前回に引き続き、LGBT活動家の小浜耕治(@aoikousi)氏が、
トランスジェンダーを恋愛対象に含めないのは《トランス差別》と主張する独自の見解を表明されている。
前回の議論の結果、私は小浜耕治氏からブロックされてしまったが、私に対する反論と思しき箇所もあるので、あらためて取り上げてみる。
以下、スレッドのまとめ:
性的指向~どんな性別を恋愛や性愛の対象とするか?について、具体的な経験がゲイであるレズビアンであるヘテロであるなどへの帰属の根拠となっているように思います。
トランスジェンダーの人口は1%にも満たない圧倒的な少数派ですから、出会ったことがある人、恋愛をしたことがある人も少数です。
(中略)
性的指向の指し示す対象としてトランスジェンダーが入るかどうか?というのは、トランスジェンダーと出会ったことが少ない、または無い人は、そこは判断しなくてよいことだと思うのです。わからないこととすれば良い。
だからと言って、目の前のトランスジェンダーから交際を申し込まれたときに、受け入れるかどうかは「わからない」中での判断となるので、それ以外のものに基づく判断をすることになるでしょう。トランスジェンダーからの交際を断るかどうかは個人的な判断です。断ったからといって差別とは言えないでしょう。
しかし、トランスジェンダーとの接点がなかった他人がトランスジェンダーを恋愛対象としないと公言することは、実はわからないことに自分の価値判断を下すことであり、その対象が差別されやすい属性であるときには、差別の影響を受けて判断していると思われても仕方ないのではないかと思います。
なにやらごちゃごちゃと書かれているので途中省略したが、
ようは実際にトランスジェンダー当事者と逢ったこともないのに“食わず嫌い”するのは、やはり「差別(トランスフォビア)」だとのことである。
もっとも前回の議論で小浜耕治氏は、
トランスジェンダーを性的対象に含めない(性的対象から除外する)ことは「差別(トランスフォビア)」であるか? という私の問いに対して、
「差別じゃないでしょう。」という見解を示されていたが、
やっぱり「差別」になるようだ。だから初めからそう言えばいいじゃん。
見ず知らずの他人に上から目線で講釈しておきながら、じつのところ小浜耕治氏自身の思考が整理されていない様子がうかがえる。
しかし小浜耕治氏のレトリックは、
まさに男性を性的対象に含めないレズビアンに対する
「食わず嫌いなんじゃないの?」
「実際に男とSEXしてみた後で、自分が本当にレズビアンかを判断すべきだ」
といったSOGIハラスメントを、ただ「男性」を「トランス女性」に置き換えたにすぎない。
加えて、女性を愛して男性を愛さない「レズビアン」が「性別」で人間を「差別」している、というのは「レズビアン」に対するヘイトスピーチの常套句である。
元より、ここで議論されているのはトランスジェンダーと恋愛する可能性がありうるか? という将来の可能性(ポシビリティ=できること)ではなく、
現時点において【私】がトランスジェンダーとの恋愛を望まないという個人の主体性(アイデンティティ=ありたいこと)の問題なのだから、小浜耕治氏の議論は前提からしてズレている。
- 言い換えるなら、人間の性的主体性(セクシュアル・アイデンティティ)とは「現在」にしか成立・通用しない概念である。
- あるいは現時点では困難であっても、将来においてはトランスジェンダーを愛する可能性(ポシビリティ)に“開かれる”べきだと言い換えたところで、
- 将来の可能性に“開かれる”態度は取りも直さず「現在」の問題であり、よって「現在」の主体性(アイデンティティ)に干渉する行為となるからだ。
- したがってトランス主義者がしばしば口にする「(将来においてトランスジェンダーを愛する)可能性を提示しているだけで“強制”ではない」というエクスキューズは、その言に反して人間の性的主体性(セクシュアル・アイデンティティ)を否定し、《将来においてトランスジェンダーを愛する可能性に“開かれる”態度》を“強制”するものとならざるをえないのである。
じじつ小浜耕治氏もトランスジェンダーのジェンダー・アイデンティティ(性自認)を尊重すべきだと主張しているが、
しかしその一方で、異性愛者および同性愛者のセクシュアル・アイデンティティ(性的主体性)を否定している。これはダブル・スタンダードであり、
それこそシスジェンダー至上主義(シスジェンダリズム? というものがあるとすればだが)を裏返したトランスジェンダー至上主義(トランスジェンダリズム)でしかない。
なお、ここへきて小浜耕治氏から、実際にトランスジェンダー当事者と逢ったこともないのに、なぜトランスジェンダーを性的対象に含まないと言えるのか? という新たな論点が提示されているが、
その答えについては後述するとして、とりあえず先に進める。
さらに、実際に恋愛関係などにある時、相手の性自認や性的指向が明らかになったところで、それのみを理由として関係を一方的に解消するというのは、どうなのだろうと考えます。個人同士の恋愛関係は、その人の全人格を受けとめるものではないかと思います。(セフレやアッシーくんなど、目的を限定した関係はここでは議論しません。)
(中略)
単一の要素がわかってそれを理由に一方的に関係を解消するのは、誠実な対応とは言えません。その要素が差別を受けやすい属性であるなら、それは差別だと言われます。
民族・国籍が違うとか、部落出身だとかで一方的に別れるとなったら、それは差別だと容易にわかることでしょう。
>個人同士の恋愛関係は、その人の全人格を受けとめるものではないかと思います。
これも前回指摘したことだが、
《個人同士の恋愛関係は、その人の全人格を受けとめるもの》と勝手に決めつける一方で、
「性別」を「人格」から排除して、両者を排他的な二項対立に設定する小浜耕治氏の人間観は、まったく理解できない。
>(セフレやアッシーくんなど、目的を限定した関係はここでは議論しません。)
ちょっと待ってほしい、なぜ「セフレ」や「アッシーくん」を排除するのだろうか?
どうも前から気になって仕方がないのだが、小浜耕治氏の恋愛観の根底には、一人のひとを永続的に愛することこそが「正しい恋愛」であるというロマンティック・ラブ・イデオロギーによる頑迷な思い込みが、どっしりとアグラをかいているようだ。
繰り返すが、そのような恋愛観をもつこと自体は小浜耕治氏の自由である。しかし、それを他人に押しつけるのであればそれは「不自由」となる。そのようにして小浜耕治氏が自身の議論に都合良く設計した人間像は、現実の複雑で多様なセクシュアリティに対応することができない。
差別問題について的外れな講釈を垂れる前に、まず小浜耕治氏は、現実社会には多種多様な恋愛観だとか「性」のありよう(=セクシュアリティの多様性)が存在するという「不都合な真実」に目を向けるべきではないだろうか。
そも差別問題とは、人間の「権利(人権)」をめぐる議論であり、個人の恋愛観を押しつけ合うような話ではないはずである。
>民族・国籍が違うとか、部落出身だとかで一方的に別れるとなったら、それは差別だと容易にわかることでしょう。
性的対象としての「性別」をめぐる問題を、なぜか無批判に「人種」にパラフレーズするというレトリックも、
トランス主義者に典型的な詭弁であり、当ブログでも折に触れて反証してきた。
それらをいちいち繰り返すと冗漫になるので、ここでは文脈に沿って最小限に留めるが、
元を正せば、なぜ「レズビアン」がトランス女性を性的対象に含めないことをあえて明言しなければならないのかというと、
それはひとえに「女性」を愛する「レズビアン」であれば「トランス女性」を愛せるはずだ・愛するべきだという偏見が、現実の社会に蔓延っているためだ。
現実の「レズビアン当事者」の中には「トランス女性」を性的対象に含める人もいれば、含めない人もいるにもかかわらず、
ただ「レズビアン(同性愛者)」であるという理由で「トランス女性」との恋愛やSEXを要求・期待することは、
まさしく「レズビアン(同性愛者)」の性的指向(同性指向)を理由に性的主体性(セクシュアル・アイデンティティ)を否定・否認する《レズビアン差別》以外の何物でもない。
翻って「レズビアン」であれば特定の出自をもつ人や民族的マイノリティ(あるいは特定の容姿をなす人や障害者などでも)を性的対象に含めるべきだといった「偏見」は存在しない。このことから「レズビアン」の性的対象について「トランス女性」を他の属性に置換するレトリックは成り立たないことがわかる。
そうした雑なパラフレーズが許されるというのであれば、ここで私も「宗教」に喩えてみよう。
たとえばキリスト教が同性愛を禁止していると仮定して(※諸説あり。ちなみに小浜耕治氏はクリスチャン(震災後に受洗しました。――Twitterプロフィールより)とのこと)、
私たちがキリスト教徒に言えることは「その信仰を異教徒にまで押しつけるな」「他者の同性愛を否定するな」ということであり、
キリスト教徒が自らの信仰にもとづいて同性との恋愛やSEXを拒むことは誰にも否定できない。そうでなければ《信仰の自由》という人権・人格を否定することになるからだ。
言うまでもなく人権・人格はすべての人に等しく保障される概念であり、けっして小浜耕治氏の言うようにトランスジェンダーにだけ特別に付与される「特権」ではない。
その意味では、信仰もセクシュアリティも、個人のプライバシーにかかわる重要な人権問題であることに変わりない。そういった個人のプライベートな領域に、トランスジェンダリズムやクィア理論にもとづく偏狭かつ独善的な「政治的正しさ」を振りかざして干渉する行為は《人権侵害》であり思想検閲に相当する。
さらにいえば、人に与えられた正当な「権利」「自由」について、無用な罪悪感を植えつけることでその正当な(←大事なことなので二回言いました)行使を妨げ、相手を支配しようと試みるのは、まさにカルト宗教の洗脳のテクニックそのものだ。小浜耕治氏らの“信仰”するトランスジェンダリズムが「トランスカルト」と呼ばれる所以である。
- ちなみに前回の議論において、私は小浜耕治氏に「トランスジェンダーを性的対象から除外することによって、トランスジェンダーの人権・人格が、どのように侵害されるのか?」と尋ねたものの、
- けっきょく氏から回答は得られなかったことを付記しておく。
- また同様の質問を、能川元一氏に投げかけても同じであった。
もう一点、恋愛は相手の性別を前提に成り立っているのでそれが変わったらそもそもその前提が崩れるから必然的に解消となるという意見がありました。 これにはいくつかの点で錯誤があるかと思います。
その一つは、性別は変わらないという前提は誤りだということです。ましてや性別を厳密に確認した上で始まったものではないでしょう。
小浜耕治氏が挙げている《恋愛は相手の性別を前提に成り立っているのでそれが変わったらそもそもその前提が崩れるから必然的に解消となる》というのは、
まさに前回の議論で提示した私の「意見」であるけれど、
しかし私は「性別は変わらない」などとは一言も言っていない。
ここでいう「性別」とは「性的指向」を想定したものと思われるがが、
性的指向に変化があるか否かは、人によって様々であり、変化しないと決めつけるのも、変化すると決めつけるのも間違いだ。
ただ一つ言えることは、性的対象の問題に際して、可能性(ポシビリティ=できること)ではなく、主体性(アイデンティティ=ありたいこと)を尊重するべきだということである。
なぜならば繰り返しになるが、人間の性的主体性(セクシュアル・アイデンティティ)を否定することは「性の自己決定権」の正当な行使を妨げる《人権侵害》であり、
ましてやそれが「レズビアン」に適用されるのであれば――否、「レズビアン」だけを免除する理由もない――《レズビアン差別》となるからだ。
トランスジェンダーは特殊な性別のあり方だという、シス中心主義に基づいた感覚で、これに囚われると差別することになりがちなので、注意が必要だと思います。
たしかに小浜耕治氏が指摘するとおり、トランスジェンダーを性的対象に含めないというセクシュアリティが、トランスジェンダーを“特殊視”する「トランスフォビア(トランスジェンダー嫌悪)」に立脚している場合もありうるだろう。
しかしこれも繰り返し述べてきたとおり、
トランスジェンダーのジェンダー・アイデンティティ(性自認)を尊重することと、トランスジェンダーを性的対象に含めるか否かは、まったくの別問題である。
すなわちトランスジェンダーを性的対象に含めないというセクシュアリティが「トランスフォビア(トランスジェンダー嫌悪)」に立脚している場合もあれば、それと無関係の場合もあるという当たり前の話であり、
ゆえにトランスジェンダーを性的対象に含めるか否かで「トランスフォビア」の有無を判定するのは失当ということだ。
差別は意識的に行うだけでなく、自分が身を置いている社会のあり方が差別的な行動や言動を生むこともあります。差別のある社会の中で、自分は差別に当たることをしていないだろうかという意識を持つことは、差別しないために必要な姿勢だと考えます。
小浜耕治氏の主張していることは、じつに素朴でナイーブな「原罪論」だ。
《差別のある社会》においては、誰しもが何らかの形で「差別」に加担しうるし、あらゆるセクシュアリティが「差別」と結びつく可能性を有している。
しかし、だとすればなおのことトランスジェンダーを性的対象に含めないという特定のセクシュアリティだけをあげつらって“差別的”と決めつけることもできない。
元より、一切の“差別性”を伴わないセクシュアリティなど成立しえない。仮にトランス女性を性的対象に含める人であっても、実際にはトランス女性であれば誰でもいいというわけではなく、身体女性に見た目が限りなく近い――当事者の言葉を用いるなら“パス度の高い”トランス女性を選ぶ傾向にある。なんのことはない、それは形を変えた「シスセクシズム」に他ならないのではないか。
まして《差別のある社会の中で、自分は差別に当たることをしていないだろうかという意識を持つこと》は、あくまでも自分自身に向けて問いかけるべきことであり、
それを根拠に他人を糾弾・恫喝するようになれば、ただ自分の気に食わない奴に「差別主義者」のレッテルを貼って無制限に攻撃するだけの魔女狩りに変容する。
そも「差別」を告発・批判するにあたっては、何が「差別」に“当たる”のかを論理的に証明することが必須となる。
げんに私は当ブログをとおして、トランスジェンダーを性的対象に含まないことを《トランス差別》と決めつけるトランスジェンダリズムおよびクィア理論こそが、まさしく「レズビアン」の性的主体性(セクシュアル・アイデンティティ)を否定・侵害する《レズビアン差別》の思想であることを論証してきた。
「差別」を指摘されたら、まず立ち止まって考えるべし、といったことをトランス主義者・クィア主義者はきまって偉そうに口にする。しかし一方で自分たちに向けられた、私の《レズビアン差別》の告発には立ち止まって考えようともしない(じじつ「原罪論」は、むしろ「差別」の正当化や告発の無効化に利用されてきたレトリックだ)。
けっきょくのところ、小浜耕治氏に象徴されるトランス主義者・クィア主義者は「差別」に反対しているわけではなく、
ただ見ず知らずの他者を「差別主義者」に仕立て上げ、一方的に“糾弾”するという特権的立場に自らを置くことによって、自己の内にあるレズビアンへの「差別意識」を正当化しているにすぎないのだ。
だいいちトランスジェンダーを性的対象に含まないことが「トランスフォビア(トランスジェンダー嫌悪)」という勝手な思い込みからして、まず疑ってかかる必要がある。
男性の異性愛者であれ女性の同性愛者(レズビアン)であれ、ただ漠然と「女性」が好きだといった場合に、
「ただし性器はペニスに限る」「ただし染色体はXYに限る」
などといちいち指定することは(それこそ「ペニスフェチ」「XY染色体フェチ」といった“特殊”な性的嗜好でもないかぎり)、まずないであろう。
つまりトランスジェンダーを性的対象に含めない(性的対象から除外する)ということは、実際のところトランスジェンダーを“嫌悪”しているのではなく、ただ性的対象として“想定していない”という話にすぎない。
しかるにトランスジェンダーに限らず、性的対象にならない人との恋愛やSEXを想定して、嫌悪感を抱くのは、ごく自然な心理ではないだろうか。
換言すれば、むしろ「もし彼女がトランスジェンダーであっても愛しますか?」などという無神経で傲慢な問いを投げかける者こそが、必要のない「トランスフォビア」を煽り立てているのが実情なのだ。
したがって、自らの“意識お高い”アピールの為に、見ず知らずの他人を「トランス差別主義者」に仕立て上げてマウンティングするための“踏み絵”として「トランスジェンダー」の存在を利用する、
小浜耕治氏のようなトランス主義者(トランスジェンダリズム信奉者)の振る舞いこそ、
まさしく「トランスジェンダー」に対する“政治的搾取”と言う他ないのである。