかけているわけですから、

 それを一方的に「差別(トランスフォビア)」と決めつけた上で《無自覚にそうなることが多いから怖いのよ。悪気はなくても差別は差別》といった教条主義に繋げるのは論点先取ですね。

  • 「トランスフォビア」にかぎらず、おうおうにして当人の差別意識に当人が“無自覚”で、第三者から指摘されても認めようとせずに開き直る――というのは、たしかに《差別あるある》ではあります。
  • その意味で、小浜耕治氏の批判は一見、的確であるかのように思えますが、しかしじつのところ、やはり論点がずれているのです。
  • なぜなら、人が“無自覚”のうちに「トランスフォビア」に影響される可能性がありうることと、
  • トランスジェンダー(あるいは性別を移行した恋人)」を恋愛対象から除外するというセクシュアリティが「トランスフォビア」に影響された結果であるか否かは、まったく別次元の問題であるからです。
  • しかるに小浜耕治氏は「トランスジェンダー(あるいは性別を移行した恋人)」を恋愛対象から除外することが「差別(トランスフォビア)」であるという命題を何ら立証できず、ただそれを一方的に「差別(トランスフォビア)」であると強弁しているだけです。
  • そうした小浜耕治氏の勝手な思い込みにもとづくレッテル貼りは、ひとえに「トランスジェンダー(あるいは性別を移行した恋人)」を恋愛対象から除外するという事象を、それこそ“ネガティブ”に捉える小浜耕治氏自身の偏見を露呈しているにすぎません。

――で、やっぱりトランスジェンダーを性的対象に含めない(性的対象から除外する)ことは、貴方に言わせると「差別(トランスフォビア)」なんですね?

小浜 そうじゃないでしょう。関係性がまだないときに断るのは、相手が気に入らないだけでしょ。

――恋人の性別が変わっても「恋愛関係」を維持しなければ「差別」と見なされるのであれば《関係性がまだないとき》でも【相手】の性別が変わる可能性を考慮しなければならないので、どっちみち同じですね。

 言い換えるならトランスジェンダー(性別が変化した恋人)」との「恋愛関係」を解消することが「トランス差別」に含まれるかという話でしょ?

  • 以下に続くやり取りは、小浜耕治氏の側が新たに提示してきた論点が議論の本題から外れているため、読みやすさを考慮して削除することも考えましたが、小浜耕治氏がどのような物の考え方をする人物であるかを示す材料となりうるかもしれないので、別枠でまとめます。

小浜 たとえば、ブッチなレズビアンだと思って付き合ったら、トランス男性だったとして、それだけの理由で別れるかしら?

 「トランス男性です」と言われて付き合うかどうかは個人的な選択で、そんなのは「差別」とは言えない。

 ただ、見た目と性自認が違うかもって想定できないのは、トランスの存在を不可視化してる社会の「差別」ではあるわね。

――そんな話はしてませんね。「恋愛関係」を結んだ時点では「見た目と性自認」が同じだった恋人の「性自認」が変化した場合の話だったはずでは?

 いずれにせよTGがマイノリティである以上、それはレアな事例で、そのようなものを一概に「差別」と決めつけることはできないのでは?

  • 後から気付いたのですが《ブッチなレズビアンだと思って付き合ったら、トランス男性だった》というのは、性別性自認)が“変わった(変化した)”というより、もともと性自認が曖昧な人だったというだけでは? 
  • いずれにしても、恋人の「性別」が変化するという命題から一般的に想定される事例とは掛け離れていますね。

小浜 これは「見た目」と「性自認」が同じ人の性自認」が変わったって例なんですけど、わかりますか?

――????? その人がトランス男性“だった”のであれば、相手の側がその人の「性自認」を誤解していただけなので、 性自認」が“変わった(変化した)”わけではないですよね?

 つーかどうして、そのように論点を摩り替えてまで見ず知らずの他人を「トランス差別主義者」に仕立て上げることに躍起になってるんですかね? 糾弾自体が自己目的化しているとしか言い様がありません。

小浜  差別主義者じゃなくて、社会にトランス差別があるから気を付けないと踏んじゃうよって話なんですけどね。

――で、貴方はやはりトランスジェンダー(性別が変化した恋人)」との「恋愛関係」を解消することを「差別」だと考えるんですね? なら初めからそう言えばいいんじゃないですか?

小浜 差別に含まれますよ。

――トランスジェンダー(性別が変化した恋人)」との「恋愛関係」を解消することが「トランス差別」に含まれるという小浜耕治氏のお考えは理解しました。

 しかし、それを「差別」と判断される根拠は何でしょうか?

 そもそも《性別だけが根拠で維持される恋愛》が「硬直」しているというのは、 たんなる小浜耕治氏の感想であって「差別」であるか否かの判断とは無関係ですね。

 「差別」でないことを「差別」と言い張るのは差別概念の恣意的な濫用であり、ひいては反差別運動への信頼を失墜させます。

 念の為確認しますが、ここでいう「差別」というのは《人権侵害》のことですよね?  

 私が「恋愛関係」を解消したとして【性別が変化した恋人】の「人権」を、どのように“侵害”することになるのですか?

小浜 トランスジェンダーの人格否定という人権侵害ですね。

――「人権」を「人格」に置き換えただけのトートロジーで、まったく答えになっていませんね。

 私が【性別が変化した恋人】との「恋愛関係」を解消したとして、【性別が変化した恋人】の「人格」を、どのように“否定”することになるのですか?

 というか、私の「人権(性の自己決定権)」はどこへ行ったのでしょうか?

小浜 それぞれ話し合って、受け入れられるかどうか? 無理だからSRSは諦めるか? 性別変更するから離婚するか? 関係を解消するかを二人で決めれば良いでしょ。お互い納得すれば良い。

  • 議論をあらためて読み返してみると、どうやら私と小浜耕治氏との間で「恋愛(もしくは恋人)」に対する考え方も大きく異なっているのではないかという気がしてきました。
  • 私の場合ですと、とくに結婚願望はなく、恋人はいたらいたでいいし、いないならいないでいいといった感じで、一人のひとに執着することもないため、無理に相手に合わせる必要はないというスタンスです。
  • ただし「恋愛関係」という側面では“終わった”としても、裏を返せば「恋愛関係」とは異なる、別の新たな「関係性」に移行する可能性はあります。
  • その意味で、いちおう「友達にはなれるかもしれませんが」と譲歩をつけたのですが、それでもダメとのこと。厳しいです(泣)。

――相手がトランスであろうとシスであろうと「恋愛関係」は双方の合意の上に成り立つのですから、 一方の「当事者」である私が合意を断った時点で「話し合い」は終了です。

 トランスジェンダーの権利(人権)が強調される一方で、私の「人権(性の自己決定権)」は尊重していただけないのですか?

小浜 双方合意の上成り立っているものを、「性別」だけを理由に一方的に解消することはできないということです。

  • ?????
  • 「恋愛関係」が《双方合意の上成り立っているもの》なのであれば、なおのこと一方の意志だけで(維持・継続すること)は成り立たないのでは?
  • というか一方の要求だけで成立する関係性なら「双方の合意」は必要ありませんね。何を言っているのかさっぱりわかりません……。

――「できない」とは? 何の根拠があって見ず知らずの私とパートナーの「関係性」を、そのように断定されるのですか?

 繰り返し訊きますが、私の「人権(性の自己決定権)」はどうなるのですか?

小浜 やったら差別になるよってことです。

 自己決定すれば良いですが、そのための情報をコミュニケーションの上で得ていないと、差別に誘導されてしまうと話しています。

 説明したら過剰だと言い、明確に言っても反発しかしないのは疲れます。

  • 小浜氏の言う《説明したら過剰》というのは、上に別枠でまとめた箇所を指していると思われます。ですが既述のとおり、それは論点がまるっきりズレているので「説明」になっていません。

――「そのための情報」とは? 何のための「情報」ですか?

 また「説明」が「過剰」だとは言っていません。論点がずれているので「説明」になっていないと指摘しています。

 私の「人権(性の自己決定権)」を、見ず知らずの貴方から頭ごなしに否定されているのだから“反発”するのは当然では?

  • それにしても「反発」という物言いもすごいですね。
  • なにやら勘違いなされているようですが……私は小浜耕治氏から“講義”を受けているわけではなく、ただ氏の主張の不備や矛盾を論理的に指摘しているだけです。ましてや私は、氏の生徒や部下になった覚えもありませんし、彼にその資質があるようにも思えません。

ご覧のとおり小浜耕治氏は、トランスジェンダーに対する「嫌悪(トランスフォビア)」の問題と、トランスジェンダーを「性的対象」に含むか否かという「性の自己決定権(性的主体性)」の問題が、ごっちゃになっています。

小浜氏の言うように、トランスジェンダーに対する「嫌悪」を理由としてトランスジェンダーを「性的対象」から除外する人もいるでしょう。しかし一方で、逆にトランスジェンダーと好んでSEXする人が、そのじつトランスジェンダーに対する偏見や侮蔑(トランスフォビア)に凝り固まっている場合も少なくありません。

そも私自身を含めてトランスジェンダーを「性的対象」に含まない人の多くは、トランスジェンダーを“嫌悪”しているわけではなく、たんにトランスジェンダーとの恋愛やSEXに興味がない・想定していないだけではないでしょうか。

このようなセクシュアリティの多様性から導き出されるのは、すなわちトランスジェンダーを「性的対象」に含むか否かで「トランスフォビア」の有無を判断することはできないという帰結です。

小浜耕治氏の“硬直”した世界観は、現実世界のそうした多様かつ繊細な人間の性のありように対応できていません。このように非論理的で粗雑な物の考え方しかできない小浜耕治氏は、人間のセクシュアリティや差別といったセンシティブな問題を議論することに向いていません。

そして――

f:id:herfinalchapter:20210726230011p:plain

Q:恋人の性別が変わっても「恋愛関係」を続けなければ《トランス差別》になりますか?

A:なる、そうです。

 

もし彼女がトランスジェンダーであっても愛しますか?――国連スローガン「失敗作」に隠されたダブル・バインドと《レズビアン差別》

今から2年前、日本国内でトランス女性問題をめぐる議論が活発化し始めた頃に、国連機関「UNAIDS」が発表した奇妙なスローガンが注目を集めた。

主にレズビアン差別の問題を提起する当ブログが、トランス女性問題にも取り組むきっかけとなった事件であり、当時の議論を受けて次のような記事を作成している。

ossie.hatenablog.jpさて、それから2年の月日が流れた今頃になって突然、このスローガンの「真意」を理解できると豪語する人物「シダーローズ(@Cedrus21)」が現れた。

国連の啓発ポスター
"Would you still love her if she were transgender?"
性的指向を強要される!とjijiが意図的にデマ誤訳した案件として記憶に残るが、このメッセージの真意は私たち自身にも届かず仕舞いで終わったように思う。
「弱者だから」守る?
「可哀想だから」寄り添う?
「マイノリティだから」マジョリティの責任を果たす?
それらは全て正解で、そして何かが足りない。
高みの上から一方向的に保護を与えるのではなく、自分の人生もろとも巻き込み巻き込まれながら共に生きる=愛する覚悟はある? と問われている。
トランスアライの在り方が問われている今、このメッセージは抑圧者のみならずアライにも向けられた問いとして向き合っていきたい。
トランスジェンダーだったとしても、それでも愛し続けますか?
それは性的指向を超えて、ともに生きていく覚悟を問うているのだろう。
https://twitter.com/Cedrus21/status/1419124217908396036
https://twitter.com/Cedrus21/status/1419126460770443267
https://twitter.com/Cedrus21/status/1419125268879339523

自分が作ったわけでもないポスターに関して、ずいぶんと思い込みの激しい自己主張である。

さらには、例のシオヤギくん(@Gay_yagiまで参戦し、たいへんなことになっている。

しかしシダーローズ氏もシオヤギくんも、どうやら根本的に勘違いしているみたいだが、

表現を“読み解く”という作業は、その表現が現実社会の中で、実際にどのような意味を成すものとして機能しているかという“機能性”“意味性”を検証する行為であって、

表現者「意図」三者が自分勝手にあれこれと推察・忖度し、あまつさえそれを人に押しつけることではない。

後者(=シダーローズ氏ならびにシオヤギくんがやっていること)の試みが、なぜ不毛であるかといえば、

それは実際に表現されたものが、おうおうにして表現者自身の「意図」どおりのものに仕上がるとは限らないからだ。また、表現の解釈が不特定多数の受け手の側に委ねられている以上、受け手が表現者の「意図」どおりに表現を受け容れなければならないなどという道理もないし、そのような“主張”表現者のエゴでしかない。

しかるに、表現者「意図」について「そうであるに違いない」“主張”しているのはjiji氏ではなくシダーローズ氏ならびにシオヤギくんの方であり、

jiji氏の側は元より表現者「意図」ではなく、表現自体の“機能性”“意味性”について指摘しているのだから、話が噛み合うはずがないのである。

その前提を踏まえた上で、話を戻すが、

まず言葉の定義として《自分の人生もろとも巻き込み巻き込まれながら共に生きる》ことを「愛する(love)」とは言わない。よしんばそのような「愛(love)」の形がありうるとしても、それはシダーローズ氏の個人的な恋愛観の“主張”にすぎず、一般的な解釈として「愛する(love)」という言葉自体にそのような意味はない。

むしろ、あのように男女が額を寄せ合うステレオタイプなロマンティック・ラブ・イデオロギーに根ざす図案をあえて採用しておきながら、それが「恋愛」を意図したものではないのだと言い張るのは無理があるだろう。

じじつ私が上掲の記事で取り上げたとおり、例の国連ポスターの「真意」がどうあれ、トランスジェンダーを恋愛対象に含めないのは「差別」と解釈した上で、なおかつそれを支持する人たちがいるのは事実なのだから、それ以外の解釈を提示したところで論点ずらしにしかならない。

だいいち「当事者や団体の誰もそのような主張はしておりません」とのたまう当のシオヤギくん自身が、まさしくトランスジェンダーを性的対象に含めないのは「差別」だと“主張”する張本人――それこそ当人の「意図」がどうあろうと、結果としてそのような“機能”“意味”を成している――であることは、これまで当ブログで検証してきたとおりだ。

ossie.hatenablog.jp

ossie.hatenablog.jp

一方、シダーローズ氏の上から目線かつ的外れな講釈は尚も続くので見てみよう。

Would you still love her if she were transgender?
これを「性的指向の強要及び反する者は差別者である」と性的なイシューに限定したことは非常に読みが浅く、既に関係が成立し共に生きるシス/トランスカップルの現実を一つも汲み取っていない。
おそらくあなた(※引用者註:jiji氏のこと)が想定したような、これからセクシュアルな関係を取り結ぶ出会いたてのカップルも含まれるだろうが、現実のシス/トランスのカップルはヘテロカップルとして数年を過ごした後にトランジションを始めるケースも多く、その背景には社会に蔓延する性的逸脱へのフォビアの乗り越えや法制度の施行年も深く関与する。
そういった歴史や背景込みで複雑多岐にわたるカップルの関係性が破綻した時、不利益を被りやすいのは決まって社会の受け皿が圧倒的に少ないトランスジェンダー側である。それらの多様なトラブルを包括したメッセージであると、トランスのリアルを知れば知るほど見える文脈がある。
そういったリアルの厚み──それらは"still"や"were"という単語に表れている──を一蹴し下世話なベッドの中のポリティクスに翻訳した、のみならず差別者と言われる!と煽動してしまった点が「誤訳」ではなく、なんであると?
日本政府は(※引用者註:コロナ対策について?)1年の猶予がありながら何も感染対策を講じてこなかったと批判を受けているが、あなたもここ数年トランスの生きた声に耳を傾けるコストは払ってきた? 何のリアルを知ろうともせずモンスター像を作り上げるだけだったなら、差別者の誹りを免れないのは必然だろうとしか言いようがないよね。
https://twitter.com/Cedrus21/status/1419140867332341760
https://twitter.com/Cedrus21/status/1419141206055940101
https://twitter.com/Cedrus21/status/1419141714762100738
https://twitter.com/Cedrus21/status/1419142827129196545
https://twitter.com/Cedrus21/status/1419142933463257091

「既に関係が成立し共に生きるシス/トランスカップル」であれば、既に愛し合っているのだから、いちいち赤の他人が《Would you still love her if she were transgender?》と問うまでもないだろう。

いずれにしても問題のポスターが、そのような限定された事例を想定しているのであれば、なおのこと不特定多数に向けたスローガンとしては、独り善がりで言葉足らずの「失敗作」と断じざるをえまい。

またシダーローズ氏の恣意的な解釈がどうあれ、いずれにせよ「もし彼女がトランスジェンダーであっても愛しますか?」という問いに対して、

「はい、私は彼女の生物学的性別がどうあろうと愛し続けます」と答えなければ「シスセクシズム?」に影響されたトランス差別主義者として“糾弾”される定めにあるのだから、やっぱりそれは「差別者と言われる!」という解釈で合っていることになる。

言い換えるなら《Would you still love her if she were transgender?》という問いは、そのじつ単純な“問い”ではなく、それを拒む者を「トランス差別主義者」に仕立て上げて、無制限の“糾弾”を可能とするためのダブル・バインド(二重拘束)に他ならないのだ。

元より、人がどのような基準で「誰(どのような性別のひと)」を愛するか、あるいは愛さないのかという恋愛対象(性的対象)の問題は、人間の「性的主体性」「性の自己決定権」に関わる重大なイシューであり、

それこそ「下世話なベッドの中のポリティクス」などという“下世話”な言葉で切り捨てていいはずがない。

そのようにして「性的なイシュー」“下世話”と決めつけて切り捨てる傲慢な発想の根底にあるのは、生殖に結びつかない性欲を《変態》と位置づけるヘテロセクシズム(異性愛至上主義)に他ならない。

そしてレズビアン差別》の告発も、ひいては「レズビアン」の存在自体もまた、そのような「下世話なベッドの中」の問題に矮小化され、強制異性愛社会の中で黙殺されてきたのが「歴史や背景」だ。

げんに問題のポスターは、図案からして男女のカップルを想定したものと思われるが、当然ながら《Would you still love her if she were transgender?》という問いは、

男性の異性愛者のみならず、女性の同性愛者にも向けられるものだ。

あるいはそれが「レズビアン」に向けられたものでないとしたところで、人が「女性」を愛するという事象について「男性の異性愛者」のみが想定され、「女性の同性愛者」の存在が排除されるのであれば、それこそ「異性愛至上主義」「男性至上主義」に陥ってしまうことになる。

ようは、女性を性的対象にする「レズビアン」であれば、女性である「トランス女性」も愛せるはずだ・愛するべきだ、というのがシダーローズ氏に象徴される「トランス主義者」の一般的な主張である。

実際の「レズビアン当事者」の中には、男性異性愛者と同様に、トランス女性を性的対象に含める人もいれば、含めない人もいる。それを「女性を愛するレズビアン」であるならば「トランス女性」も愛せるはずだ・愛するべきだ、などと一概に決めつけるのは「レズビアン当事者」のセクシュアリティの多様性を否定する「差別的偏見」の最たるものだ。

そしてそれは、けっきょくのところレズビアン」が同性愛者であっても「女性」である以上は男性(異性)を愛せるはずだ・愛するべきだとするヘテロセクシズム(異性愛至上主義)を、ただ「男性」を「トランス女性」に置き換えて行使していることになる。

毎度のように長々と述べてきたが、今回も結論は同じである。いずれにせよトランスジェンダーを性的対象に含めるか否かは、人権意識や「政治的正しさ」の問題ではなく、あくまでも個人のパーソナル(私的)な「性的嗜好でしかないということだ。

それを「Personal is Political」などとうそぶいて、個人のセクシュアリティにまで介入しようと試みるトランスジェンダリズムおよびクィア理論は、レズビアンの「性的主体性」「性の自己決定権」を侵害する《レズビアン差別》の思想であり、

またそのような下卑た試みを正当化するトランスジェンダリズムおよびクィア理論の「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」こそ、まさしく「下世話なベッドの中のポリティックス」以外の何物でもない。 

 

 

【補足】あるゲイ男性を「ペニスフェチ」呼ばわりする“クィア主義者”kazukazu(kazukazu881)の英語力についての「疑惑」

(2021年10月16日 追記)

前回の記事では、kazukazu(@kazukazu881というクィア主義者のツイートを参照しながら、

生物学的性別の概念・定義から「性器(の形状)」を除外しようとする、クィア理論の詭弁術について検証した。

だが、その一連の議論には、じつはもう一つ別の論点が派生している(ただし後述の理由から反論の本筋には含めず、こうして『補足』として付記するに留める)。

* * *

そも、議論の大元となったkazukazuのツイートはこれだ。

すなわちkazukazuは《男性器が好きだ、だからトランス男性は受け付けない》という【ゲイ男性】のセクシュアリティについて

《個人の嗜好なのでそれはそれで良いとは思います》とうわべだけの理解を示しつつも、

同時に「ペニスフェチ」などという侮蔑的な呼称を当てはめている。

このことに対するkazukazuの、まったく説得力のない弁明が以下だ。

しかし、そもkazukazuが、わざわざ生物学的性別の概念・定義から「性器の形状」を除外するなどという不自然なレトリックを用いるのは、元を正せば

恋愛やSEXのパートナーを「性器の形状」にもとづいて選別することが《トランスジェンダー差別》であるというトランスジェンダリズムにもとづく主張である。

ゆえにそのことから、人間の性的嗜好を「性器のみ」と「それ以外」に二極化する排他的な二項対立の世界観が構築されている。

すなわちkazukazuは、当人の言に反して、恋愛やSEXのパートナーを「性器の形状」にもとづいて選別するというセクシュアリティをまったく“尊重”などしておらず、

ゆえにそうした文脈で用いられる「ペニスフェチ」という語彙も、必然して否定的・侮蔑的なニュアンスを帯びることになるのだ。

* * *

上掲したのはゲイ男性の事例であるが、言うまでもなくレズビアン女性もまた、トランス女性を性的対象に含めないことによって「まんこフェチ」「まんこ好き」あるいは「ペニス恐怖症」などといった侮蔑的な呼称を投げつけられている。

togetter.com

前回の記事と重複するが、この問題に関するkazukazuの見解を再度引用しておく。

しかしこれは、何の反論にもなっていない。裏を返せば【性器を重視する同性愛者】に関しては、やはり「性器フェチ」と呼ばれても仕方がないということになるからだ。

言い換えるならクィア理論とは「レズビアン」のありようについて

【トランス女性を性的対象に含める“政治的に正しいレズビアン

【トランス女性を性的対象に含めない“政治的に間違った”レズビアンに分断する。

だが、このようにして「レズビアン」のありようをクィア理論が定める「政治的正しさ」にもとづいて序列化すること自体が、

特定の「レズビアン」のセクシュアリティを特権化する一方で、それにそぐわない「レズビアン」を劣位に貶める《レズビアン差別》に他ならない。

あらためて確認するが、元より【トランス女性を性的対象に含めないレズビアン】は、なにも「トランス女性」を“嫌悪”しているわけではなく、

たんに「生物学的性別(を含めた複合的性別)」に基づいて性的対象を選別しているにすぎず、

その結果として「トランス女性」が除外されるというだけの話である。

しかし【女性を愛するレズビアン】が「トランス女性」を性的対象から除外するということ自体が気に食わないクィア主義者・トランス主義者にとっては、

そのような“結果論”すら受け容れることができず、

ゆえに【トランス女性を性的対象に含めないレズビアン】を「まんこフェチ」「まんこ好き」「ペニス恐怖症」などといった醜悪かつ下劣な語彙で異常視・悪魔化せずにはいられないのだ。

  • 言うまでもないが、これはそのようなセクシュアリティを有する「レズビアン当事者」が、いち個人として自身のセクシュアリティをそれらの語彙で(主体的かつ肯定的に)言い表すこととはまったく別問題である。
  • あるいは仮に、性器の形状が「女性」でありさえすれば容姿も年齢も体臭・口臭も問わないという人がいたなら「性器フェチ」と呼べるかもしれない。だが《性的対象の選別基準に「(性器を含めた)生物学的性別」を含めるセクシュアリティ》を議論する上で、そうした極端な「個別の事例」を一般化するのは不適切である。

だがレズビアンの女性に対して「まんこ」「ペニス」などといった性的な言葉を投げつけたり、

あまつさえ「あなたはペニスを愛するのか? ヴァギナを愛するのか?」などと当人のプライベートなセクシュアリティを第三者に向けて言明するように強迫するのは、

どのように言い繕ったところで「セクシュアル・ハラスメント(性的嫌がらせ)」以外の何物でもない。

そしてそのような「セクシュアル・ハラスメント」の試みを「政治的正しさ」の名の下に肯定・推奨するクィア理論およびトランスジェンダリズムとは、

まさしくレズビアン」に対する性的加害を正当化する《レズビアン差別》の思想であると断言できる(むろん同じ理由で「ゲイ」に対する性的加害を正当化する《ゲイ差別》の思想と言い換えることも可能)。

* * *

あるいは「ペニスフェチ」という呼称について【トランス男性を性的対象に含めないゲイ男性】全般ではなく、

当該記事の【ゲイ男性】のみを指すぶんには妥当である、と解釈する人もいるかもしれない。

uncommongroundmedia.com上掲記事のタイトルを訳すと『いかにして私はトランス活動家からジェンダー・クリティカル(※ジェンダー懐疑論者。転じてトランスジェンダリズムに反対する人々を示す言葉の一つ)に転じたのか』となるけれど、

お断りしておくが、私の英語力では上掲の長い英文を読みこなすことは困難であるし、そのつもりもない。

ここで、kazukazuのツイートを再掲する。

Again and again I see sexuality reduced to a “genital preference”, with people saying that my insistence for male genitals is “exclusionary” to trans men, transphobic, and thus bigoted. Because they insist trans men are men, if I don’t accept them as such and overcome my “genital preference”, I am bigoted and need to consider accepting men regardless of their appearance.

しかし、kazukazu自身がスクリーンショットした上掲のパラグラフを読むかぎりでは、kazukazuが要約するように《性器への愛着が自分のセクシュアリティの全て》《性器が大事、セクシュアリティは性器中心》言っているようには解釈できない。

むしろ上掲箇所は、ゲイ男性である著者自身の《トランス男性を性的対象に含めない》というセクシュアリティを「トランス排除(“exclusionary” to trans men)」と決めつけた上で「性器の好み("genital preference")」に還元(reduce)しようとする人々(=トランス主義者)に対する恐れを、皮肉と自嘲を込めて述べたものであろう(だからこそ「genital preference」「exclusionary」に「""」が付いている)。

<私訳 ※()内は翻訳者の解釈・補足>

私の男性器に関する主張が、トランス男性を“排除”しているだとか、トランス嫌悪であるとか、偏狭であると考える人々によって、何度も何度も私のセクシュアリティは「性器嗜好」に還元されてきた。

トランス男性をありのままに(性的対象として)受け入れず、「性器嗜好」を克服できず、またその偏狭さゆえにトランス男性を(性的対象として)想定することができない私に対して、そうした人々は《トランス男性は男性です》と強弁するのだ。

繰り返すが、私の英語力では上掲記事が「反トランス」と位置づけることができるものであるか、あるいはそれがまったくの誤読・濡れ衣であるのか、判断することはできない。

ただ、kazukazuが翻訳した箇所は、原文の最後の段落に該当する。最後の段落のみであれば、英語力のない人間であっても途中の文章を読まずに翻訳することは可能だ。

しかも、母国語であるはずの日本語で書かれた《「生物学的性別」は「性器のみ」によって規定されるわけではない(=「性器の形状」を含めて複合的・総体的に判断される)》という文章を、

《「性器の形状」は「生物学的性別」と“無関係(!?)”》と曲解するkazukazuに、

英語の長文を読み解く能力があるとは、私にはどうしても疑わしいのである……。