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「百合」でなければ《レズビアン差別》は許される?~榛名千紘『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』改題をめぐって #さんかくラブコメ

2022年3月10日。KADOKAWA主催「第28回電撃大賞・金賞」に入選した『百合少女は幸せになる義務があります』が『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』と改題、さらには作者名やキャラクター名まで一新し、電撃文庫から刊行された。

これまで、公式ページの試し読みや選考委員のコメントなどを通して、可能な限り事前に得られた情報から同作に対する批判的考察を展開してきた。 

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「百合作品」を“全否定”する榛名千紘『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』は「電撃文庫」の汚点

そして当日。本作は、いかなる結末を迎えたのか?

――それを書くことはできない。

なぜならば本作は、すでに続刊が予定されているとのことで、現時点では三人の関係性もあやふななまま、いったん幕引きとなるからだ。

しかし通常、続刊が予定されている場合であれば、タイトルに連番が付くはずである(本作の場合は①)。それをあえて付けずに全一巻で完結するかのように見せかけ、私のようなアンチであっても「たった一巻で済むのなら、とりあえず買ってみてもいいかな」と思わせるような売り方は、出版業界最大手のKADOKAWAにしては、いささか“セコい”手口ではないか。

このような“炎上商法(一種のクィア・ベイティング)”にお付き合いして差し上げるほど暇人でもお人好しでもないから、もはや本作について語るべきことは何もない。近所の書店にて開店と同時に購入し、読了した時点で、私自身の務めは果たしたものと判断する。

ossie.hatenablog.jpむしろ私が気になって仕方ないのは、この作品、さらには「百合」という概念を取り巻くオタク業界の状況だ。

ここに、選考委員・三上延(作家)の選評を引用する。

(前略)同性に恋愛感情を抱くことと、フィクションのジャンルにすぎない「百合」が混同されていることへの違和感がどうしても拭えませんでした。同性を好きになるキャラと百合愛好家のキャラは分けた方が物語としてはすっきりしたのではないでしょうか。 

まさに《同性を好きになるキャラと百合愛好家のキャラ》“分け”た上で、なおかつ見るも無残な異性愛至上主義の愚作と成り果てたのが、本作に先行して電撃文庫から刊行された『琴崎さんがみてる』である。だいいち現実社会においても、レズビアン当事者が百合作品を愛好することは何ら珍しくなく、三上の提案は的外れといえる。

もっとも《同性に恋愛感情を抱くことと、フィクションのジャンルにすぎない「百合」が混同されている》ということは、裏を返せば作者自身が「同性を好きになるキャラ」と「百合愛好家のキャラ」をとくに区別していないということの表れである。

前述のとおり作者は、作中で「百合」および【凛華】の同性の親友に対する感情を《親友同士が禁断の道へ踏み入ってしまう物語》《友情を遥かに逸脱した劣情》《よりにもよってこんなサブカル臭の強い趣味》《エキセントリックな趣味》などと(男性主人公のモノローグである地の文という体裁を借りて)露悪的な表現で侮蔑し、貶めている。

だが、これらについても、たとえば《フィクションのジャンルにすぎない「百合」》に向けられたものであり、同性愛者(同性を好きになるキャラ)を“差別”することにはならない――といった姑息な言い逃れも通用しないということだ。

三上は「百合」を《フィクションのジャンルにすぎない》と切り捨てるけれど、「百合」が女性の同性愛の表現である以上、当然ながらそこには、現実の女性同性愛者(レズビアン)に対する認識が、無自覚のうちに反映される。

作者自身は元より、百合コンテンツのユーザー、さらには「百合」を論じる人々に関しても、その“業”から逃れることはできない。

『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』は『琴崎さんがみてる』に勝るとも劣らない差別的な内容でありながら、そのじつユーザーからの批判は意外と弱いように見受けられる。

それは出版前の時点で、タイトルから「百合」という語句を外したことにより、いわゆる「百合作品」のカテゴライズから外れ、百合コンテンツのユーザーたちの多くが関心を失ったことも大きいようだ。

――しかし、ここで疑問が生じる。

はたして「百合作品」でないなら、その内容が異性愛至上主義に根差した《レズビアン差別》であっていいのか?

仮に、異性愛至上主義に根差した《レズビアン差別》の内容が「百合」とカテゴライズされない作品(ヘテロブコメ?)でならば許される、と発想してみよう。

だが、それは裏を返せば《女性が女性を愛し、男性を愛さない》というセクシュアリティ(レズビアニズム)の表現が、あらかじめ「百合」とカテゴライズされている作品(百合作品)の中でしか許されない、ということだ。

“棲み分け”といえば、聞こえはいいかもしれない。

だが、けっきょくのところ、そのような欺瞞は異性愛至上主義を基幹とする現実社会(異性愛至上主義社会)において、女性同性愛の表現を排除・隔離する口実に「百合」が利用されているという側面を浮き彫りにしているにすぎない。

そして、そうした発想が現実社会においても女性同性愛、ひいてはレズビアンの存在を“特殊視・異常視”する勝手な思い込みに端を発し、また同時にそれを強化していくものであることは言うまでもあるまい。

当ブログでも折に触れて述べてきたが「百合」とは本来、作品を“枠”に嵌めるジャンル・カテゴリーなどではなく、あくまでも作中における人間関係の“解釈”に他ならない。

ossie.hatenablog.jpあるいは、逆に『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』だとか『琴崎さんがみてる』、ひいてはこれもKADOKAWA(角川文庫)から文庫化された三浦しをん『ののはな通信』などの(おうおうにして作者自身は無意識・無自覚の)異性愛至上主義に根差したレズビアン差別》の作品を、ある種のジャンル・カテゴリーとして“隔離”したうえで、その中でならば治外法権的に《レズビアン差別》を許容する、などという発想が肯定されてもならない。

たとえ作品がフィクションであっても、それを作り出すのは現実社会を生きる人間であり、そしてそれらが娯楽コンテンツとして流通するのも現実社会の問題である。ゆえに「百合」を現実社会から“隔離”することは、それこそ“現実的に”不可能だし、また同じ理由で《レズビアン差別》を現実社会から“隔離”する口実も成立しない。

* * *

最後に。補足として本作の“原典”である神無月の巫女についても述べておきたい。

じつのところ『神無月の巫女』もまた、二人の女性に一人の男性を交えた三角関係を描いた作品である。

しかし『神無月の巫女』の主人公【来栖川姫子】は女性であり、いったんは男性の【大神ソウマ】に惹かれたものの、最終的には女性である【姫宮千歌音】の愛を受け入れる(アニメ版もコミック版もストーリー展開に違いはあるが、その結末は同じ)。

こうして異性愛至上主義からの脱却を果たした『神無月の巫女』は、そのエポックメイキングな偉業を成し遂げたことによって、ゼロ年代中頃に発表された作品でありながら日本の百合カルチャーにおける「古典(歴史的名作)」たりえているのだ。

繰り返すが『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』の元のタイトルは『百合少女は幸せになる義務があります』というものであった。

  • なお本作の改題・改名をめぐるゴタゴタについて、作者の「あとがき」では何事もなかったかのように一切言及されていない。

また電撃文庫の各巻末には『電撃文庫創刊に際して』と題し、株式会社KADOKAWA取締役会長・角川歴彦による“檄文”が掲載されている。

(前略)
 「電撃文庫」は、そのように多様化した対象に応え、歴史に耐えうる作品を収録するのはもちろん、新しい世紀を迎えるにあたって、既成の枠をこえる新鮮で強烈なアイ・オープナーたりたい。
 その特異さ故に、この存在は、かつて文庫がはじめて出版世界に登場したときと、同じ戸惑いを読書人に与えるかもしれない。
 しかし、<Changing Times,Changing Publishing>時代は変わって、出版も変わる。時を重ねるなかで、精神の糧として、心の一隅を占めるものとして、次なる文化の担い手の若者たちに確かな評価を得られると信じて、ここに「電撃文庫」を出版する。

平成16年に深夜ローカルでテレビ放映された『神無月の巫女』の登場から、早18年。
この令和4年という「新しい世紀」《既成の枠をこえる新鮮で強烈なアイ・オープナー》によって導かれた「次なる文化」が、

「百合少女(レズビアン)」も「女」であるからには「男性(異性)」を愛することが《女の幸せ》なのだ――という、

それこそかつて『神無月の巫女』が否を突きつけた封建的な異性愛至上主義のイデオロギーへの退行であるとすれば、遣り切れない。

 

「百合作品」を“全否定”する榛名千紘『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』は「電撃文庫」の汚点 #さんかくラブコメ

2022年3月10日、「第28回電撃大賞・金賞」を獲得した神奈士郎『百合少女は幸せになる義務があります』が『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』に改題され(併せて作者の名義も「榛名千紘」に変更)、電撃文庫から刊行された。

それに先立ち1月7日、電撃文庫の公式サイト上で、各受賞作品の特設ページがオープンした。

dengekibunko.jp

特設ページ内では、作品の冒頭部分を発売前から試し読みすることができる。

なお、ここで作品の粗筋を再確認してみよう(引用は選評のページから)。

 平凡な高校生・矢代天馬はひょんなことから、クラスメイトでモデル顔負けの美少女・皇凛華が、品行方正なクラスのマドンナ・椿木麗良のことを溺愛していることを知ってしまう。クールな彼女の実態は、幼馴染の麗良ともっと仲良くなりたいが、素直になれずに空回りしてばかりのポンコツ少女だったのだ。
 仕方なく彼女と麗良の仲を取り持つ手伝いをすることになる天馬だったが、彼はナンパから麗良を助けたことをきっかけに、その麗良から猛烈に好意を寄せられるようになってしまい……!?
 ポンコツな彼女を応援するはずが、自分を巻き込んだ三角関係!? この三角関係が行き着く先は……!? 

http://dengekitaisho.jp/archive/28/novel2.html

“炎上”を受けてか、登場人物のネーミングの他にも、紹介文のニュアンスが若干異なっている。また本作を含め、受賞作品は出版に際して、本文も加筆修正するらしい。受賞時点の内容は、選考委員しか読むことができないので比較することは不可能だ。

しかしいずれにせよ、試し読みの時点から断言できることが一つだけある。

それは、本作が「百合」うんぬんを抜きに

男女の「ラブコメディ」としても、低俗極まる陳腐な代物でしかないということだ。

男子高校生の【矢代天馬】は、同級生の高飛車な美少女【皇凛華】が間違って机の中に入れた文庫本を開くと、それは百合小説であり、さらにはページの間に挟まっていた日記のようなものを読んでしまう。そこには【凛華】の、親友である美少女【椿木麗良】への愛が綴られていた。

秘めていた【麗良】への想いを、図らずも男性に知られてしまった男嫌いの【凛華】。ところが、どういうわけか【凛華】はその直後に突然、自分の服を脱ぎだし、ろくに面識もない【天馬】に肉体関係を迫る(!?)のである。

「ふ、ふふふ、フフフフ……思ってもみなかったわ。まさか私の純潔が、こんな男に……」
 漏れ出した不気味な笑いは決意か諦念か。
「お母さん、麗良、ごめんね……私、これから少しだけ、卑しい女になる」
「お前、さっきから何を……」
 よくわからない独り言をゴニョゴニョ呟く凛華は、流れる涙を乱暴に拭ってから凛々しく眉を上げた。そして、
「さあ、どっからでもかかって来なさい!」
(中略) 
「…………??」
 眼前の女がリアルにそんな奇行に転じれば、不可思議の一言に尽きる。シュールな沈黙が吹きすさんだのち、ハッと何かに勘付いた凛華は、
「そ、そう。わかったわ。まずは私から……そういうことなのね?」
「お、おい?」
 襟元にひっかけた指を乱暴に引き下げ、首のネクタイをしゅるりと解いた。はだけた服の隙間から色っぽい鎖骨が露になる。そのまま同じ指でシャツのボタンを上から一つ、二つ、順番に外していき、下着の形や柄が否応なく目に飛び込んでくる。
「待てよアホ!」
 叫んだのは、つんのめりそうな勢いで凛華の腕をつかんだ後。
「す、ストリップでも始める気か、お前!?」
 テンパりマックスの天馬に向け「かまととぶるんじゃないわよ、今さら!」濡れた瞳のまま心底ウザったそうに吐き捨てる女。
「ケダモノの考えなんて全部お見通しなんだから」
「は、はぁ?」
「どうせこれを機にじっくりたっぷり強請って、最終的には私を性奴隷にするつもりだったんでしょ? あーあー、男って本当に最悪。脳味噌が下半身に直結した最低の生物ね」
「誰がいつそんな要求をした!」
 ここはエロ漫画の世界じゃないんだぞ。真っ当な説教も今の彼女には届きそうにない。積層された理性の殻がもろくも剥がれ落ちる、そんな音を聞いた気がした。
「こっちはもう覚悟ができてるんだから。とっとと終わらせてくれる?」
「一方的に覚悟を完了するな!」
 思考回路が猪レベルに凝り固まっているらしい凛華は、じれったそうにスカートのホックへ手を伸ばす。させるかとばかりに天馬はその手首をつかまえるのだが、
「……って、あ、やばっ」
 不意にバランスを崩し、転倒。結構な勢いで床に打ちつけられたはずなのだが、思ったより痛みはない。凛華の体という柔らかなクッションがあったから。
「わ、わりぃ! 大丈夫…………ん?」
 這いつくばったままの体勢で謝る天馬だが、下にいる女が罵声を返してくることはなく。仰向けに寝そべった凛華は、薄らした谷間やそこからおへそに続く健康的なラインを隠すこともせず。半裸同然のまま微動だにしない。それは全てを受け入れている証拠。
 やるならやりなさいよ、という視線で串刺しにされる。
「勝手に抱かれるモードに入るなぁ!」
 お次は生気を失った目。ハイライトの消えた虚ろな瞳で凛華は遠くを見つめていた。
「天井のシミを数えるのも禁止!」
「……なに、悲鳴でも上げるのがお好み? はいはい『助けてママー』、これでいい?」
「ぼ、棒読みぃ」
「怖くなんかないわよ。体をいくら汚されても、心は……私の心は、麗良だけのものだから」

いかがであろうか。これが選考委員・荒木人美(電撃文庫編集長)をして《読んでいて嫌な登場人物が一人もおらず、特に主人公は「友達にいたらいいだろうな」という、読者との近さを感じさせるキャラで、著者のキャラクターメイキングの力量を感じ》たと言わしめた「読後感が爽やかな、完成度の高い青春ラブコメとやらの実態である。

また同じく選考委員の小原信治放送作家・脚本家)は《身近なジェンダー問題の入門書となり得る可能性も感じました。》と言うが、上掲のごとき侮蔑的な女性描写は「身近なジェンダー問題の入門書」どころかジェンダー問題」の事例そのものだ。元より「身近なジェンダー問題の入門書」KADOKAWAからも数多く出版されているのに、この手の下劣で醜悪なライトノベルを教科書代わりにするなど言語道断である。

お察しのとおり、この後【天馬】は【凛華】の誘惑を拒み、二人が肉体関係に至ることはない。だが、そうした展開も含めて「ラッキースケベ」という“お約束”を無批判になぞったまでのことである。

思えば前述の『琴崎さんがみてる』にも、ヒロインの清純さと対比させる形で、男性主人公に明け透けに肉体関係を迫る「ビッチ系ギャル」の女性キャラクターが登場した。こうした女性を「娼婦」と「聖女」に二極化するという「キャラクターメイキング」は、

まさしくレズビアンを含めた女性という存在自体を、そのじつ男性異性愛者の性欲に基づいて分断し“記号化・モノ化”する、女性蔑視の発露以外の何物でもない。

そのような【皇凛華】の「キャラクターメイキング」は、まさしくレズビアン差別》の根底に女性蔑視が横たわっている事実の、あまりにも見飽きた証左といえよう。

なお前述のとおり本作は出版に際して作者名を「神奈士郎」という男性名から「榛名千紘」という女性的な名称に変更しているが、仮に作者が女性であったところで女性蔑視(レズビアン蔑視)の表現が正当化されるわけではないことは言うまでもない。

もっとも下劣で醜悪なライトノベルを書き散らして金儲けすること自体に、とやかく言うつもりはない。そのようなものは、掃いて捨てるほどある。

問われるべきは、そのような異性愛至上主義の産物に「電撃大賞・金賞」という権威を与える一方で、

あたかも「百合」と称される女性の同性愛の表現が、それよりも本質的に劣ったものであるとの固定観念を無批判に追認した、荒木ら選考委員たちの社会的責任だ。

  • たとえば後に10巻以上も刊行されるロングセラーとなり、コミック化(なぜか作画者を変えて2度も)・アニメ化も果たした入間人間安達としまむら』は第13回の応募作品であるが、何の賞も与えられず敢えなく落選となっている。

じじつ『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』は「百合」をテーマに選んでおきながら、

その中で「百合」すなわち【凛華】の【麗良】に対する感情を言い表す語彙といえば《親友同士が禁断の道へ踏み入ってしまう物語》《友情を遥かに逸脱した劣情》《よりにもよってこんなサブカル臭の強い趣味》《エキセントリックな趣味》などと、そのことごとくが百合カルチャーに対する無理解と蔑視に根差したものである。

ましてそのような「百合」に対する偏見・嫌悪を、作者・榛名千紘(神奈士郎)は“よりにもよって”百合作品の歴史的名作として知られる『神無月の巫女』のパロディという形で創作した。

それは電撃文庫KADOKAWA)がこれまで世に送り出してきた『神無月の巫女』を含む数々の百合作品の豊かな世界を、この一作をもって全否定するがごとき“暴挙”であり、

そのような作品の出版は、電撃文庫KADOKAWA)の歴史に残る汚点と言っても過言ではない。

(続く)

 

女性同性愛という「繊細なテーマ」を“理解”しない榛名千紘『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』の致命的欠陥 #さんかくラブコメ

2021年10月8日、KADOKAWA主催の「第28回電撃大賞・金賞」を獲得した神奈士郎『百合少女は幸せになる義務があります』は、その発表と同時に、

タイトルに反して異性愛至上主義と《レズビアン差別》に根差した差別的な内容に加え、名作百合アニメから臆面もなく剽窃したネーミングにより、出版前の時点で“炎上”することとなった。

折しもこれと時期を同じくして、同じKADOKAWAから出版された『琴崎さんがみてる 俺の隣で百合カップルを観察する限界お嬢様』(五十嵐雄策・著 弘前龍・原案)が、これまたまったく同じ理由で炎上していた真っ最中であり、それまで数多くの百合コンテンツを世に送り出してきたKADOKAWAに対しても失望の声が寄せられていた。

ossie.hatenablog.jp

その2か月後。12月10日、電撃大賞の公式サイトにて「第28回電撃大賞」に入選した各受賞作の選評が公開される。

第28回電撃大賞 入選作品 金賞『百合少女は幸せになる義務があります』著/神奈士郎

http://dengekitaisho.jp/archive/28/novel2.html

ここへきて同作は、なんと作品のタイトルから登場人物のネーミング、されには作者の名義まで、一挙に変更されることが発表された。

  • タイトル

百合少女は幸せになる義務があります→この△ラブコメは幸せになる義務がある。

  • 作者名

神奈士郎→榛名千紘

大神司→矢代天馬

来栖川綾香→皇凛華

姫宮桜子→椿木麗良

また選者は以下のとおり。

三雲岳斗(作家)
三上延(作家)
吉野弘幸(アニメーション脚本家)
小原信治放送作家・脚本家)
荒木人美(電撃文庫編集長)
遠藤充香(メディアワークス文庫編集長)

ところが、この内で同作を《個人的には大賞でも遜色ない一作。》と手放しで称賛しているのは小原信治放送作家・脚本家)のみであり、

他の選者のコメントは、どうにも奥歯に物が挟まったような物言いが目に付く。

たとえば遠藤充香(メディアワークス文庫編集長)のものを抜粋してみよう。

(前略)繊細なテーマに対する理解が足りない点が気になりましたが、楽しく軽妙な掛け合い、まっすぐで瑞々しい心情描写の随所に青春の躍動と幸福感が迸る、読み応えのあるラブコメディです。 

「繊細なテーマ(ここでは女性の同性愛を指していることは自明だ)」を扱っておきながら、そのテーマに対する《理解が足りない》などというのは、

作家としての矜持に係る問題であり、作品にとって致命的な欠陥だ。小手先の作文技術だけでどうにか誤魔化せるような問題ではない。

《楽しく軽妙な掛け合い、まっすぐで瑞々しい心情描写の随所に青春の躍動と幸福感が迸る、読み応えのあるラブコメディ》というのも、プロの商業作品としては当然のクオリティであり、それだけで「金賞」を授与するに値する理由としては、あまりにも弱い。

その年の「小説部門」の応募総数は4411作(その内、長編は3255)とのことだが、他の応募作品が、それほどに低レベルだったということなのだろうか? あるいは、仮に出来レースであったとしても、もっとマシな作品を選ぶことはできなかったのか?

(続く)

第28回電撃大賞・榛名千紘『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』が発売前から“炎上”した理由 #さんかくラブコメ

2021年10月8日、KADOKAWAが主催する「第28回電撃大賞各部門の入賞作品が発表された。

その中で「電撃小説大賞」の栄えある「金賞(※実質的には、大賞に次ぐ第2位)」に輝いたのが、神奈士郎『百合少女は幸せになる義務があります』であった。

この作品は翌年の3月10日に『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』と改題し、電撃文庫から刊行されることになる。なお、それに併せて作者名も「榛名千紘」に変更されている。

発表の時点では粗筋しか紹介されていなかった本作が、主に百合コンテンツのユーザーから注目を集めた理由は次の3点だ。

まず、タイトルに「百合」というストレートな語句を使用していること。

次に、しかしそれでありながら主人公は男性であり、女性に恋する女性のヒロイン、およびその思い人である女性が、やがては揃いも揃って男性主人公に恋愛感情を抱くようになるという、異性愛至上主義のステレオタイプを焼き直した差別的な内容であることが、粗筋の時点で予告されていたこと。

そして実際の作品の登場人物および作者自身のネーミングが、百合アニメの名作として知られる『神無月の巫女』のパロディである点だ。

発表当初の作品紹介ページに掲載されていた粗筋を引用する。

 平凡な高校生・大神司はひょんなことから、クラスメイトでありクールでモデル顔負けの美少女・来栖川綾香が、品行方正なクラスのマドンナ・姫宮桜子のことを友達以上に思っていることを知ってしまう。

 綾香から強制的に桜子との仲を取り持つように指示される司だったが、その作戦中に桜子をナンパから助けた司は、彼女から好意を寄せられるようになってしまう! そうして始まった奇妙な三角関係のなかで、司は次第に綾香のことを心から応援しようと思い始めるが、一方でその綾香までもが司のことを大切な存在だと自覚し始めて……!?

 お前が好きなのは彼女か俺か、一体どっちなんだ!?

http://dengekitaisho.jp/announce_28_05.html

【大神司】【来栖川綾香】【姫宮桜子】といったネーミングが、『神無月の巫女』の主要キャラクター【大神ソウマ】【来栖川姫子】【姫宮千歌音】の名字を剽窃したものである事実は明白で、なおかつ作者自身の名前も「神ナ」とくれば、もはや情状酌量の余地もない。このようなふざけた作品は、通常であれば、入選以前に選考の時点で破棄されて然るべきであろう。

じじつ電撃大賞の公式サイト内の『よくある質問と回答』というページには《既存の作品のパロディや模倣はご遠慮ください。作品のイメージを悪化させたり、著作権者の権利侵害となる可能性があります。 》と書いてある。しかるに『神無月の巫女』のパロディ作品として制作された本作は、本来であればその「パロディや模倣」が発覚した時点で受賞を取り消されるはずであった。

当然、多くのユーザーからの批判を浴び、発売前の時点で“炎上”するという異例の――とはいえ既視感のある――事態となったが、

それを受けて編集部が取った対応は、信じがたいものであった。

介錯とは『神無月の巫女』の「原作者」として位置づけられる、二人組の漫画家ユニット(合同ペンネーム)。KADOKAWAが「角川書店」だった時代に「月刊少年エース」に掲載されたコミック版も手掛けていた。この度の騒動は折しも、同じKADOKAWAの「電撃マオウ」にて、スピンオフ作品『姫神の巫女』が連載されている最中であった(なお翌月発売号をもって最終回を迎え、単行本全3巻で完結)。

その介錯も次のようにコメントしている。

なお後述のとおり本作は、後にタイトルや作者名と併せて登場人物のネーミングも変更となるが、

少なくともこの時点で編集部は「原作者」と話さえ付けばそのままで“イケる”と甘く考えていたようだ。

もっとも『神無月の巫女』は、じつのところアニメを中心としたメディアミックス企画であり(発表はコミック版の雑誌掲載が先だが、一般に同作といえばローカル局で深夜放映されたTVアニメ版が想定される)、

その中で「原作者」とされる介錯の発言力がどれほどのものなのか、部外者には責任の所在がわかりにくい(キャラクター・デザインは別の人物)。むしろ立場上はコンカフェの雇われ店長のようなもので、実質的には何の権限もないのかもしれない。

いずれにしても、作品とは世に放たれた時点で、すでに作者の“もの”ではない(著作権上の問題は別)。仮に作者が、作品の世界観を真っ向から否定するパロディに“お墨付き”を与えたとしても、読者の側にそれを受け容れねばならぬ道理などない。

異性愛至上主義と《レズビアン差別》に根差したパロディ作品に、作者が“お墨付き”を与えたというのであれば、作者自身の責任も問われることになる。当然ながら。

(続く)

【まとめ】まさに「クィア・ベイティング」の見本のような『琴崎さんがみてる』は異性愛至上主義の下に「百合」を貶める“男尊女卑”ラブコメディだ! #琴崎さんがみてる

ブログに先立ち、Twitter上で『琴崎さんがみてる 俺の隣で百合カップルを観察する限界お嬢様』五十嵐雄策・著 弘前龍・原案 KADOKAWA電撃文庫 ※なお本稿では「原案」の弘前龍を「原作者(作者)」と位置づける)に対する批判を投稿していたところ、

《百合垢です。百合は生きる希望。》と称するフォロワー数1千以上を誇る大手百合アカウント(@katoyama1)から、次のような反応が寄せられた。

名指しこそされていないものの、私のツイートにはそれなりの反響があり、実質的に私(百合魔王オッシー)という個人を当てこすっているものと思われるので、この場でお答えしよう。

まず『琴崎さん』をめぐる今回の一件にかぎらず、文芸作品を批評する上で、実際の内容(本文)を引用することは、むしろ必要不可欠だ。

たんなる印象批評では説得力がないし、ソースを提示することで資料性が高まると同時に「悪意をもって、原文を必要以上に悪しく歪めているのではないか」という疑問を払拭することができる。

あげく他人を「自粛警察」呼ばわりしながら、自身の「不快」「嫌だな」という“おきもち”を理由に、見ず知らずの他人の批評行為に“自粛”を要求するという、なんとも矛盾に満ちた、傲慢な物言いである。

それこそ「自粛警察」「民意の暴走」「ネット私刑」でなくて、いったい何なのか?

健全な批評なくして、表現文化の発展は望めない。このようなアカウントがフォロワー数1千以上というのだから、百合文化がいつまでたってもニッチな隙間産業から脱却できない要因の一端(さらには「出る杭は打たれる」という日本型“ムラ社会”の同調圧力)を見た思いで、腹が立つというより、むしろ情けなくなってきた。

もっとも、その“おきもち”自体は理解できる。たとえ批判が目的であるとはいえ、購入してしまうことで劣悪なコンテンツに金が落ちるという“炎上マーケティング”に加担することに変わりないのではないか? という危惧もわからないではない。

私も、仮に『琴崎さんがみてる』が、何処の馬の骨だかわからない無名の素人が書き散らかした同人作品(あるいは成人向けのポルノグラフィ)であったなら、スルーを決め込んでいただろう(さらに言えば、上掲した「誹謗中傷」がフォロワー数一桁二桁の弱小アカウントによるものであったなら、こうしてブログ上で取り上げることもなかった)。

しかし『琴崎さんがみてる』は、KADOKAWA電撃文庫という業界最大手のライトノベル・レーベルから出版された商業作品であり、

また発売前の時点から百合コンテンツのユーザーからの猛烈な非難を浴びて“炎上”するという異例の事態を迎えたことで、良くも悪くも世間の注目を集める結果となってしまった。

加えて、真摯な百合ファンの怒りの声が殺到する一方で

「(百合萌えという)特殊な嗜癖をもつ、一部の声の大きな“ノイジーマイノリティ”が騒いでるだけ」といった無理解な冷笑が散見したことも事実だ。

そこをいくと、

身勝手な“おきもち”を盾に、自分の気に食わない作品だとか、あるいはそれに対する自由な論評を排除してもいいと信じて疑わない、

世間知らずの「限界系百合オタク」たちは、

そのような自らの立ち振る舞いが、不特定多数の他者にどのような心証を与えるかという視点に欠けている。

いちユーザーの立場としては、不快なコンテンツから目を背けるのも自由であろう。しかし『琴崎さんがみてる』は、たんに百合愛好者たちが不快に感じているというだけでなく、

その内容が異性愛至上主義」「男尊女卑」という“差別性”に立脚していることが問題である。

『琴崎さんがみてる』は「百合」を題材にしながら、そうした「百合」の本質と真逆の「異性愛至上主義」「男尊女卑」に依拠することで「百合」を貶める作品であり、

なおかつ原作者・弘前龍をはじめとする制作者および関係者(宣伝に利用されたVTuberも含めて)が、その“差別性”にまるで無自覚であることが批判に値する。

そうしたコンテンツの“差別性”を明確に言語化しないまま、ただ「単純にその内容が不快」「嫌だな。TLに流れてきて欲しくないな」などといった“おきもち”をブツブツと呟いているだけなら、それはただの「ワガママ」と切り捨てられ、今後、似たような差別的コンテンツが量産される事態に甘んじるほかなくなるだろう。

よってここに、実際の本文を引用しながら『琴崎さんがみてる』および原作者・弘前龍に対する徹底批判を、合計6ページに亘って展開する。

前編 原作者・弘前龍の言説

中編・上 公式ページの「試し読み」

中編・下 YouTubeのプロモーション・ビデオ

後編 実際に作品を購入し、読破した結果 ※ネタバレ有

総括 一連の問題の根源とは? ※ネタバレ有

追記 原作者・弘前龍の「百合萌え」とは?

そして『琴崎さんがみてる』にかぎらず、実際の内容を引用しながら批判するという手法は筆者の基本姿勢であり、

見ず知らずの誰かの“おきもち”に忖度して、それを“自粛”する意思は毛頭ないことも、ここに宣言しておく。

 

 

【追記】まさに「クィア・ベイティング」の見本のような『琴崎さんがみてる』は異性愛至上主義の下に「百合」を貶める“男尊女卑”ラブコメディだ! #琴崎さんがみてる

さて、これまで『琴崎さんがみてる』について異性愛至上主義・男尊女卑という観点から批判を展開してきた。

ここへきて、新たな視点を提示してみたい。

それは、そもそも「百合萌え」とは何なのか? という今更ながらの根本的な疑問である。

繰り返し述べてきたが「百合」とは――その語源である「百合族レズビアン」は別として――おもに漫画やアニメなど、いわゆるオタク・カルチャーに属する娯楽フィクション作品において、女性キャラクター同士の恋愛関係およびその表現を示す符丁である。

そして「百合萌え」とは、そのような女性同士の恋愛をテーマにしたフィクション作品を消費するという行為であり、

だんじて現実の「レズビアン」を性的対象にするという意味ではない。

しかるに『琴崎さんがみてる』の主人公たちがやっていることは、いったい何なのか。

「あの、琴崎さん、やっぱりまだ……」

 そう……琴崎さんには、彼女特有の趣味というか、ライフワークのようなものがあった。

 猫丘学園に入学する前からアイデンティティとなっていた、彼女にとって唯一にして至上のたしなみ。

 琴崎さんが力強くうなずく。

「それは当然ですわ。わたくしにとってこのたしなみは生きとし生けるものにとっての空気のようなもの……人生に不可欠な彩りですから」

「そう、だよね」

 

「――ええ、そうです。咲き誇る花々のような麗しいご学友の皆様が、仲睦まじくお戯れになっている様子を陰からそっと見守り愛でること……それはまさにこの世界でもっとも美しく、もっとも尊い行いと言えましょう。それこそまさに理想の想起なのですわ……!」

 

 両手を頬に添えながら、うっとりしたような目でそう口にする。

 ああ、うん、まったく変わっていない。

 記憶にある彼女の姿そのままだ。

 そう、これが琴崎さんのライフワーク。

 

 ――女子同士が仲良く懇ろに交流している様子をつぶさに鑑賞して、その尊さを存分に堪能する。

 

 もう少し下世話に言ってしまえば、百合をリアルタイムで観察、実況すること。

(中略)

 ひどく興奮している様子がこっちにも伝わってきた。というか「ふんふん!」という荒い吐息がここまで聞こえてくる。

 だけどその気持ちは俺にもよくわかった。

 目の前で咲きかけている百合の気配にソワソワと昂る気持ち。

 だってそれは、俺も同じだったから。

作中に登場する「百合カップル」は、言うまでもなく架空の存在である。

しかし作品世界においては“現実”に存在することになっている。

そのような“現実”の女性同士の恋愛を「観察」と称してコソコソと覗き見る行為は、つまるところ“出歯亀”であり“視姦”に他ならない。

そのようなものが「百合萌え」なのだとすれば、百合コンテンツのユーザーは男女を問わず、性犯罪者ないしその予備軍と誤解されてしまう。

もっとも近年ではU-temo『百合オタに百合は御法度です!?』、カエルDX『観音寺睡蓮の苦悩』といった、女性主人公が他の女性キャラクター同士の恋愛に“萌える”というコンセプトの「メタ百合作品」が目につくようになってきた。

たとえその行為者が女性であろうと、そのような行為を現実に実行したならば、やはり性加害と見なされる。それがかろうじて許されるのは、

あくまでもフィクションの「百合」の世界観において、女性が女性同士の恋愛に“萌える”こともまた「百合」の一環として機能しているためだ。

言い換えるなら「メタ百合作品」においては、女性同士の恋愛に“萌える”女性もまた〈当事者〉として作中の「百合関係(同性愛)」を構成するのである。

そこをいくとYouTube版の『琴崎さんがみてる』が「メタ百合作品」として認知されていたのも、ひとえに〈女性〉である【琴崎イリア】を主人公としていたからだ。

ところが原作者・弘前龍は、自身の分身である【新堂瑛人】を【琴崎入愛=イリア】と“男女カップリング”したため、

【琴崎さん】の「百合萌え」は「百合」として機能を喪失した。

その結果「メタ百合作品」の中で保たれていた、ひじょうに微妙で危うい均衡は崩壊した。すなわち【琴崎さん】が〈異性愛者〉すなわち「百合関係(同性愛)」の〈非当事者〉と位置づけられたことで、

マジョリティである〈異性愛者=非当事者〉が、マイノリティである女性同士(百合カップル)のプライバシーを興味本位で暴き立てるという、

きわめて暴力的かつ“差別的”な構造に陥ってしまったのである。

一方、仮に『琴崎さんがみてる』が初めから【新堂瑛人】を主人公としていた場合、それもまた「百合」になりえず、たんなる男性異性愛者による“出歯亀”の変態行為になってしまう。

すなわち男性主人公が「百合カップル」を“視姦”する行為は、そこに【琴崎さん】という〈女性〉が同伴するからこそ不問とされる。男性主人公が存在しなくても「百合」は成立するが、ヒロインである【琴崎さん】なくして「百合」は成立しえない。

原作者・弘前がかつて【ムギちゃん】を必要としていたように、じつのところ男性主人公こそが「百合カップル」を“視姦”するという自身の性癖を実行するにあたり、それを正当化してくれる〈女性〉の存在を必要としているのだ。

が、それにもかかわらず作品の中では、逆に【琴咲さん】が〈男性〉である【瑛人】に依存せざるをえない状況が設定されている。

結果、ペットボトルのフタすらも男の力を借りなければ開けられず、「男性に対するトラウマ」のせいで甘美な「百合」の世界に逃避しているといった、きわめて脆弱な女性像が構築された。

このような男尊女卑に根ざすネガティブ(否定的)な女性観をもとに、女性同士の恋愛を描いたとしても、それがポジティブ(肯定的)な意味合いをもつことなどありえない。

いや、むしろ主人公たちは「百合」を“肯定”しているではないか? ――このような反論も返ってくるだろう。

しかし「百合」を“肯定”することと“美化”することは違う。

すなわち主人公たちが「百合の素晴らしさ」として挙げる「美しさ」「尊さ」などといった基準は、

いずれも現実社会における「レズビアン」および女性同性愛のステレオタイプなイメージ(偏見)を無批判に受け売りしたものでしかなく、

ゆえにそれは《美しいモノ=レズビアン》を《醜いモノ=ペニス(男根)》で穢すことに倒錯的快楽を見出すという「レズボフォビア(レズビアン嫌悪)」にも容易に転じうる。

原作者・弘前は『琴崎さんがみてる』を通して《百合に触れたことがないライトノベル読者にも、百合の素晴らしさを届けたい》《1人でも多くの読者が百合の沼に引きずり込まれてほしい》と述べていたが、

作者自身の異性愛至上主義・男尊女卑に根ざした「肉欲」を優先してしまった結果、その目論見さえも果たされることなく潰えてしまったのだ。

かつて百合文化の間口を広げることに成功した『マリア様がみてる』『青い花』『citrus』『やがて君になる』などは、それぞれ固有の世界観を有しながら、いずれも奇を衒わない正攻法の「百合作品」として読者に訴求し続けた歴史的名作である。

「百合の素晴らしさ」を伝えるのに「百合」でないものを提示して、いったい何になるのだろうか。蕎麦の美味しさを伝えたいといいながら「濃厚激辛魚介豚骨つけ麺」を出したところで、それは「濃厚激辛魚介豚骨つけ麺」を食べさせたいという当人のエゴの押しつけでしかない。

【総括※ネタバレ有】まさに「クィア・ベイティング」の見本のような『琴崎さんがみてる』は異性愛至上主義の下に「百合」を貶める“男尊女卑”ラブコメディだ! #琴崎さんがみてる

これまでの検証を通して『琴崎さんがみてる』が「百合作品」ではなく、あくまでも「百合」をダシにした異性愛至上主義のラブコメディである事実が明らかとなった。

しかし、そうなると新たな疑問が湧くであろう。

「男女のラブコメディ」と割り切って読む分には面白いんじゃないの?――と。

これについては、まず繰り返し引用してきた、原作者・弘前龍によるTwitter上での独白に明らかなとおり、

そも『琴崎さんがみてる』とは弘前自身の《男性である自分が愛する女性と「百合」について語り合いたい》という超個人的な性癖を満たすために創られた作品である。

ゆえにそれは《愛する女性と「百合」について語り合いたい》という特殊性癖を共有する男性読者のみが共感しうる世界観であり、

一般的な男性の百合ユーザーを含めた不特定多数の読者が感情移入することは、きわめて困難であると思われる。

また一方で弘前は『百合ナビ』のインタビューの中で『琴崎さんがみてる』を通して《百合に触れたことがないライトノベル読者にも、百合の素晴らしさを届けたい》《1人でも多くの読者が百合の沼に引きずり込まれてほしい》という狙いを語っている。

はたして、その目的は果たされているだろうか?

結論から言う――これもまた、明確に「NO!」だ。

なぜならば『琴崎さんがみてる』における「百合」は、

あくまでも作者の分身である男性主人公が、自分好みの美少女を独占するための口実でしかなく、

じつのところ、作品自体のテーマとは何の関係もないからだ。

その事実は、けっして下衆の勘繰りなどではなく、他ならぬ原作者・弘前龍自身のインタビューに明らかである。ふたたび『百合ナビ』の記事を引用しよう。

YouTube版では語り部的な立ち位置の琴崎さんでしたが、小説版では琴崎さんの男性に対するトラウマをはじめとした暗い過去などにも触れており、一人の人間として深く掘り下げる内容となっております。
・小説版の主人公は男性ですが、百合を愛する同志として、ただ一人、琴崎さんの傍にいることを例外的に許された存在です。

裏を返せば【新堂瑛人】が〈男性〉でありながら《ただ一人、琴崎さんの傍にいることを例外的に許され》るためには、まず共通の趣味となる「百合」が必要となる。

とはいえ男女が同じ趣味を共有するということであれば「百合萌え」でなくとも、アイドルの追っかけだろうと登山だろうとフォークソングだろうと、他の趣味でもじゅうぶん成り立ってしまう。このままでは【瑛人】が【琴崎さん】の「傍」まで接近することはできても《ただ一人》《例外的に許され》るという寡占的・特権的立場を獲得するには弱い。

そこで原作者・弘前龍は、【琴崎さん】に「男性に対するトラウマを植えつけることによって、主人公以外の〈男性〉を排除することを可能とした。そしてダメ押しのごとく二人が通う学校には《全寮制オンリーの女子校から、自宅からの通学を含めた共学化への移行。》によって《お嬢様あふれるクラスに男子は俺一人という稀有なこと極まりない状況》が設定されている。

そして「百合」の世界観においても〈男性〉が必要とされないことから、同時に【琴崎さん】が〈男性〉から逃避する口実としても「百合」が機能することになる。

言い換えるなら【琴崎入愛】の人物造形において――というより、むしろ【新堂瑛人】が【琴崎入愛】を独占するという目的において「女性の百合萌え」と「男性に対するトラウマ」は、どうあっても不可分なのである。

そのような本作のテーマとは、やはりこれまで見てきたとおり

《女は男を愛するべきである》《男を愛することが女の成熟である》という異性愛至上主義と男尊女卑に他ならない。

じじつ【琴崎さん】が抱えていた「男性に対するトラウマ」「百合」によっては癒されず、ただ「男(新堂瑛人=作者の分身)」を愛することによってでしか癒されない。

作品世界の中で「百合」すなわち女同士の愛は、それこそペットボトルのフタさえも男の手を借りなければ開けられないほどの、無力かつ卑小な現実逃避の手段にしかなりえていないのである。

じじつ本作の主人公たちは「百合好き」を自認しながら、その「百合」に対する評価と言えば、やれ美しいだの尊いだのといった表層的な次元に留まり、

なぜ異性愛者である自分たちが、女性間の同性愛を肯定する物語に惹かれ、追い求めずにはいられないのかといった根源的な問題については、いっさい省みられることがない。

従来、百合作品――ここではゼロ年代マリみて』ブーム以降に隆盛した現在進行形の作品群を指す――に登場する男性キャラクターは多くの場合、女性キャラクター同士の恋愛を引き立てるための“当て馬”という位置づけがなされてきた。

裏を返せば、女性キャラクター同士の恋愛に男性キャラクターが絡むという設定自体は百合作品の定石ともいえる。kujira『GIRL×GIRL×BOY 乙女の祈り』、月子『彼女とカメラと彼女の季節』、しおやてるこ『レモネード』などが思い浮かぶし、

さらにいえばゼロ年代以降の百合文化を牽引した『マリア様がみてる』『青い花』『citrus』などがモロにそのパターンだった。

すなわち百合コンテンツのユーザーたちは『琴崎さんがみてる』について、たんに百合作品に男性キャラクターが登場するというだけの理由で拒絶していたわけではない。しばしば「百合に男が絡むなんて」といった短絡的な物言いも見かけるけれど、それは言葉の綾というものであり、誤解がないよう、くれぐれも強調しておかなければならない。

しかるに『琴崎さんがみてる』が批判されるべき理由とは、

そうした男性の異性愛者を“当て馬”に留めず、作品の主人公に据えた点に集約される。

たとえば前述した【瑛人】が見知らぬ女子からキスされる件には、

それを見た同性の親友の嫉妬心を煽情することで、二人は晴れて「百合カップル」になるという、これまた“お決まり”のオチがつく。

言い換えるなら、この二人の女性キャラクターはその片方が【瑛人】にキスした時点では「親友」の状態であり「恋人」の関係ではなかったわけが、

しかし作品のコンセプトと世界観に照らし合わせて、彼女たちが「百合カップル」になることは容易に想定できる展開であり、

なおかつ〈男性〉である主人公の立場からそのような女性同士の関係性に介入するという「ラッキースケベ」の趣向は、

やはり「百合に挟まりたい・混ざりたい男」の亜種でしかないのだ。

そして対するヒロイン【琴崎入愛】もYouTubeの時点では――〈同性愛者〉とまではいかなくても――少なくとも〈非異性愛者〉であったのに対し、

小説化に際して〈異性愛者〉という後付けの設定が加えられた。

【琴崎さん】が〈異性愛者〉であったという設定が、たとえ原作者の言うようにシリーズ制作当初からの構想であったとしても、

作品発表の時系列を追っていくと、ユーザーの立場からすれば、やはり性的指向が〈非異性愛者(≒同性愛者)〉から〈異性愛者〉へと転向したとしか捉えられないのである。

したがって『琴崎さんがみてる』という作品の世界観の基幹を成すのは、どこまでいっても男性主人公とヒロインの「異性愛であり、

むしろ「百合」こそが『琴崎さんが見てる』という作品世界における男女のラブロマンスを引き立てるための“当て馬”にすぎないといえる。

『琴崎さんがみてる』は、さしずめそのような異性愛至上主義と男尊女卑の下に「百合」の存在価値を貶める作品だ。

そのようなものを通して「百合の素晴らしさ」が伝わることは、金輪際ありえないと断言できるし、

また仮にそのようなものによって「百合の素晴らしさ」に目覚めたという人がいたとしても、それはやはり異性愛至上主義に都合の良い「百合」のありようでしかないだろう。

もっとも、周知のとおり百合コンテンツの女性作家および女性ユーザーの大半は、いわゆる「レズビアン当事者」ではなく、異性愛者の女性たちである。

その意味で、女性異性愛者である【琴崎さん】が「百合」を嗜好することは、むしろ“現実的”ですらある。

しかし現実社会の力学に目を向けるのであれば、たとえ【琴崎さん】の性的指向や【瑛人】の性自認がどうあろうと、異性をパートナーとして選ぶからには、その誰しもが「異性愛者」としての社会的・政治的特権性から免れることはできない。

『百合ナビ』のインタビューにおいて原作者・弘前龍は主人公である【新堂瑛人】というキャラクターについて《自分自身が男であることに起因する「肉欲」への忌避感や罪悪感》を抱えた人物と語っていたが、

その「苦悩」を解消するにあたって弘前は、

あろうことか「女」の方から求めてきた(のだから仕方がない)という姑息なエクスキューズ――性加害者の典型的な言い分!――に逃げ、

そうした自身のアイデンティティにかかわる本質的な問題からは、とうとう目を背けたままである。

けっきょくのところ弘前龍という作家は、

自身が〈男性〉であり〈異性愛者〉であるという特権的な立場から「百合」を消費する行為の“業”と真摯に向き合うことなく、

たんに百合萌えなどと称する手前勝手な「肉欲」を満たすことしか頭になかった。

その“甘え”“驕り”こそが『琴崎さんがみてる』のもたらした一連の“惨状”の根源である。

(追記に続く)